第百十話 帰ることはできない
翌朝、ティセラは再び娘たちの部屋にいた。
昨夜は雑談の輪へそのまま居残っていたが、今日は違う。記録板を膝に置き、ネイラとルヴァナ、それぞれのアバターを交互に見ている。
ネイラは椅子へ座り、ルヴァナは巨大寝台の端へ腰掛けていた。
クロエとアスラもいる。
リーゼは入口近くで腕を組んでいた。
「教授。今日は本当に研究なのだな?」
「はい」
「昨日のように、途中から家族の昔話を聞いているだけにはならないな?」
「保証はできません」
「保証しろ!」
ティセラは気にせず、ネイラへ視線を戻した。
「確認します。現在ここにいるネイラは、向こう側にいる本体とは別個に動いている存在ではないのですね?」
「はい」
ネイラが自分の手を見る。
指を曲げる。
開く。
「この身体を動かしているのは私です。向こうの身体から、こちらへ意志を送っています」
ルヴァナも片手を上げる。
「こっちに別のあたしがいるんじゃなくて、今しゃべってるのもあたし」
リーゼが眉を寄せた。
「意志を送る、というのがまだ小官には分かりづらい」
クロエが説明した。
「操縦に近いが、操縦桿を握っているわけではない。ネイラ自身の意思決定をこちらの身体へ通している」
「遠隔操作か?」
「近い。ただし、視覚、聴覚、触覚、身体感覚も戻る。本人からすれば、こちらの身体を自分の身体として使っている状態だ」
リーゼはネイラを見る。
「つまり、貴様は今、向こう側にある自分の身体ではなく、この身体を自分だと感じている?」
「はい」
ネイラは迷わず答えた。
「少なくとも接続している間は」
ルヴァナも頷く。
「普通にこっちにいる感じだよ。歩くのも、食べるのも、痛いのも、全部あたし」
シズクが不思議そうに二人を見る。
「では、眠る時はどうなるのです?」
アスラが答えた。
「方法はいくつかある。向こうの身体の睡眠へ合わせて接続を切ることもできるし、こちらのアバターだけを休止させることもできる」
「だから寝台も置いたんですね」
「そういうことだ」
ルヴァナが巨大寝台を振り返った。
「でかすぎるけどね」
リーゼがすぐ言う。
「それについてはもう諦めろ。小官も諦めた」
「大尉が諦めた!」
「嬉しそうに言うな!」
ティセラは記録板へ何かを書いた。
「では、娘二人は意志そのものを継続的にこちらへ送っている。一方で、クロエとアスラは違う」
クロエが頷いた。
「違う」
アスラも腕を組む。
「私たちの側は、向こうにいるものを直接動かしているわけではない」
シズクが首を傾げた。
「向こうにも、お二人がいるのですか?」
ネイラが答えた。
「います」
リーゼがネイラを見る。
「いる?」
「クロエ母さんのバックアップから動いているアバターと、アスラ母さんの魔術核から動いているアバターが、向こう側にいます」
「待て」
リーゼがクロエを見る。
こちらにもクロエがいる。
次にアスラを見る。
こちらにもアスラがいる。
「貴様らが、向こうにもいるのか?」
クロエは少し考えてから言った。
「私そのもの、と言うと正確ではない」
「では何だ」
「私のバックアップ情報を基準に起動した別個体だ。私が今ここから操作しているわけではない」
アスラも続ける。
「私の方も似たようなものだ。魔術核に保存された情報を基礎にして、向こうで動ける身体を作ってある。あちらの私は、あちらの判断で動く」
リーゼの眉間に皺が寄る。
「つまり、貴様らは二人ずついる?」
「そう単純でもない」
「もう十分複雑だ!」
ルヴァナが笑った。
「でも、普通に家にいるよ。クロエ母さん側のアバターも、アスラ母さん側のアバターも」
「普通に?」
「うん。話すし、ご飯も一緒にいるし、家のこともするし」
ネイラが補足した。
「ただし、ここにいる二人と経験を完全に共有しているわけではありません」
ティセラの手が止まった。
「そこです」
全員が教授を見る。
「それを確認したかったのです。完全な別個体なら、向こう側にいるクロエとアスラは、こちらの状況を知らないはずです」
「でも知ってるよ」
ルヴァナが言った。
「全部じゃないけど」
クロエが頷いた。
「情報の一部は通る」
「どの程度です?」
「安定しない」
クロエは自分のこめかみを指で叩いた。
「短い情報。強く残った記憶。現在の身体状態。そういうものなら、断片的に向こうへ届くことがある」
アスラも言う。
「私も同じだ。魔術核との繋がりが完全に切れているわけではない。ここで私が生きていることや、最近あった出来事の一部は向こう側のアバターへ流れている」
ネイラが言った。
「だから私たちは、母さんたちが生きていること自体は分かっていました」
ルヴァナも頷く。
「向こうのクロエ母さんとアスラ母さんが教えてくれるからね。今日も生きてる、怪我してない、なんか変なことしてる、って」
アスラが眉を寄せる。
「最後は何だ」
「だいたい合ってるじゃん」
「否定しづらいな」
リーゼがクロエを見る。
「では、黒のことも向こうへ伝わったのか?」
クロエはネイラを見る。
ネイラが少し笑った。
「『巨大な黒い馬が来た』程度でした」
ルヴァナが即座に言う。
「あれ、全然足りなかったからね!」
エヴァが笑った。
「馬だぞ」
リーゼが振り返る。
「貴様は黙れ!」
ルヴァナもエヴァを指差す。
「あたし、こっち来る前は、でかい馬って聞いても普通に大きい馬だと思ってたから!」
「黒は大きいぞ」
「家よりでかいとは聞いてない!」
「そこまで送れなかったんだろ」
クロエが頷いた。
「情報量を増やすほど崩れる。大まかな意味だけなら比較的通るが、細部ほど雑音に埋もれる」
ティセラは今度はアスラを見る。
「魔術側も?」
「ああ」
「電気的な通信だけの問題ではない」
「違うな」
クロエが即答した。
「私の方式とアスラの方式は原理が違う。それでも同じ方向で同じような問題が出ている」
リーゼが腕を組み直した。
「ならば、娘二人がこちらへ来る方はどうなのだ」
ネイラが答える。
「安定しています」
「今見ているから、それは分かる」
「情報量もかなり多いです。少なくとも、こちらで生活する程度なら問題ありません」
ルヴァナが自分の腕を振る。
「走れるし、食べられるし、風呂も入れるし、黒にびっくりできるし」
「最後は機能ではない」
「ちゃんとびっくりしたから必要な機能だよ」
リーゼは無視した。
「娘たちの側から谷底へは通る。谷底から娘たちの側へは、情報の断片しか通らない」
「そうなります」
ティセラが答えた。
リーゼはクロエを見る。
「なら、貴様自身の意志を向こうのアバターへ送れば帰れるのではないか?」
部屋の空気が少し変わった。
クロエはすぐには答えなかった。
代わりにアスラが鼻を鳴らす。
「それができれば、とっくに試している」
「できないのか」
「できない」
クロエが答えた。
「試した」
ネイラの表情が少し硬くなる。
リーゼも気づいた。
「危険だったのか?」
「危険というより、成立しなかった」
クロエは淡々としている。
「こちらから向こうへ自分の意志を連続して送ろうとすると、雑音が多すぎる。短い情報なら届く。だが、自分自身として動き続けるための情報量を送ると崩れる」
リーゼが顔をしかめる。
「途中で別人になる?」
「そこまで行く前に切った」
「切って正解だ」
ノアが静かに言った。
クロエも頷いた。
アスラが続ける。
「私も魔術核へ戻ろうとしたが同じだ。術式そのものは繋がる。短い記憶も渡せる。だが、自我を連続させようとするとノイズが増え、術式が維持できなくなる」
ルヴァナが少し不満そうに言った。
「だから、こっちからは会いに来れるのに、母さんたちは帰ってこれない」
ネイラも静かに頷く。
「今のところは」
シズクはその言葉を聞いて、しばらく考えていた。
「不思議ですね」
リーゼが答える。
「不思議で済ませていい話ではないがな」
「でも、方向が決まっています」
シズクは手を使って示した。
「向こうから、こちらへは来られる。こちらから、向こうへは戻れない」
ティセラが頷いた。
「そこが重要です」
エヴァが、それまで黙って聞いていたノアを見る。
「聖者」
「何?」
「前に言ってたやつ」
ノアは少し考えた。
「受け止める力?」
「ああ、それ」
シズクがエヴァを見る。
「受け止める力?」
エヴァがシズクへ向き直った。
「前に、お前が自分の落ちた滝を見に行った時に話しただろ。谷底には、落ちてくる者を受け止めるものがあるって」
シズクは思い出した。
「はい。エヴァは、その時は詳しく教えてくれませんでした」
「あれ、正確には聖者の推測だ」
「推測なのですか?」
「俺が知ってるわけねえだろ。俺も落ちた側だ」
リーゼがノアを見る。
「どういう考えだ?」
ノアはしばらく言葉を選んだ。
「僕にも何があるのかは分からないよ。ただ、ずっとおかしいとは思ってる」
「何が?」
「高さ」
ノアは窓の外を見る。
谷底からは、巨大な断崖の上端を見ることすらできない。
「シズクもそうだけど、みんなあまりにも高いところから落ちてきている」
リーゼが頷く。
自分自身も飛行機ごと落ちてきた。
クロエとアスラも、巨大な裂谷へ落ちた。
エヴァも魔界大穴へ投げ込まれている。
ノアは続けた。
「水へ落ちたから助かった、だけでは説明できないと思うんだ」
シズクが聞く。
「水では駄目なのですか?」
「低いところなら助かることはある。でも、あれほど高い場所からなら、水だって柔らかい布団みたいには受け止めてくれない」
ノアは自分の掌へ反対の拳を軽く落とした。
「速すぎれば、ぶつかる瞬間の衝撃が大きすぎる。治癒する水があったとしても、その前に身体がもっと壊れていないとおかしい」
エヴァが頷く。
「俺なんか落ちる前からボロボロだったしな」
「だから僕は、どこかで落下の勢いを弱める何かがあるんじゃないかと思ってる」
リーゼが眉を寄せる。
「空気?」
「分からない」
「魔力?」
「それも分からない」
ティセラが口を挟む。
「確認できた現象ではなく、状況から必要になる仮説ですね」
「うん。そういうこと」
ノアはすぐ認めた。
「滝の途中に何かあるのか。谷全体なのか。もっと別の仕組みなのかも分からない。ただ、みんながここへ落ちてきて生きている以上、どこかで勢いが削られているんじゃないかって」
エヴァが笑う。
「だから俺はシズクに、受け止めるものがあるって言った」
シズクは巨大な滝を思い出していた。
自分がそこから落ちた。
今でも、あの高さを見れば生きていること自体が信じられない。
リーゼは少し考えた後、娘二人を見る。
「それと、この通信が関係していると?」
ノアはすぐには頷かなかった。
「分からない。ただ、似て見えるとは思う」
「似ている?」
「外から谷底へ来るものは、何かに受け止められる。娘たちの意志も、向こうからこちらへは安定して届く」
ノアはクロエを見る。
「でも、ここから外へ戻そうとすると崩れる」
クロエが目を細める。
「谷底側が受ける方向へ働いている?」
「そういう性質があるなら、だけどね」
ティセラがすぐに言った。
「現時点では関連性を示す証拠はありません」
「うん。そこは大事」
リーゼが教授を見る。
「珍しく聖者より先に釘を刺したな」
「仮説と観測結果は分けるべきです」
「教授らしい」
クロエは腕を組んだ。
「だが、電気系統でも魔術系統でも同じ方向性が出る理由としては、検討する価値がある」
アスラも頷く。
「少なくとも、私とクロエの術式だけの欠陥ではない可能性は高い」
ルヴァナが手を上げる。
「つまり、谷底って来るのは歓迎するけど、帰るのは嫌がるってこと?」
リーゼが即座に答えた。
「場所に人格を持たせるな!」
エヴァが笑う。
「分かりやすいけどな」
「貴様まで乗るな!」
ネイラは少し考えてから言った。
「でも、実用上はそう整理しておいた方がよさそうですね」
「貴様まで!」
「来る方向の通信は安定。出る方向は不安定。原因は未確認。現時点では親側の意志転送は禁止」
クロエが頷く。
「それでいい」
アスラも珍しく素直に同意した。
「無理に戻ろうとして壊れるくらいなら、試さない方がいい」
ルヴァナが二人を見る。
「母さんたち、本当に帰ってこないの?」
アスラが娘を見る。
「帰らない、ではない。今の方法では帰れないだけだ」
クロエも言う。
「向こうには、私たちの代わりに動けるものがいる。完全ではないが、こちらの情報も送れる」
ネイラが小さく頷く。
「私たちも、こちらへ来られます」
「なら今はそれでいい」
クロエの言葉は短かった。
ルヴァナは少しだけ不満そうだったが、アスラが頭を撫でると何も言わなくなった。
ティセラは記録板へ最後の一行を書いた。
リーゼが横から覗く。
「何と書いた?」
「現在確認されている接続は、方向によって性質が異なる。娘二人は本体から谷底側アバターへ意志を転送できる。クロエとアスラは、向こう側に独立したアバターを維持し、一部情報のみを送信できる。ただし谷底側からの意志転送は、強いノイズにより成立しない」
「今回はまともだな」
「いつもまともです」
「それは議論の余地がある」
エヴァが笑った。
ノアは娘二人の部屋を見回した。
接続設備。
電線。
魔法陣。
巨大寝台。
ネイラの図面。
ルヴァナの服や手袋。
この部屋では、向こうから谷底へ来ることが、もう日常になり始めている。
帰る道は、まだ同じようには通らない。
それでも完全に切れているわけではない。
向こうには、クロエとアスラの情報から動く二人がいる。
こちらには、本物のクロエとアスラがいる。
娘たちはその間を、自分の意志で行き来できる。
そして、細く、途切れ途切れではあっても、親たちが元気でいるという情報は向こうへ届く。
シズクが静かに言った。
「不思議な家族ですね」
リーゼが頷く。
「それについては、今さらだ」
クロエとアスラが同時にリーゼを見る。
「何だ」
「何か言いたいのか」
リーゼはすぐ首を振った。
「今日は言わん。これ以上話を増やすと、教授がまた記録を始める」
ティセラはすでに記録板へ手を伸ばしていた。
リーゼが叫ぶ。
「言ったそばから書くな!」
部屋に笑い声が広がった。
帰れないことは変わらない。
だが、少なくとも今は、互いが生きていることを知る方法がある。
そして娘たちには、会いに来る方法がある。
それなら無理に答えを急ぐ必要はない。
谷底では、分からないものを無理にこじ開けるより、使えるものを安全に使う。
それもまた、ここで暮らすために身についたやり方だった。




