第百七話 工作室
朝食の後、ノアはネイラを工作室へ連れていった。
谷底で使う道具の修理、木材や金属の加工、水車発電機の予備部品の製作などを行うための部屋である。もともとはノアが一人で使っていたが、リーゼが来てから工具と図面が増え、ティセラが魔法関係の測定器を持ち込み、今では棚ごとに用途を決めなければ何がどこにあるのか分からなくなりつつあった。
ネイラは入口で立ち止まり、室内を見回した。
「ここが工作室ですか」
「そう。危ないものもあるから、最初に説明するね」
ノアが棚を指差していく。
刃物。
熱した金属を扱う道具。
研磨用の砥石。
水車から引いている電力を試験するための配線。
リーゼが作った簡単な開閉器。
ティセラの魔力測定用の魔宝石。
そして、まだ実用品になっていない試作品の山。
ネイラは一つ一つを黙って見ていた。
その表情を、少し後ろからシズクが見ている。
シズクが小声で言った。
「聖者」
「何?」
「気をつけた方がよろしいかもしれません」
「何に?」
「あの顔です」
ノアがネイラを見る。
特に変わった顔には見えない。
清楚で、真面目で、落ち着いている。
「普通に見えるけど」
「以前、お風呂の水路について尋ねていた時も、あのような顔でした」
シズクは知っていた。
ネイラが何かの仕組みへ興味を持った時、目つきがほんの少しだけ変わる。
本人は平静。
しかし視線だけが、物の外側ではなく、その内側を見ようとしている。
「なるほど」
ノアも少し警戒した。
そこへリーゼが入ってきた。
「説明は終わったか?」
「だいたい」
リーゼはネイラを見た。
「いいか。電気が通っているものには勝手に触るな。配線を外す時は必ず確認しろ。回転している機械へ手を入れるな。分からんものは小官か聖者へ聞け」
「はい」
返事は非常に良い。
リーゼは満足そうに頷いた。
「よし」
ルヴァナが入口から顔を出した。
「大尉、それで安心しない方がいいよ」
リーゼが振り向く。
「何だ?」
「姉ちゃん、たぶんもう何か分解したい」
「まだ説明を始めたばかりだぞ!」
ネイラが妹を見る。
「失礼ですね。勝手には触りません」
「じゃあ触りたいの?」
「触りたいです」
「ほら」
リーゼが頭を抱えた。
クロエとアスラも後からやってきた。
クロエは室内へ入るなりネイラを見る。
「何を見ている」
「発電機です」
「もう見つけたか」
リーゼが嫌そうに振り返る。
「何故、母親が当然のように言う!」
クロエは首を傾げた。
「ネイラだからな」
アスラも頷く。
「壊れている物なら渡してやればいいだろう」
「壊れている物を渡したら、さらに細かくなるだろ!」
ノアは苦笑しながら、工作台の端に置いてあった小さな装置を持ち上げた。
「じゃあ、これならいいかな」
それは水車発電機を作る途中で試した、小型の手回し式発電機だった。
今使っている主発電機とは別物で、試験用に作ったものだから、配線にも繋がっていない。
リーゼが見る。
「ああ、それなら構わん。もう使っていない」
ネイラが受け取る。
片手で回転軸を回す。
反対側を見る。
端子を見る。
外装を見る。
「開けても?」
リーゼは念を押す。
「戻せるならな」
「分かりました」
五分後。
リーゼが叫んだ。
「分解が早い!」
工作台の上には、軸、歯車、金属板、線材、留め具、磁石、その他の小部品が整然と並んでいた。
ノアまで驚いている。
「もうそこまで?」
ネイラは平然としている。
「複雑ではありませんから」
「いや、それ僕とリーゼで何日も試しながら作ったんだけど」
「構造は単純です」
リーゼの眉が動いた。
「貴様、聖者と小官の苦労を単純の一言で片づけたな?」
「悪い意味ではありません。目的に対して必要な構造が明確です」
「言い直しても刺さる!」
クロエは娘の手元を覗き込んだ。
「どうだ」
「古い方式ですが面白いです」
リーゼがさらに傷ついた。
「古いと言った!」
ルヴァナが笑う。
「大尉の世界より姉ちゃんの世界の方が進んでるんだから仕方なくない?」
「分かっている! 分かっているが、目の前で言われると腹が立つ!」
アスラは発電機の部品を見てもよく分からないらしい。
「これで電気を作るのか?」
「回転を電気へ変えます」
ネイラが答える。
「母さんたちの世界にも似た原理のものはあります。ただ、これはかなり直接的ですね」
「直接的?」
「回す。磁界が変わる。電気が出る。分かりやすいです」
ノアが少し笑った。
「僕も、そこが好きなんだよね」
リーゼが腕を組む。
「仕組みが目で追える機械は良い」
ネイラが頷いた。
三人の意見が一致した。
アスラがクロエへ小声で言う。
「急に会話へ入れなくなった」
「私もだ」
「貴様、機械側だろう」
「分かるのと、あの三人の楽しみ方が同じかは別だ」
工作台では、ネイラが部品を一つ手に取っていた。
「ここ、少しずれていますね」
リーゼが覗く。
「どこだ?」
「軸の中心です。回転した時に僅かに擦れています」
「それは知っている。手工具だけでは精度が出なかった」
「こちら側を少し削れば合います」
ノアも見る。
「でも削りすぎると緩くならない?」
「この程度なら大丈夫です」
ネイラは紙を取り、簡単な図を描いた。
クロエ譲りなのか、説明は非常に簡潔だった。
リーゼが図を見る。
ノアも見る。
二人が顔を見合わせる。
「……いけそうだな」
「僕もそう思う」
リーゼは砥石を渡した。
「やってみろ。ただし少しずつだぞ」
「はい」
十分ほど後。
再び組み上がった発電機を、ネイラが回した。
以前より回転が軽い。
リーゼが計器を繋ぐ。
「もう一度」
ネイラが一定速度で回す。
リーゼが針を見る。
「……上がっている」
ノアも覗き込む。
「ほんとだ」
「回転抵抗が減った分ですね」
ネイラは当たり前のように言った。
リーゼは発電機を見る。
ネイラを見る。
もう一度発電機を見る。
「貴様、初めて見た機械だよな?」
「はい」
「分解したな?」
「はい」
「組み直したな?」
「はい」
「性能を上げたな?」
「少しだけです」
リーゼは両手を机についた。
「小官と聖者が苦労して作った試作品を、初見の学生がちょっと削って改良した……」
ルヴァナが楽しそうに言う。
「姉ちゃん、今は大学生だよ」
「その情報で傷を深くするな!」
ネイラが申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも、この発電機は良いと思います」
リーゼが顔を上げる。
「慰めか?」
「いいえ。本当に。私のところでは、こういう構造を一から手作業で作ることはあまりありません。完成品や工作機械を使うことの方が多いので」
ノアが少し興味を持った。
「じゃあ、逆にこういうものは珍しい?」
「はい。材料の制限に合わせて、木、金属、魔宝石まで組み合わせているのも面白いです」
ティセラがちょうど入ってきた。
「魔宝石?」
リーゼが嫌な顔をする。
「教授、そこだけ聞きつけてくるな」
ティセラは改良された発電機を見た。
「何をしたのです?」
「ネイラが分解した」
「分解したのですか」
「そして戻した」
「戻せたのですね」
「性能まで上がった」
教授の目が輝いた。
リーゼがすぐ指を差す。
「その顔をするな! これ以上、研究者を増やすな!」
ネイラはティセラへ発電機の内部構造を説明し始めた。
ティセラは魔力変換の話へ持っていく。
ノアは電力側の話をする。
リーゼは回転数と出力の話を始める。
気づけば四人で工作台を囲んでいた。
少し離れたところで、ルヴァナがクロエへ言う。
「姉ちゃん、完全に居場所見つけたね」
「ああ」
アスラも腕を組む。
「まあ、楽しそうならいい」
シズクは工作台の上を見た。
そこには、さっきまで一台だった装置の横に、いつの間にか別の部品が並び始めている。
「……また何か分解するのでしょうか」
クロエが答えた。
「するだろうな」
「止めなくてよろしいのです?」
「戻すから問題ない」
その瞬間。
リーゼの声が飛んできた。
「問題ある! 今度は許可を取れ!」
ネイラが振り返る。
「では大尉、あちらの箱は開けても?」
リーゼも見る。
水車発電機の予備制御箱だった。
「駄目だ!」
「まだ何もしていません」
「目がもう分解している!」
ルヴァナが吹き出した。
シズクも小さく笑う。
ネイラだけが不思議そうに首を傾げた。
「見るだけです」
リーゼは即答した。
「貴様の『見るだけ』は信用しない!」
ネイラは少し考えた。
それから素直に手を引いた。
「分かりました。今日はやめておきます」
リーゼが安心する。
「そうしろ」
「構造は外からだいたい分かりましたから」
リーゼが止まった。
「…………」
ネイラは微笑んだ。
「分解しなくても問題ありません」
リーゼはしばらく何も言わなかった。
そして、工作室の棚を見回した。
「聖者」
「何?」
「鍵を増やそう」
「そこまで?」
「増やす!」
クロエが娘を見る。
「ネイラ」
「はい、クロエ母さん」
「鍵の構造まで覚えるなよ」
ネイラは一瞬だけ黙った。
リーゼがそれを見逃さなかった。
「今、もう見ただろ!」
「見ただけです」
「うがあああっ!」




