第百五話 せいぜい聖者くらい
昼下がり、リーゼは館のバルコニーで地図を広げていた。
少し離れたところでは、エヴァが椅子へ深く腰を下ろし、干した果実をぼりぼり食べている。さらに館の向こうには畑があり、森があり、そのもっと先の草地には黒がいた。
かなり遠い。
普通の馬なら、もう点にしか見えない距離だった。
だが黒は普通ではないので、普通に見えた。
キマイラと鵺も一緒である。さらに今日は、いつの間にか仲間へ加わっていたユニコーンとペガサスまでいる。あの一帯だけ、生き物の大きさを決める物差しが別になっているようだった。
リーゼは地図から顔を上げ、黒を眺めた。
しばらく眺めた。
それから、妙に言いづらそうな顔でエヴァを見た。
「なあ、エヴァ」
「あ?」
「貴様、前に、そのなんだ……拷問で馬とか熊とか犬とか言ってたよな」
エヴァの手が一瞬だけ止まったが、それだけだった。
「ああ。そうだが、どうした?」
昔、捕虜だった頃の話である。
何をされたか、その詳細をリーゼが今さら聞きたいわけではない。エヴァ自身が望んだことではなかった。それは分かっている。
問題は、黒が現れたことで、リーゼの頭の中に別の疑問が生まれてしまったことだった。
リーゼは右腕を伸ばした。
人差し指の遥か先には。
黒。
「馬って……あれか?」
エヴァも指先を見る。
黒を見る。
リーゼを見る。
もう一度黒を見る。
「おいおい、それは無理だろ」
リーゼの肩から一気に力が抜けた。
「だよなー」
椅子の背もたれへ身体を預ける。
「よかった。そこは小官の知っている世界だった」
「いや、黒はでかすぎるだろ。せいぜい聖者くらいだぞ。犬と熊もだいたいおんなじ」
「だよなー……」
リーゼは頷いた。
そのまま数秒止まった。
ゆっくりエヴァを見る。
「…………は?」
エヴァが同じ調子でもう一度言った。
「せいぜい聖者くらいだぞ。犬と熊もだいたいおんなじ」
「二回繰り返すなー!」
リーゼが机を叩いた。
「何でだよ。聞こえなかったのかと思って」
「聞こえたから止まったんだ!」
ちょうどその時、バルコニーの下をノアが通りかかった。
大きな木材を肩に担いでいる。
二メートルを超える巨体だった。
リーゼが勢いよく指差す。
「聖者だぞ!?」
エヴァも見る。
「聖者だな」
「馬があれくらいなのか!」
「ああ」
「犬も!?」
「ああ」
「熊も!?」
「ああ」
下からノアが見上げた。
「僕がどうかした?」
リーゼが身を乗り出す。
「聖者は気にしないでくれ! 今、貴方が大きさの単位になっている!」
「僕一人分?」
「そうだ!」
「何を測ってるの?」
「知らない方がいい!」
「分かった」
ノアは素直に去っていった。
リーゼはその背中を見送り、それからエヴァへ向き直った。
「貴様のところの生き物はどうなっている!?」
「普通だぞ」
「普通ではない!」
エヴァは不思議そうに首を傾げた。
「馬は荷物を引けるし速い。犬は小回りが利くし、熊は自分だけで戦えるから心強いぞ」
リーゼが止まった。
「待て」
「何だ?」
「熊だけ説明がおかしい」
「そうか?」
「何で乗り物の説明をしていたのに、突然『自分だけで戦える』になる!」
「熊だからな」
「熊を兵士として数えるな!」
「騎手が落ちても熊だけで戦えるぞ」
「余計に兵士じゃないか!」
エヴァは笑う。
「犬もいいぞ。森や細い道なら馬より小回りが利く」
「まさかと思うが」
「何だ?」
「犬にも乗るのか」
「乗るぞ」
リーゼは額を押さえた。
「犬騎兵がいるのか……」
「いる」
「熊騎兵も?」
「いる」
「いるのかよ!」
「熊は乱戦に強いぞ」
「軍事的な有用性を淡々と語るな!」
リーゼは遠い目をした。
自分の知っている騎兵。
エヴァの知っている騎兵。
同じ言葉を使ってはいけない気がしてきた。
「待てよ」
リーゼの顔が変わった。
「貴様、以前、砦だの城だのを魔物が殴り飛ばすとか言ってなかったか?」
エヴァは即答した。
「殴り飛ばすぞ」
「やっぱり言ってた!」
「でかい奴ならな」
「城を!?」
「城壁も」
「拳で!?」
「拳でも壊すし、武器を持ってる奴ならもっと早い」
リーゼが両手を広げた。
「攻城兵器は!?」
「あるぞ」
「ならそれを使え!」
「オーガ本人が攻城兵器より強い時もある」
「兵器の存在意義!」
エヴァは何でもない顔をしている。
リーゼは黒を見る。
もう一度エヴァを見る。
「黒の仲間の軍馬も、何頭もいたんだよな?」
「いるぞ。黒みたいにでかいのはいないけどな」
「聖者くらいの馬が何頭も?」
「ああ」
「犬も?」
「いる」
「熊も?」
「いる」
リーゼは両手で頭を抱えた。
「それだけで十分、魔物の軍団だ!」
「ただの騎兵と軍用獣だろ」
「貴様の国の『ただの』は禁止だ!」
エヴァは指を折りながら数える。
「騎兵、犬騎兵、熊騎兵、歩兵、弓兵――」
「聞けば聞くほどおかしい!」
「それでオーガが来る」
「やめろ! 嫌な予感しかしない!」
リーゼは慌てて尋ねた。
「そのオーガはどのくらいだ!」
エヴァは、先ほどノアが歩いていった方向を見る。
次に、遥か遠くの黒を見る。
「聖者くらいから黒くらいかな」
リーゼも同じ順番で見る。
ノアの消えた方向。
黒。
ノアの消えた方向。
黒。
「幅がありすぎる!」
「オーガは個体差でかいからな」
「個体差で済ませる範囲じゃない!」
「強い奴ほどでかくなるし」
「またそれか!」
エヴァは自分の腕を見る。
「俺らもそうだぞ」
「貴様ら人間までそうなのが一番怖い!」
エヴァ自身、谷底へ来たばかりの頃より明らかに大きくなっている。
捕虜生活で衰弱していた時には身体そのものが縮み、力を取り戻すにつれて筋肉だけではなく骨格まで大きくなってきた。
エヴァにとっては普通。
リーゼにとっては、何度聞いても普通ではない。
「つまりだ」
リーゼは指を立てて整理を始めた。
「貴様らの城には、聖者くらいの軍馬が何頭もいる」
「ああ」
「聖者くらいの犬もいる」
「ああ」
「聖者くらいの熊もいる」
「ああ」
「そこへ聖者くらいから黒くらいまであるオーガが攻めてくる」
「そういう戦もあるな」
リーゼの目が細くなった。
「そのオーガはどうする」
エヴァは少し考えた。
「そいつらごと殴る」
「…………」
「馬も犬も熊も」
「…………」
「まとめて飛ばして、城壁にぶつける」
リーゼの口が開いた。
「…………」
「当たりどころが悪いと城壁も壊れる」
「軍用獣を砲弾にするなー!」
「俺に言うな。オーガがやるんだから」
「それで城も殴るのか!」
「殴るぞ」
「何で城が拳で壊れるんだ!」
「でかいオーガだからな」
「説明になっていない!」
エヴァはもう完全に笑っている。
リーゼは頭を抱えたまま、さらに嫌なことに気づいた。
「では、貴様の国の砦や城は、それを前提に造られているのか?」
「ああ」
リーゼの手が止まった。
「……は?」
「オーガが来るんだから、城壁は厚くするだろ」
「当然みたいに言うな!」
「門も頑丈にする」
「そこまでは分かる!」
「熊が普通に通れる幅が必要だし」
「急に分からなくなった!」
「軍馬も通るぞ」
「聖者くらいの馬が何頭も通る門!」
「犬騎兵も」
「もう門じゃない! 穴だ!」
エヴァは笑いながら続ける。
「黒を通す時は大変だったぞ」
リーゼが固まった。
「……待て」
「あ?」
「黒も城内へ入るのか」
「軍馬なんだから入るだろ」
「どうやって!」
「大きい門から」
「どれだけ大きい門だ!」
「黒が通れるくらい」
「答えになっていない!」
リーゼはとうとう地図の余白へ何かを書き始めた。
エヴァが覗く。
「何だそれ」
「貴様の世界の大きさ早見表だ!」
そこには、
『ゴブリン・小型オーク――小官』
『馬・犬・熊――聖者』
『オーガ――聖者~黒』
『黒――黒』
と並んでいた。
エヴァはしばらく見た。
「分かりやすいな」
「どこがだ!」
「ゴブリンやオークは、お前くらいだからな」
リーゼが顔を上げる。
「小官なのか!?」
「ああ」
「小官が最小単位!」
「もっと小さい生き物もいるぞ」
「そういう問題ではない!」
リーゼは早見表を見る。
自分。
ノア。
黒。
世界の生物が三段階で分類されつつある。
しかもその間の差が大きすぎる。
「……もう笑うしかないな」
「何が?」
リーゼは遠くの黒を見る。
黒の隣にはキマイラ。
鵺。
ユニコーン。
ペガサス。
どれも同じような巨大さである。
「貴様の故郷から逃げて谷底へ来たら、谷底の生き物まで同じような大きさなの、何なんだ」
エヴァも五頭を見る。
「住みやすいんじゃねえか?」
「貴様にはな!」
その時、黒が走り出した。
キマイラが追う。
鵺も追う。
ユニコーンが楽しそうに並び、ペガサスが翼を広げる。
しばらく遅れて、どどどどどどどどっ、と地響きが館まで届いた。
リーゼはしばらく黙って眺めた。
それから、エヴァを見る。
「貴様、最初に小官が黒を指差して『馬ってあれか?』と聞いた時、笑ったよな」
「ああ」
「今なら分かる」
「何が?」
「黒じゃなくても十分おかしい!」
エヴァが腹を抱えて笑った。
「だから普通の馬は、せいぜい聖者くらいだって」
「その『せいぜい』を二度とつかうなー!」




