第百三話 見かける黒の日常
黒が谷底へ来てからというもの、森を歩いていると、ときどき妙な光景を目にするようになった。
もっとも、谷底には以前から妙なものしかいない。
問題は、その妙な光景の中心に、最近ではかなりの確率で黒がいることだった。
夕方、エヴァとシズクは森での採集を終え、木の実や薬草を詰めた籠を持って館へ戻っていた。
空は赤く染まり、木々の向こうに見える岩山にも夕日が当たっている。
その岩山の前で、シズクが足を止めた。
「エヴァ。あちらに黒がいます」
「ああ?」
エヴァも見る。
かなり離れたところに、巨大な黒い軍馬がいた。
黒は後ろ脚だけで立ち上がっている。
ただ立ち上がっただけでも異様だった。
四本脚で立っている時点で館の平屋部分と同じか、それ以上の高さがある。その黒が後ろ脚だけで立てば、ちょっとした塔だった。
シズクは首を傾げる。
「何をしているのでしょう」
黒は岩山へ身体を寄せた。
ごごごごごっ、と低い音が響く。
岩肌が震え、細かな石が落ちる。
さらに黒が身体を動かす。
どんっ。
岩壁にひびが入った。
また身体を押しつける。
ごりごりごりごり。
岩が削れる。
シズクはしばらく眺めていた。
「……岩山を掘っているのでしょうか」
エヴァは一度見ただけで納得した。
「ああ。違う」
「違うのですか?」
「黒のひとり遊びだ」
シズクは何も言わず、館の方へ歩き出した。
三歩ほど進んでから止まる。
ゆっくり振り返った。
「……何の、とは聞かない方がよいでしょうか」
「分かってるじゃねえか」
「分かりたくありませんでした」
どんっ!
黒の前にあった岩壁の一部が砕けた。
夕日の中、岩屑がぱらぱらと落ちる。
シズクは黒と岩山を交互に見る。
「岩山を使う必要があるのでしょうか」
「黒だからな」
「その説明は、最近とても便利に使われている気がします」
「俺の故郷でも、黒は丈夫な岩壁を探してたぞ」
「故郷でもしていたのですか?」
「ああ」
シズクはもう一度岩壁を見る。
黒が身体を動かすたび、少しずつ岩が削れている。
「岩の方が負けています」
「今日は柔らかい岩なんだろ」
「そういう問題でしょうか」
エヴァは何事もないように籠を持ち直した。
「まあ、近寄らん方がいいぞ」
「それはもちろんです」
「そういう意味だけじゃねえ」
シズクが嫌そうな顔をした。
「まだ何かあるのですか」
「あいつ、興奮してる時は体液も危ねえからな」
シズクの足が止まった。
「どの程度でしょう」
「俺の故郷だと、大地が腐った」
「…………」
「草が枯れる」
「はい」
「弱い獣なら近寄らねえ」
「はい」
「弱い人間がまともに浴びたりしたら、死ぬか、酷いことになる」
シズクは無言で黒から距離を取った。
もう数歩。
さらに数歩。
エヴァが笑う。
「そこまで離れなくてもいいだろ」
「先ほどエヴァが、近寄らない方がよいとおっしゃいました」
「風上なら平気だ」
シズクは風向きを確かめた。
そして、さらに少し遠回りする道へ向かった。
「こちらから帰ります」
「遠回りだぞ」
「構いません」
背後で、また大きな音がした。
どんっ!
岩山に新しい窪みができる。
シズクは振り返らなかった。
「エヴァ」
「何だ?」
「黒は、本当に馬なのですよね」
「ああ」
「確認したくなっただけです」
数日後。
今度はリーゼが、黒の日常を見ることになった。
リーゼとエヴァは地図作りのため、館からかなり離れた場所まで遠征していた。
リーゼが方角と距離、高低差を確認しながら地図へ線を書き込む。
エヴァは周囲の警戒役だった。
崖沿いを進んでいると、下から聞き覚えのある声が響いた。
「ぶひひひひーん!」
リーゼが止まる。
「いるな」
エヴァも崖下を見る。
「黒だな」
続いて。
「ヴォオオオオッ!」
リーゼの眉が寄る。
「やはり後半がおかしい」
その直後、別の声が聞こえた。
「ちょっと! もう少し加減しなさいって!」
リーゼが固まった。
「……今、人の声がしたぞ」
「ああ」
二人で崖下を覗く。
黒がいた。
そして。
黒とほとんど同じくらい巨大な獣もいた。
獅子のような大きな胴。
その前に、獅子の頭。
山羊の頭。
竜のような頭。
後ろには蛇の尾。
リーゼの目が見開かれる。
「……キマイラ?」
エヴァが横を見る。
「知ってるのか?」
「御伽噺だ! 実物がいるとは聞いていない!」
「じゃあキマイラでいいな」
「勝手に決めるな!」
崖下では、黒とキマイラが取っ組み合っていた。
黒が身体を寄せる。
キマイラが押し返す。
巨大な身体同士がぶつかるたび、地面が揺れる。
獅子頭が人の言葉で怒鳴った。
「だから! 別にあんたと一緒にいたいわけじゃないんだからね!」
黒。
「ぶひひーん!」
「何その嬉しそうな声!」
黒が頭を擦りつける。
キマイラは三つの頭で文句を言いながら押し返す。
だが、逃げない。
むしろ黒が少し離れると、獅子頭がすぐに声を上げた。
「ちょっと! どこ行くのよ!」
山羊頭も続く。
「もう少しこっちにいればいいじゃん」
竜頭はさらに直接的だった。
「まだ帰らないでー」
リーゼがしばらく崖下を眺める。
「どう聞いても、嫌がっているようで嫌がっていないな」
エヴァも頷いた。
「ああ」
黒が再び近づく。
キマイラの竜頭が黒へ噛みつこうとする。
黒はまるで気にしない。
山羊頭は黒へ何か話し続けている。
獅子頭は、
「本当にしょうがない奴!」
と怒鳴っているのに、蛇の尾だけは黒の脚へ絡みついていた。
リーゼが額へ手を当てた。
「頭ごとに態度が違いすぎる」
「賑やかでいいじゃねえか」
「貴様は何でも肯定するな」
エヴァはしばらく見た後、何かに納得した。
「あー」
リーゼが嫌な予感を覚える。
「何だ」
「黒、こいつ気に入ったんだな」
「それくらいは見れば分かる」
「よかった」
「何がだ」
エヴァは本当に嬉しそうだった。
「故郷じゃ、黒の相手になれる奴がほとんどいなかったからな」
リーゼが横を見る。
「どういう意味だ」
「黒が発情すると、普通の獣は近寄らねえ」
「先日聞いた」
「匂いだけで逃げる奴もいた」
「それも聞いた」
「でかい雌を何頭かあてがったこともあるんだが、黒が強すぎてな」
リーゼは嫌そうな顔になる。
「詳しく説明しなくていい」
「その日のうちに全部駄目になった」
「聞きたくないと言った!」
エヴァは崖下を眺めながら笑った。
「だから俺も、ちょっと気にはしてたんだ」
黒とキマイラがぶつかる。
どおんっ!
足元の岩が砕けた。
キマイラは文句を言っている。
それでも黒の側から離れない。
エヴァは満足そうに頷いた。
「谷底で、ついに黒の番になれそうな奴が見つかったんだな」
リーゼは少し意外そうにエヴァを見る。
「嬉しいのか?」
「ああ」
エヴァは笑った。
「親友に女ができるってのは、こういう気持ちなんだな」
リーゼが何か返そうとした時だった。
崖下の茂みから。
もう一頭。
現れた。
猿のような頭。
虎のような四肢。
狸のような胴。
長い蛇の尾。
これも大きい。
黒やキマイラよりは少し小さいが、それでも人間から見れば巨大な怪物だった。
リーゼは黙った。
その獣は、非常に上品な女の声で言った。
「黒様。こちらにいらしたのですね」
黒。
「ぶひひーん!」
獣は嬉しそうに頭を下げた。
「まあ。探しておりました」
キマイラの獅子頭が叫ぶ。
「何であんたまで来るのよ!」
「黒様がおられますので」
「だから何なのよ!」
「ご一緒したいだけですが」
「さらっと言うんじゃないわよ!」
黒は二頭の間で満足そうに鼻を鳴らす。
「ヴォー」
リーゼがゆっくりエヴァを見る。
「おかしいだろ」
「何が?」
「何で二匹目がいるんだよ!」
エヴァは崖下を見ている。
「黒、もてるな」
「そこじゃないだろ!」
リーゼは二頭を指差した。
「貴様、黒の体液は大地を腐らせるとか、弱い生き物なら危険だとか言っていただろ!」
「ああ」
「何で平然と二匹も黒の側にいる!」
エヴァは少し考えた。
「強いんだろ」
「その一言で全部済ませるな!」
崖下では。
キマイラの獅子頭が叫んでいる。
「べ、別にあたしが一番とか、そういう話じゃないから!」
新しく現れた獣は、穏やかに答えた。
「私も順位を争うつもりはございません」
「そういう余裕ある言い方が腹立つのよ!」
黒。
「ぶひひーん!」
二頭。
「黒は黙ってて!」
リーゼが両手で頭を抱えた。
エヴァは笑っている。
「仲いいじゃねえか」
「黒を中心に妙な集団を作るな!」
後で姿をシズクへ説明すると、二頭目は彼女の文化圏で語られる「鵺」という怪異にかなり近いらしいことが分かった。
もっとも。
シズクが知る鵺は、人里へ現れれば恐れられる怪物である。
「箱入りのお嬢様のように話す鵺は、聞いたことがありません」
というのがシズクの感想だった。
さらに数日後。
朝。
館の屋根付きバルコニーにいたシズクが、庭の向こうを見て固まった。
「聖者」
ノアが振り返る。
「どうしたの?」
「黒が来ました」
「帰ってきたんだね」
「二匹増えています」
「え?」
全員が外へ出た。
黒がいる。
その右にはキマイラ。
左には鵺。
三頭が並んでいた。
黒だけでも館の平屋部分と比べられるほど大きい。
それが三頭。
リーゼが遠い目をする。
「増えている……」
エヴァは嬉しそうだった。
「連れてきたか!」
黒。
「ぶひひーん!」
キマイラの獅子頭が少し顔を逸らした。
「べ、別に住ませてもらおうなんて思ってないからね! 黒がどうしても来いって言うから来ただけ!」
リーゼが黒を見る。
「本当に言ったのか?」
黒。
「ヴォー」
「分からん!」
鵺は一歩前へ出ると、姿勢を正して丁寧に頭を下げた。
「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。黒様には日頃より大変お世話になっております」
シズクも反射的に頭を下げる。
「こちらこそ、黒がお世話になっております」
リーゼがシズクを見る。
「何故、親族同士の挨拶みたいになっている!」
キマイラの獅子頭が鼻を鳴らした。
「何よ。あたしだって挨拶くらいできるし」
リーゼが答える。
「ではしろ」
獅子頭が少し目を逸らす。
「……よろしく」
「急に小さくなるな!」
ルヴァナは二頭へ興味津々だった。
「キマイラ、三つの頭全部喋れるの?」
獅子頭が答える。
「当たり前でしょ!」
山羊頭も口を開く。
「あたしも普通に喋るよ」
竜頭。
「お腹すいたー」
リーゼが固まる。
「頭ごとに人格まで違うのか」
鵺は穏やかに微笑んでいる。
「賑やかでございますね」
「貴様が一番まともに見えることが怖い」
ノアは三頭を見た。
それから館から少し離れた場所に作り始めていた、黒用の巨大な雨除けを見る。
黒一頭が入れるよう、かなり大きく作る予定だった。
それだけですでに、館より大きな屋根になる。
ノアはもう一度見る。
黒。
キマイラ。
鵺。
三頭。
「……長さ、三倍くらい必要かな」
リーゼが振り返る。
「やっぱり増築するのか!」
「三頭いるから」
「黒一頭の時点で館より大きい屋根だっただろ!」
「でも入らないと意味ないし」
エヴァも頷く。
「広い方がいいな」
リーゼは三頭を見る。
黒。
「ぶひひーん!」
キマイラの獅子頭。
「べ、別に狭くても平気だけど!」
鵺。
「皆様へご迷惑にならない範囲でお願いいたします」
リーゼは頭を抱えた。
「黒以外が妙に社会性を身につけている……」
こうして、黒一頭のために作るはずだった雨除けは、完成する前から三倍の長さへ設計変更されることになった。
そして森の中では、その日から黒の声へ、さらに多くの声が混じるようになった。
「ぶひひーん!」
最初にキマイラの山羊頭が、妙に軽い調子で口を開く。
「ねぇ、二人でどっか行かない?」
獅子頭が即座に返した。
「行かねえし」
竜頭はまるで別の会話を始める。
「子作り早くしよー」
獅子頭が怒鳴った。
「お前は少し黙ってろ!」
その隣で、鵺は恥じらうように身を寄せ、黒へ丁寧に頭を下げる。
「黒様、早く也哉子が欲しゅうございます」
黒が嬉しそうに鼻を鳴らした。
「ぶひひひひーん!」
リーゼが遠くからそのやり取りを聞いて、嫌そうな顔をする。
「何で黒の周りだけ、話が進むのがこんなに早いんだ」
エヴァは嬉しそうに笑った。
「いいじゃねえか。黒も所帯持ちになりそうで」
「三つ頭のキマイラと鵺と人食い軍馬を、普通の所帯みたいに言うな!」
そこで、さらにもう一つ声が加わった。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん達ほっといて、アタシとア・ソ・ボ」
リーゼが止まる。
キマイラの三つの頭を見る。
今の声は、どの頭からも出ていない。
視線を下げる。
キマイラの後ろから伸びた蛇の尻尾が、するすると黒の方へ首を伸ばしていた。
獅子頭が勢いよく振り返る。
「お前まで何言ってんだ!」
蛇の尻尾は楽しそうに揺れる。
「えー、いいじゃん。お兄ちゃん強いしー」
山羊頭が不満そうに口を挟んだ。
「ちょっと、抜け駆けずるくない?」
「お前も乗るな!」
竜頭は相変わらずだった。
「じゃあ、みんなで子作りしよー」
「黙れ!」
すると。
鵺の後ろに伸びていた蛇の尻尾まで、そろそろと黒の方へ首を伸ばした。
本体よりも少し遠慮がちな、若い女の声がする。
「兄者様……ヘビも、その、也哉子が欲しゅうございます!」
鵺の本体が固まった。
「まあ!」
蛇の尻尾も慌てる。
「だ、だって姉者だけずるうございます!」
「そのようなことを、皆様の前で大きな声で申してはいけません!」
「姉者だって先ほど黒様へ仰っていたではありませぬか!」
「私はきちんとした将来のお話として申し上げたのです!」
「ヘビも将来のお話をしております!」
黒は真ん中で、たいそう満足そうだった。
「ヴォー!」
リーゼはしばらく黙っていた。
キマイラを見る。
獅子。
山羊。
竜。
三つの頭が喋る。
そこまでは受け入れた。
鵺を見る。
本体も普通に喋る。
それも受け入れた。
だが。
今。
二本の蛇の尻尾まで、それぞれ勝手に喋っている。
リーゼはゆっくり指を差した。
「アイツラも喋るのか」
エヴァが普通に答える。
「ああ。喋ってるな」
「何で今まで誰も教えなかった!」
「聞かなかっただろ」
「尻尾が喋るかどうかなんて、普通は確認項目に入れん!」
向こうでは、まだ話が続いている。
「お兄ちゃん、アタシと遊ぼー」
「抜け駆けすんなって!」
「子作りー」
「黒様、也哉子を……」
「兄者様、ヘビにも也哉子を!」
「皆様、順番にお話しいたしましょう!」
黒。
「ぶひひひひーん! ヴォー! ガオー!」
リーゼの顔が引きつった。
「黒が一番まともに喋れないのに、何で黒を中心に全員話が通じてるんだ!」
エヴァは腹を抱えて笑った。
黒一頭のために作るはずだった雨除けは三倍になった。
だが。
そこへ住む連中の騒がしさは、どう考えても三倍では済みそうになかった。




