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大瀑布の底のハーレム【一般公開版】 (R18版 日間76位ありがとうございます)  作者: 黒瀬 量衡
第十四章 来訪Ⅰ

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第百三話 見かける黒の日常

黒が谷底へ来てからというもの、森を歩いていると、ときどき妙な光景を目にするようになった。


もっとも、谷底には以前から妙なものしかいない。


問題は、その妙な光景の中心に、最近ではかなりの確率で黒がいることだった。


夕方、エヴァとシズクは森での採集を終え、木の実や薬草を詰めた籠を持って館へ戻っていた。


空は赤く染まり、木々の向こうに見える岩山にも夕日が当たっている。


その岩山の前で、シズクが足を止めた。


「エヴァ。あちらに黒がいます」


「ああ?」


エヴァも見る。


かなり離れたところに、巨大な黒い軍馬がいた。


黒は後ろ脚だけで立ち上がっている。


ただ立ち上がっただけでも異様だった。


四本脚で立っている時点で館の平屋部分と同じか、それ以上の高さがある。その黒が後ろ脚だけで立てば、ちょっとした塔だった。


シズクは首を傾げる。


「何をしているのでしょう」


黒は岩山へ身体を寄せた。


ごごごごごっ、と低い音が響く。


岩肌が震え、細かな石が落ちる。


さらに黒が身体を動かす。


どんっ。


岩壁にひびが入った。


また身体を押しつける。


ごりごりごりごり。


岩が削れる。


シズクはしばらく眺めていた。


「……岩山を掘っているのでしょうか」


エヴァは一度見ただけで納得した。


「ああ。違う」


「違うのですか?」


「黒のひとり遊びだ」


シズクは何も言わず、館の方へ歩き出した。


三歩ほど進んでから止まる。


ゆっくり振り返った。


「……何の、とは聞かない方がよいでしょうか」


「分かってるじゃねえか」


「分かりたくありませんでした」


どんっ!


黒の前にあった岩壁の一部が砕けた。


夕日の中、岩屑がぱらぱらと落ちる。


シズクは黒と岩山を交互に見る。


「岩山を使う必要があるのでしょうか」


「黒だからな」


「その説明は、最近とても便利に使われている気がします」


「俺の故郷でも、黒は丈夫な岩壁を探してたぞ」


「故郷でもしていたのですか?」


「ああ」


シズクはもう一度岩壁を見る。


黒が身体を動かすたび、少しずつ岩が削れている。


「岩の方が負けています」


「今日は柔らかい岩なんだろ」


「そういう問題でしょうか」


エヴァは何事もないように籠を持ち直した。


「まあ、近寄らん方がいいぞ」


「それはもちろんです」


「そういう意味だけじゃねえ」


シズクが嫌そうな顔をした。


「まだ何かあるのですか」


「あいつ、興奮してる時は体液も危ねえからな」


シズクの足が止まった。


「どの程度でしょう」


「俺の故郷だと、大地が腐った」


「…………」


「草が枯れる」


「はい」


「弱い獣なら近寄らねえ」


「はい」


「弱い人間がまともに浴びたりしたら、死ぬか、酷いことになる」


シズクは無言で黒から距離を取った。


もう数歩。


さらに数歩。


エヴァが笑う。


「そこまで離れなくてもいいだろ」


「先ほどエヴァが、近寄らない方がよいとおっしゃいました」


「風上なら平気だ」


シズクは風向きを確かめた。


そして、さらに少し遠回りする道へ向かった。


「こちらから帰ります」


「遠回りだぞ」


「構いません」


背後で、また大きな音がした。


どんっ!


岩山に新しい窪みができる。


シズクは振り返らなかった。


「エヴァ」


「何だ?」


「黒は、本当に馬なのですよね」


「ああ」


「確認したくなっただけです」


数日後。


今度はリーゼが、黒の日常を見ることになった。


リーゼとエヴァは地図作りのため、館からかなり離れた場所まで遠征していた。


リーゼが方角と距離、高低差を確認しながら地図へ線を書き込む。


エヴァは周囲の警戒役だった。


崖沿いを進んでいると、下から聞き覚えのある声が響いた。


「ぶひひひひーん!」


リーゼが止まる。


「いるな」


エヴァも崖下を見る。


「黒だな」


続いて。


「ヴォオオオオッ!」


リーゼの眉が寄る。


「やはり後半がおかしい」


その直後、別の声が聞こえた。


「ちょっと! もう少し加減しなさいって!」


リーゼが固まった。


「……今、人の声がしたぞ」


「ああ」


二人で崖下を覗く。


黒がいた。


そして。


黒とほとんど同じくらい巨大な獣もいた。


獅子のような大きな胴。


その前に、獅子の頭。


山羊の頭。


竜のような頭。


後ろには蛇の尾。


リーゼの目が見開かれる。


「……キマイラ?」


エヴァが横を見る。


「知ってるのか?」


「御伽噺だ! 実物がいるとは聞いていない!」


「じゃあキマイラでいいな」


「勝手に決めるな!」


崖下では、黒とキマイラが取っ組み合っていた。


黒が身体を寄せる。


キマイラが押し返す。


巨大な身体同士がぶつかるたび、地面が揺れる。


獅子頭が人の言葉で怒鳴った。


「だから! 別にあんたと一緒にいたいわけじゃないんだからね!」


黒。


「ぶひひーん!」


「何その嬉しそうな声!」


黒が頭を擦りつける。


キマイラは三つの頭で文句を言いながら押し返す。


だが、逃げない。


むしろ黒が少し離れると、獅子頭がすぐに声を上げた。


「ちょっと! どこ行くのよ!」


山羊頭も続く。


「もう少しこっちにいればいいじゃん」


竜頭はさらに直接的だった。


「まだ帰らないでー」


リーゼがしばらく崖下を眺める。


「どう聞いても、嫌がっているようで嫌がっていないな」


エヴァも頷いた。


「ああ」


黒が再び近づく。


キマイラの竜頭が黒へ噛みつこうとする。


黒はまるで気にしない。


山羊頭は黒へ何か話し続けている。


獅子頭は、


「本当にしょうがない奴!」


と怒鳴っているのに、蛇の尾だけは黒の脚へ絡みついていた。


リーゼが額へ手を当てた。


「頭ごとに態度が違いすぎる」


「賑やかでいいじゃねえか」


「貴様は何でも肯定するな」


エヴァはしばらく見た後、何かに納得した。


「あー」


リーゼが嫌な予感を覚える。


「何だ」


「黒、こいつ気に入ったんだな」


「それくらいは見れば分かる」


「よかった」


「何がだ」


エヴァは本当に嬉しそうだった。


「故郷じゃ、黒の相手になれる奴がほとんどいなかったからな」


リーゼが横を見る。


「どういう意味だ」


「黒が発情すると、普通の獣は近寄らねえ」


「先日聞いた」


「匂いだけで逃げる奴もいた」


「それも聞いた」


「でかい雌を何頭かあてがったこともあるんだが、黒が強すぎてな」


リーゼは嫌そうな顔になる。


「詳しく説明しなくていい」


「その日のうちに全部駄目になった」


「聞きたくないと言った!」


エヴァは崖下を眺めながら笑った。


「だから俺も、ちょっと気にはしてたんだ」


黒とキマイラがぶつかる。


どおんっ!


足元の岩が砕けた。


キマイラは文句を言っている。


それでも黒の側から離れない。


エヴァは満足そうに頷いた。


「谷底で、ついに黒の番になれそうな奴が見つかったんだな」


リーゼは少し意外そうにエヴァを見る。


「嬉しいのか?」


「ああ」


エヴァは笑った。


「親友に女ができるってのは、こういう気持ちなんだな」


リーゼが何か返そうとした時だった。


崖下の茂みから。


もう一頭。


現れた。


猿のような頭。


虎のような四肢。


狸のような胴。


長い蛇の尾。


これも大きい。


黒やキマイラよりは少し小さいが、それでも人間から見れば巨大な怪物だった。


リーゼは黙った。


その獣は、非常に上品な女の声で言った。


「黒様。こちらにいらしたのですね」


黒。


「ぶひひーん!」


獣は嬉しそうに頭を下げた。


「まあ。探しておりました」


キマイラの獅子頭が叫ぶ。


「何であんたまで来るのよ!」


「黒様がおられますので」


「だから何なのよ!」


「ご一緒したいだけですが」


「さらっと言うんじゃないわよ!」


黒は二頭の間で満足そうに鼻を鳴らす。


「ヴォー」


リーゼがゆっくりエヴァを見る。


「おかしいだろ」


「何が?」


「何で二匹目がいるんだよ!」


エヴァは崖下を見ている。


「黒、もてるな」


「そこじゃないだろ!」


リーゼは二頭を指差した。


「貴様、黒の体液は大地を腐らせるとか、弱い生き物なら危険だとか言っていただろ!」


「ああ」


「何で平然と二匹も黒の側にいる!」


エヴァは少し考えた。


「強いんだろ」


「その一言で全部済ませるな!」


崖下では。


キマイラの獅子頭が叫んでいる。


「べ、別にあたしが一番とか、そういう話じゃないから!」


新しく現れた獣は、穏やかに答えた。


「私も順位を争うつもりはございません」


「そういう余裕ある言い方が腹立つのよ!」


黒。


「ぶひひーん!」


二頭。


「黒は黙ってて!」


リーゼが両手で頭を抱えた。


エヴァは笑っている。


「仲いいじゃねえか」


「黒を中心に妙な集団を作るな!」


後で姿をシズクへ説明すると、二頭目は彼女の文化圏で語られる「鵺」という怪異にかなり近いらしいことが分かった。


もっとも。


シズクが知る鵺は、人里へ現れれば恐れられる怪物である。


「箱入りのお嬢様のように話す鵺は、聞いたことがありません」


というのがシズクの感想だった。


さらに数日後。


朝。


館の屋根付きバルコニーにいたシズクが、庭の向こうを見て固まった。


「聖者」


ノアが振り返る。


「どうしたの?」


「黒が来ました」


「帰ってきたんだね」


「二匹増えています」


「え?」


全員が外へ出た。


黒がいる。


その右にはキマイラ。


左には鵺。


三頭が並んでいた。


黒だけでも館の平屋部分と比べられるほど大きい。


それが三頭。


リーゼが遠い目をする。


「増えている……」


エヴァは嬉しそうだった。


「連れてきたか!」


黒。


「ぶひひーん!」


キマイラの獅子頭が少し顔を逸らした。


「べ、別に住ませてもらおうなんて思ってないからね! 黒がどうしても来いって言うから来ただけ!」


リーゼが黒を見る。


「本当に言ったのか?」


黒。


「ヴォー」


「分からん!」


鵺は一歩前へ出ると、姿勢を正して丁寧に頭を下げた。


「突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。黒様には日頃より大変お世話になっております」


シズクも反射的に頭を下げる。


「こちらこそ、黒がお世話になっております」


リーゼがシズクを見る。


「何故、親族同士の挨拶みたいになっている!」


キマイラの獅子頭が鼻を鳴らした。


「何よ。あたしだって挨拶くらいできるし」


リーゼが答える。


「ではしろ」


獅子頭が少し目を逸らす。


「……よろしく」


「急に小さくなるな!」


ルヴァナは二頭へ興味津々だった。


「キマイラ、三つの頭全部喋れるの?」


獅子頭が答える。


「当たり前でしょ!」


山羊頭も口を開く。


「あたしも普通に喋るよ」


竜頭。


「お腹すいたー」


リーゼが固まる。


「頭ごとに人格まで違うのか」


鵺は穏やかに微笑んでいる。


「賑やかでございますね」


「貴様が一番まともに見えることが怖い」


ノアは三頭を見た。


それから館から少し離れた場所に作り始めていた、黒用の巨大な雨除けを見る。


黒一頭が入れるよう、かなり大きく作る予定だった。


それだけですでに、館より大きな屋根になる。


ノアはもう一度見る。


黒。


キマイラ。


鵺。


三頭。


「……長さ、三倍くらい必要かな」


リーゼが振り返る。


「やっぱり増築するのか!」


「三頭いるから」


「黒一頭の時点で館より大きい屋根だっただろ!」


「でも入らないと意味ないし」


エヴァも頷く。


「広い方がいいな」


リーゼは三頭を見る。


黒。


「ぶひひーん!」


キマイラの獅子頭。


「べ、別に狭くても平気だけど!」


鵺。


「皆様へご迷惑にならない範囲でお願いいたします」


リーゼは頭を抱えた。


「黒以外が妙に社会性を身につけている……」


こうして、黒一頭のために作るはずだった雨除けは、完成する前から三倍の長さへ設計変更されることになった。


そして森の中では、その日から黒の声へ、さらに多くの声が混じるようになった。


「ぶひひーん!」


最初にキマイラの山羊頭が、妙に軽い調子で口を開く。


「ねぇ、二人でどっか行かない?」


獅子頭が即座に返した。


「行かねえし」


竜頭はまるで別の会話を始める。


「子作り早くしよー」


獅子頭が怒鳴った。


「お前は少し黙ってろ!」


その隣で、鵺は恥じらうように身を寄せ、黒へ丁寧に頭を下げる。


「黒様、早く也哉子が欲しゅうございます」


黒が嬉しそうに鼻を鳴らした。


「ぶひひひひーん!」


リーゼが遠くからそのやり取りを聞いて、嫌そうな顔をする。


「何で黒の周りだけ、話が進むのがこんなに早いんだ」


エヴァは嬉しそうに笑った。


「いいじゃねえか。黒も所帯持ちになりそうで」


「三つ頭のキマイラと鵺と人食い軍馬を、普通の所帯みたいに言うな!」


そこで、さらにもう一つ声が加わった。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん達ほっといて、アタシとア・ソ・ボ」


リーゼが止まる。


キマイラの三つの頭を見る。


今の声は、どの頭からも出ていない。


視線を下げる。


キマイラの後ろから伸びた蛇の尻尾が、するすると黒の方へ首を伸ばしていた。


獅子頭が勢いよく振り返る。


「お前まで何言ってんだ!」


蛇の尻尾は楽しそうに揺れる。


「えー、いいじゃん。お兄ちゃん強いしー」


山羊頭が不満そうに口を挟んだ。


「ちょっと、抜け駆けずるくない?」


「お前も乗るな!」


竜頭は相変わらずだった。


「じゃあ、みんなで子作りしよー」


「黙れ!」


すると。


鵺の後ろに伸びていた蛇の尻尾まで、そろそろと黒の方へ首を伸ばした。


本体よりも少し遠慮がちな、若い女の声がする。


「兄者様……ヘビも、その、也哉子が欲しゅうございます!」


鵺の本体が固まった。


「まあ!」


蛇の尻尾も慌てる。


「だ、だって姉者だけずるうございます!」


「そのようなことを、皆様の前で大きな声で申してはいけません!」


「姉者だって先ほど黒様へ仰っていたではありませぬか!」


「私はきちんとした将来のお話として申し上げたのです!」


「ヘビも将来のお話をしております!」


黒は真ん中で、たいそう満足そうだった。


「ヴォー!」


リーゼはしばらく黙っていた。


キマイラを見る。


獅子。


山羊。


竜。


三つの頭が喋る。


そこまでは受け入れた。


鵺を見る。


本体も普通に喋る。


それも受け入れた。


だが。


今。


二本の蛇の尻尾まで、それぞれ勝手に喋っている。


リーゼはゆっくり指を差した。


「アイツラも喋るのか」


エヴァが普通に答える。


「ああ。喋ってるな」


「何で今まで誰も教えなかった!」


「聞かなかっただろ」


「尻尾が喋るかどうかなんて、普通は確認項目に入れん!」


向こうでは、まだ話が続いている。


「お兄ちゃん、アタシと遊ぼー」


「抜け駆けすんなって!」


「子作りー」


「黒様、也哉子を……」


「兄者様、ヘビにも也哉子を!」


「皆様、順番にお話しいたしましょう!」


黒。


「ぶひひひひーん! ヴォー! ガオー!」


リーゼの顔が引きつった。


「黒が一番まともに喋れないのに、何で黒を中心に全員話が通じてるんだ!」


エヴァは腹を抱えて笑った。


黒一頭のために作るはずだった雨除けは三倍になった。


だが。


そこへ住む連中の騒がしさは、どう考えても三倍では済みそうになかった。

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