第百二話 一個軍隊
館へ戻った翌日。
全員が、屋根付きのバルコニーへ集まっていた。
その正面に。
黒がいた。
昨夜、滝壺から連れて帰ってきたエヴァの軍馬である。
改めて近くで見ると、やはり大きい。
館そのものが聖者仕様で、人間から見れば巨人の屋敷と呼んでよいほど大きい。それでも黒が四本の脚で普通に立てば、背は平屋部分の屋根へ届くか、それ以上に見える。
今は話をするため、黒自身が前脚を折ってしゃがんでいた。
それでようやく、バルコニーにいる全員と顔の高さが近くなる。
もっとも、近くなっただけである。
巨大な黒い頭がバルコニーの前へ来ると、シズクとリーゼは揃って少し後ろへ下がった。
ルヴァナは逆に前へ出ようとして、クロエに襟を掴まれている。
「待て」
「見るだけだって」
「昨日、鳥と魚を食っていた口へ顔を近づける必要はない」
「でも、めっちゃでかくてかっこいいじゃん」
「それと安全は別だ」
ネイラは妹より慎重だった。
黒の頭、首、脚、蹄を順番に見ながら、何か考えている。
「昨日、水中で見た時より大きく感じますね」
リーゼが即座に頷いた。
「小官もそう思う。というより、水中では大半が沈んでいたからな」
シズクも黒を見上げる。
「これでしゃがんでいるのですよね」
「ああ」
エヴァだけは、黒の鼻先を何度も撫でていた。
「楽にしていいぞ」
黒が鼻を鳴らす。
「ぶひひーん」
「そうか」
リーゼがエヴァを見る。
「何が、そうか、なんだ」
エヴァは黒を見たまま答える。
「昨日は突然だったからな。どうやってここまで来たのか聞いてる」
「聞いてる?」
リーゼが黒を見る。
黒もリーゼを見る。
「ぶひひーん」
リーゼは少し待った。
「今ので?」
「ああ」
「貴様には分かるのか?」
「長い付き合いだからな」
黒がもう一度鳴いた。
「ぶるるるるっ、ぶひひーん。ヴォー」
エヴァの眉が上がる。
「おお。やっぱり俺を探してたのか」
シズクが驚く。
「エヴァを?」
「ああ」
黒が続ける。
「ぶひっ、ぶひひひーん。ヴォオオオッ」
エヴァが嬉しそうに黒の首を叩いた。
「さすがだ」
リーゼが顔をしかめる。
「待て。何をした」
黒。
「ぶるるるるっ。ガオー。ぶひひひーん」
エヴァ。
「奴か」
リーゼ。
「奴とは誰だ」
黒。
「ヴォー。ぶひっ。ぶひひひひーん!」
エヴァは大きく頷いた。
「お前は忠臣だ」
リーゼがだんだん嫌な顔になる。
「何故、軍馬の昔話を聞いているだけなのに、忠臣という言葉が出てくる」
黒。
「ガオオオッ。ぶひひーん!」
エヴァが笑った。
「やるな」
「だから何をやった!」
ノアは二人のやり取りを興味深そうに見ていた。
ティセラはすでに記録を始めている。
ネイラも聞き取れるとは思っていないらしく、エヴァの反応から内容を追っていた。
クロエが尋ねる。
「エヴァ。こちらにも分かるよう説明しろ」
「ああ」
エヴァは黒の鼻先へ身体を預けながら答えた。
「俺がいなくなった後、こいつは俺を探してたらしい」
リーゼが腕を組む。
「そこまでは馬らしい」
「城や軍のところへは戻らなかった」
「まあ、主人を探すならあり得る」
「一匹でゲリラ活動してた」
リーゼが止まった。
「何?」
エヴァは普通に続ける。
「俺を捕らえた敵国の拠点や街を襲いながら、俺を探してたらしい」
「待て」
「何だ?」
「今、馬の話だよな?」
「黒の話だ」
「だから馬だろう!」
黒が鼻を鳴らす。
「ヴォー」
リーゼが黒を見る。
「貴様は黙っていろ!」
エヴァは黒の首を撫でた。
「俺の匂いを追ったり、捕虜の移送路を探ったりしながら、敵の補給拠点を潰して回ったそうだ」
ネイラが聞く。
「一頭で?」
「ああ」
ルヴァナの顔が明るくなる。
「やば。かっこいい」
リーゼが叫ぶ。
「褒めるな!」
アスラはむしろ納得したようだった。
「昨日の戦い方を見る限り、できそうではある」
クロエも頷く。
「少なくとも小規模な部隊なら、遭遇した側が不幸だな」
「冷静に分析するな! 馬だぞ!」
エヴァが続ける。
「食料は現地調達」
リーゼが嫌な予感を覚える。
「何を食っていた」
「生きてるもの」
「範囲が広すぎる!」
「人も獣も、敵の軍用動物も。腹が減ったら食った」
シズクが黒を見る。
黒もシズクを見る。
シズクは静かにエヴァの反対側へ一歩移動した。
「私を見ないでください」
「味方は食わねえって」
「そう聞いてはおりますが、知識が増えるたびに少し不安になります」
エヴァは笑った。
黒が続けて鳴く。
「ぶひひーん。ぶるるるっ。ガオー」
「そうか。賞金まで付いたか」
リーゼが額を押さえた。
「軍馬に賞金を掛けるな」
「敵からすれば付けるだろ」
「何をしたら馬が賞金首になる!」
「今までの話を聞いてなかったのか?」
「聞いていたから聞いているんだ!」
エヴァは黒から聞いたことをそのまま説明していく。
敵国ではやがて、巨大な黒い軍馬が各地の補給線や小拠点を襲うという噂が広がった。
兵を送った。
返り討ちにした。
討伐隊を出した。
食べた。
罠を張った。
壊した。
追跡者を出した。
逆に追跡して、野営地を襲った。
そのうち、馬ではなく何か別の怪物として手配される地域まで出てきたらしい。
ルヴァナが感心する。
「完全にゲリラじゃん」
クロエが言う。
「単独潜入と兵站攻撃を継続しているなら、実際そうだ」
アスラ。
「忍者学園へ入れても卒業できそうだな」
リーゼ。
「馬を忍者学園へ入れるな!」
黒は気にせずエヴァへ喋り続ける。
「ぶるるる。ぶひひひーん。ヴォオオオオッ」
エヴァの表情が変わった。
「おお」
黒。
「ガオッ」
エヴァが黒の首を強く叩く。
「やるじゃねえか」
リーゼが恐る恐る聞く。
「今度は何だ」
「敵将も何人か殺ったそうだ」
リーゼは目を閉じた。
「もう驚かん」
「偉い奴は鎧もいいし、周りが必死に守るから分かりやすいだろ?」
「黒に聞け!」
「黒がそう言ってる」
「本当にそこまで言っているのか!?」
黒。
「ぶひひーん」
エヴァ。
「ほら」
「分からん!」
エヴァは嬉しそうに続けた。
「何人かは、あえて首だけ残したらしい」
リーゼの目が開いた。
「何故だ」
「誰を殺したか分かるようにな」
「胴体は?」
「腹」
一瞬。
誰も喋らなかった。
リーゼが黒を見る。
黒がリーゼを見る。
シズクも黒を見る。
黒がシズクを見る。
シズクはもう一歩下がった。
リーゼがゆっくり口を開く。
「何処にも馬の要素がない」
ノアが少し笑った。
「形はかなり馬だよ」
「形だけで判定するな!」
ティセラが記録しながら言う。
「鳴き声にも一部、馬らしいものがあります」
「一部しかない時点でおかしい!」
エヴァは気にせず黒へ聞いた。
「それで、どうやって落ちた?」
黒が少し長く鼻を鳴らした。
先ほどまでと違って、声の調子も低い。
「ぶるるるるる……ぶひっ。ヴォー。ぶひひひーん」
エヴァが頷く。
「敵軍と戦ってたのか」
黒。
「ぶひっ」
「で?」
「ヴォオオ……ガオッ」
エヴァの眉が寄る。
「地震?」
全員が少し真面目な顔になった。
黒は続ける。
「ぶるるるるっ。ヴォオオオオッ!」
エヴァも表情を変える。
「大地が割れた?」
黒が激しく鼻を鳴らした。
「ガオオオオッ!」
「爆発もしたのか」
リーゼが口を挟む。
「大規模な地震に伴う地割れか?」
「俺に聞くな。黒も分からん」
ティセラが尋ねる。
「火山性の現象だった可能性は?」
「それも分からん。黒からすれば、大地が揺れて、割れて、爆発した。それだけだ」
エヴァは黒の額へ手を置いた。
「それに呑まれて、そこで意識が途切れたらしい」
ネイラが言う。
「では、その後は覚えていない?」
「ああ」
黒が一度、短く鳴いた。
「ぶひっ」
エヴァが頷く。
「次に目を覚ましたのが、昨日の滝壺だ」
ルヴァナが驚く。
「落ちた衝撃で起きたの?」
「らしい」
リーゼが呆れる。
「普通はそこで、もう一度気絶するだろう」
「黒だからな」
「その言葉を万能な説明にするな!」
エヴァは黒の鼻先を撫でた。
「目を覚ましたら、水と血と鳥と魚だらけだった」
シズクが頷く。
「昨日はそうでしたね」
「それで」
エヴァは少し笑う。
「俺の匂いがしたらしい」
シズクがエヴァを見る。
リーゼも見る。
エヴァは自分の身体を見下ろす。
「一年以上会ってねえのに、よく分かったな」
黒。
「ぶひひーん」
エヴァが破顔する。
「さすがだ」
黒がさらに鳴く。
「ヴォー!」
「そうかそうか」
「ガオー!」
「お前は忠臣だ!」
リーゼが両手で顔を覆った。
「最後まで馬らしい会話にならなかった……」
話を聞き終えた後、今度はもっと現実的な問題が残った。
黒をどこで暮らさせるか。
館の中は論外だった。
扉が大きいとはいえ、黒を館内へ入れるための大きさではない。
そもそも黒自身が屋内生活を必要としていない。
エヴァが言った。
「雨避けだけあればいい」
ノアが黒を見る。
「それでも、相当大きな屋根が必要になるね」
黒は立ち上がった。
四本の脚を伸ばす。
しゃがんでいた時とは、まるで印象が違った。
身体が上がる。
上がる。
さらに上がる。
バルコニーにいた全員が顔を上げる。
黒の背が館の平屋部分の屋根と並び、その頭はさらに高いところへ来た。
リーゼが言う。
「馬小屋という言葉を使いたくなくなってきた」
ノアも黒を見上げる。
「屋根だけでも、館より大きくなるかもしれないね」
「馬一頭の雨避けが、館より大きいとは何事だ!」
エヴァは平然としている。
「黒が入れなきゃ意味ねえだろ」
「分かっている! 分かっているから嫌なんだ!」
結局、館から少し離れた場所へ、黒専用の大きな屋根だけを作ることになった。
壁は作らない。
風通しを確保する。
黒自身が好きな時に出入りできる。
地面は水が溜まりにくい場所を選び、雨が流れる方向だけ整える。
水場も近くに用意する。
ノアが餌について考え始めたところで、エヴァが止めた。
「餌は要らん」
「でも」
「黒は自分で取る」
リーゼがすぐ反応する。
「何を」
「食い物」
「だから何を食う!」
「食えるもの」
「答えになっていない!」
エヴァは黒の前へ立った。
周囲を指差しながら説明する。
「あっちは畑だ。食うな」
黒。
「ぶひっ」
「こっちの生け簀も駄目だ」
「ぶるる」
「保存蔵も駄目」
「ぶひっ」
「人間が使ってる水場の近くも荒らすな」
「ぶひひーん」
「館の周りの結界設備も壊すな」
「ヴォー」
リーゼが横から言う。
「今の返事だけ不安なんだが」
エヴァはさらに森の方を指差した。
「それ以外なら、基本好きにしろ。ただ、聖者が印を付けてる資材置場は食うな。木材も運ぶ予定の奴には手を出すな」
黒が一度、長く鼻を鳴らす。
エヴァが頷いた。
「分かったな」
「ぶひひーん!」
「よし」
ノアが尋ねる。
「それだけで大丈夫?」
「ああ」
「毎日戻ってくる?」
エヴァが黒を見る。
黒。
「ヴォー」
エヴァ。
「気が向いたら」
リーゼ。
「飼育ではない!」
「軍馬だからな」
「軍馬でも普通は管理する!」
エヴァは肩をすくめた。
「こいつを囲ってどうするんだよ」
リーゼは黒を見る。
館と同じほどの高さがある黒。
昨日、巨大鳥の腹を内側から食い破った。
泳ぎながら鳥の首を噛みちぎった。
その胴を振り回して別の鳥を潰した。
魚の頭蓋を蹄で割り、飛んだ肉片を食った。
そして今日。
元いた土地では一匹で敵国相手にゲリラ戦を続け、街や拠点を襲い、敵将まで殺して食っていたことが判明した。
リーゼは考え直した。
「……囲えんな」
「だろ?」
珍しくエヴァと意見が一致した。
黒はエヴァへ顔を寄せた。
エヴァが鼻先を叩く。
「腹減ってんのか?」
「ぶひひーん!」
「じゃあ行ってこい」
黒が立ち上がる。
巨大な身体が向きを変える。
どすん。
どすん。
地面が揺れる。
ルヴァナが身を乗り出す。
「どこ行くの?」
エヴァ。
「飯」
「何食べるの?」
「見つけたもの」
リーゼ。
「確認しなくていいのか!」
「ほっとけ」
黒は森へ向かった。
少し歩く。
その途中で、何かの匂いを嗅いだらしい。
巨大な頭が森の奥へ向く。
次の瞬間。
走った。
どどどどどどどどっ!
木々の間へ黒い巨体が消えていく。
しばらくして。
かなり遠くから。
何か巨大なものが鳴く声がした。
続いて。
木が倒れる音。
さらに。
何かが逃げ回っているらしい地響き。
最後に。
「ガオオオオオッ!」
黒の声が聞こえた。
ルヴァナが目を輝かせる。
「もう何か食べてる?」
エヴァが満足そうに頷く。
「あいつは仕事が早い」
リーゼは遠い森を見る。
「なあ、エヴァ」
「何だ」
「昨日まで、あの森は危険な魔物がいるから気をつけろと言っていたよな」
「ああ」
「今日からは?」
エヴァも森を見る。
少し考えた。
「黒に食われないよう、あいつらが気をつけるんじゃねえか?」
リーゼはしばらく黙った。
そして。
深く息を吐いた。
「何処にも馬の要素がない」
バルコニーの前には、黒が座っていた場所だけが大きく窪んでいた。
館から少し離れた土地には、これから館以上の大きさになる雨避けの屋根が建つ。
そして、その屋根の主は。
腹が減ったという理由だけで。
すでに谷底の森のどこかへ、何かを貪りに行っていた。




