第百話 彼方に大きな何か
ネイラとルヴァナが谷底で普通に歩き回れるようになったので、その日は全員で滝壺へ行くことになった。
目的は、特別な調査ではない。
娘二人に、谷底でも特に雄大な景色を見せる。
ついでに岸へ流れ着いた漂着物を確認し、使えそうなものがあれば持ち帰る。
少し長めの散歩と資源回収を兼ねた、ハイキングのようなものだった。
滝壺そのものは、娘二人以外には珍しい場所ではない。
ノアもエヴァもシズクも、漂着物を拾いに何度も来ている。
リーゼとティセラも同じ。
クロエとアスラも、谷底へ来てから何度も足を運んでいた。
初めてなのは、ネイラとルヴァナだけだった。
だからこそ、館の前でリーゼは妙に張り切っていた。
「いいか、貴様ら」
ネイラとルヴァナが並ぶ。
「館の周辺と違い、結界の外では何が起こるか分からん。初めての長距離行動では、経験者の指示に従え。勝手に先行しない。知らない生物へ近づかない。地形を見て、帰路を覚える」
ネイラが素直に頷いた。
「分かりました」
ルヴァナも軽く手を上げる。
「はーい」
リーゼは満足そうだった。
娘二人について聞いている限りでは、ネイラは現在、大学へ通う学生。
ルヴァナは、本人の言葉では「読モ」というものをしているらしい。
リーゼには、その意味がよく分からなかった。
服を着る。
写真を撮られる。
雑誌のようなものへ載る。
それを見た若者が服や髪形を真似する。
そこまで説明されて、リーゼが理解したのは、
「つまり、若者向けの宣伝に使われる模範人物か?」
だった。
ルヴァナは少し考えて、
「まあ、近いっちゃ近い?」
と答えた。
それ以来、リーゼの中では、ルヴァナは何らかの宣伝活動へ協力している若い娘ということになっている。
大学生と宣伝要員。
どちらも若い一般人だと思っていた。
ならば、野外行動については自分が上官としてしっかり教えなければならない。
「今日は小官が、野外行動の基本を指導してやる」
ネイラが頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ルヴァナも真似をする。
「お願いしまーす、大尉」
「うむ!」
その後ろで、クロエとアスラが顔を見合わせた。
クロエが小声で言う。
「言わないのか?」
アスラも小声で返す。
「本人が楽しそうだからな」
「そうだな」
シズクが二人を見る。
「何をでしょう?」
クロエは短く答えた。
「すぐ分かる」
一行は館を出た。
しばらくは全員で歩く。
結界の境界を越える。
白い幹の木。
二つに割れた岩。
赤い苔の壁。
シズクが谷底へ来たばかりの頃、エヴァから教えてもらった目印も、今ではすっかり見慣れた景色になっている。
リーゼは歩きながら娘二人へ説明した。
「道だけを覚えるな。特徴のある木、岩、斜面、水の流れ。道そのものが塞がれても戻れるよう、複数の目印を持て」
ネイラは周囲を見ながら頷く。
「地図だけに依存しないということですね」
「そうだ」
「方角も?」
「当然だ」
リーゼの機嫌はよかった。
教えればすぐ理解する。
良い生徒だ。
ルヴァナも、一応は聞いている。
「木の上から見た方が早くない?」
「初心者がいきなり木へ登るな」
「はーい」
ここまではよかった。
少し進んだところで、エヴァが足を止めた。
「この速度で最後まで行くのか?」
リーゼが答える。
「娘二人の初めての遠出だ。行軍速度は一番遅い者へ合わせる」
エヴァが周囲を見る。
「じゃあリーゼだな」
「何故だ!」
エヴァはシズクを見る。
シズクもエヴァを見る。
今では、それだけで意思疎通ができる。
「持つぞ」
「お願いします」
エヴァの右腕がシズクの胴へ回る。
そのまま身体が持ち上がった。
成人女性一人が、エヴァの右脇へすっぽり収まる。
完全に荷物の持ち方だった。
ルヴァナが目を丸くする。
「えっ、シズクさん、それで行くの?」
「はい」
「嫌じゃない?」
シズクは少し考えた。
「最初は嫌でした」
リーゼが叫ぶ。
「過去形にするな!」
「ですが、速いですので」
「利便性で受け入れるな!」
「景色もよく見えます」
「さらに利点を見つけるな!」
エヴァが笑った。
「じゃあ先行くぞ」
走った。
シズクを小脇へ抱えているのに速い。
以前より身体そのものが大きくなり、全盛期に近づきつつある今のエヴァには、成人女性一人程度ほとんど負荷になっていない。
ノアも走り出す。
二メートルを超える巨体が、森の中をかなりの速度で進んでいく。
クロエとアスラも続いた。
忍者二人は当然のように速い。
木の根。
岩。
傾斜。
倒木。
ほとんど速度を落とさず抜けていく。
ティセラは懐から小さな魔術具を取り出した。
両脚へ取り付ける。
淡い魔法陣が広がった。
リーゼが見る。
「教授、それは?」
「移動補助具です。脚部運動へ魔術的な補助を加えます」
「そんな便利なものがあるなら小官にも貸せ!」
「一つしかありません」
「増やせ!」
「専門ではありませんので」
ティセラも速度を上げた。
残ったリーゼは娘二人を見る。
「無理についていく必要はないぞ。あれは基準にする相手では――」
ネイラが走った。
ルヴァナも走った。
リーゼの声が止まる。
ネイラは速かった。
ただ力任せに走っているのではない。
一歩ごとに地形を見ている。
滑る石を避ける。
根の少ない場所を踏む。
低い枝の下では身体を倒し、斜面でも速度をほとんど落とさない。
クロエの少し後ろへ、そのままついていく。
ルヴァナはさらに勢いがあった。
倒木を跳ぶ。
岩を蹴る。
斜面を数歩で駆け上がる。
太い枝へ片手を掛け、身体を振って次の足場へ飛ぶ。
そのままアスラの横まで追いついた。
リーゼが立ち止まった。
「…………」
少し前から、ルヴァナが振り返る。
「リーゼー!」
「何だ!」
「遅いよー!」
リーゼの顔が引きつった。
「待て!」
走る。
「何故、貴様らそんなに速い!」
ルヴァナが前を向いたまま答えた。
「忍者学園出てるからー!」
リーゼの足が一瞬もつれた。
「何だと!?」
ネイラも速度を落とさず答える。
「二人とも卒業しています!」
「大学生ではなかったのか!」
「今は大学へ通っています!」
リーゼはルヴァナへ叫ぶ。
「貴様は、あの宣伝用の仕事をしている娘ではなかったのか!」
「読モね! それもやってるー!」
「忍者学園卒業を先に言ええええっ!」
クロエが前から言う。
「忍者学園は成人までの基礎教育だからな」
アスラも続けた。
「卒業していて普通だ」
「小官の普通と違う!」
一行はどんどん離れていく。
森の中へ、リーゼの声だけが響いた。
「貴様らー! 銃殺刑だー!」
エヴァが走りながら笑った。
右脇に抱えられたシズクが後ろを見る。
「リーゼが見えなくなりました」
「声は聞こえる」
「待たなくてよいのでしょうか」
「上官として指導してくれるらしいから大丈夫だろ」
「意味が逆になっているような気がします」
滝壺へ着いた時、やはり最後に現れたのはリーゼだった。
両膝へ手をつく。
肩で息をする。
「……貴様ら……」
ルヴァナは元気だった。
「大尉、大丈夫?」
「貴様が言うな……」
ネイラが少し申し訳なさそうに言った。
「途中でルヴァナには速度を落とすよう言ったのですが」
リーゼが顔を上げる。
「何故、妹だけなんだ」
「クロエ母さんとアスラ母さんには普通についていけたので」
「小官が指導する予定だったのに……」
クロエがリーゼの肩を軽く叩いた。
「走る以外を教えればいい」
「慰めるな!」
少し休んだ後、全員で滝壺を見渡せる場所へ出た。
そこで、ネイラとルヴァナだけが足を止めた。
他の七人はそのまま進む。
見慣れているからだ。
巨大な大瀑布。
上端は見えない。
岩壁の途中から空そのものが崩れ落ちているような量の水が、延々と落ち続けている。
その下には、果ての見えない水面。
向こう岸は霞と水煙の彼方に消えている。
滝壺という言葉から想像できる大きさではない。
ルヴァナが口を開けた。
「……でっか」
ネイラも珍しく黙っていた。
しばらくして尋ねる。
「これが、滝壺?」
シズクが答えた。
「はい」
「湖ではなく?」
リーゼが言う。
「その疑問は小官も通った」
シズクは真面目だった。
「滝壺です」
ルヴァナが水面を見渡す。
「海じゃないの?」
「私は海を見たことがありませんので」
リーゼが反射的に叫ぶ。
「そこまで小官と同じ会話をするな!」
クロエとアスラは、娘二人の反応を見ていた。
二人も初めてここへ来た時には、この規模には驚いた。
だが、今では何度も来ている。
クロエが言う。
「初見ではそうなる」
アスラも頷く。
「世界を分つ谷とは、かなり印象が違うからな」
ルヴァナが母親二人を見る。
「母さんたち、何回来たことあるの?」
「数えていない」
「漂着物を拾いに来る場所でもあるからな」
ネイラが水面を見渡した。
「生物も多そうですね」
リーゼが答える。
「多いどころではない」
ちょうどその時。
水面近くを、大きな鳥のようなものが飛んでいた。
ルヴァナがすぐ指差す。
「あれ!」
誰も立ち止まらない。
シズクは漂着物が集まる岸の方を見ている。
エヴァは座りやすそうな岩を探している。
リーゼは娘二人が水際へ近づきすぎないかを確認している。
クロエとアスラも一度見ただけだった。
ネイラが周囲を見る。
「皆さん、気にしないのですか?」
シズクが答えた。
「よくいますので」
ルヴァナが鳥を見る。
「あんなに大きいのが?」
「はい」
その下。
水面へ黒い影が現れた。
ネイラが気づく。
「下に何かいます」
エヴァは岩へ腰を下ろした。
「食うかもな」
「何を?」
「鳥」
ルヴァナがもう一度水面を見る。
黒い影が鳥を追っている。
水面が盛り上がった。
次の瞬間。
ばしゃああああんっ!
巨大な魚のようなものが飛び出した。
大きな口が開く。
鳥のようなものの胴へ、そのまま食らいつく。
翼が大きく広がった。
半身が魚の口へ消える。
そのまま両方が水面へ落ちた。
少し遅れて、どおん、と音が届く。
波が広がる。
娘二人だけが黙っていた。
シズクが普通に言う。
「今日は綺麗に入りましたね」
エヴァも頷いた。
「ああ」
リーゼは岸へ来る波を見る。
「あの距離なら、こっちまでは大して来ない」
クロエは水面を見ながら言う。
「前に見た鯨のようなものより小さいな」
アスラも頷く。
「あの時の魚は、食わずに真っ二つにしていった」
ルヴァナが全員を見る。
「待って」
誰も驚いていない。
「これ、よくあるの?」
シズクが頷いた。
「鳥のようなものが水面近くを飛ぶと、魚のようなものに食べられることはよくあります」
「よくあるんだ……」
ネイラは母親二人を見る。
クロエもアスラも平然としている。
クロエが言った。
「そのうち慣れる」
ティセラは水面を眺めながら付け加える。
「捕食が一段で終わるなら、比較的単純な光景です」
ルヴァナが教授を見る。
「一段?」
エヴァが笑った。
「教授は食われてマトリョーシカになってたからな」
ネイラがティセラを見る。
「どういう意味です?」
ティセラはいつもの調子で答えた。
「私が谷底へ来た時、何らかの生物に捕食されていました」
ルヴァナが目を丸くする。
「教授が?」
「はい」
「食べられてたの?」
「そうです」
「でも生きてた?」
「生きていました」
リーゼが嫌そうな顔をする。
「問題はそこからだ」
ティセラは続けた。
「私を捕食していた生物も、別の生物に捕食されていたようです」
ネイラが考える。
「その外側に、さらに捕食者が?」
「その可能性があります」
エヴァが笑う。
「教授が一番内側だ」
ルヴァナが指を折る。
「教授を食べた奴がいて、それを食べた奴がいて、さらにその外?」
「正確な段数は不明です」
ティセラは真面目だった。
シズクが補足する。
「最後は、大きな生き物の頭が飛んできました」
「何で頭だけ?」
リーゼが止める。
「聞かない方がいい」
「気になる」
「巨大な魚に食われて、頭が千切れてこっちへ飛んできた!」
ルヴァナは少し考えた。
「すご」
「すご、で済ませるな!」
ティセラはしばらく水面を眺めた後、ふと思い出したように皆を見た。
「こうして娘さんたちも来たことですし、皆さんが谷底へ来た時の状況を改めて整理してみましょうか」
リーゼが眉を寄せる。
「ここでか?」
「実物を見ながらの方が分かりやすいでしょう」
ティセラは大瀑布を見る。
「シズクは、あそこからですね」
シズクも滝を見上げた。
「はい」
ネイラとルヴァナがシズクを見る。
シズクは静かに話した。
「私の里では旱魃が続いていました。雨を願うため、私は生贄として神の大瀑布へ入りました」
ルヴァナの表情が少し変わる。
「落とされたの?」
「いいえ。自分で進みました」
「怖くなかった?」
シズクは少し考えた。
「怖かったと思います。ただ、あの時は死ぬものだと思っていましたので」
ネイラが巨大な滝を見上げる。
「これを落ちたんですか?」
「はい」
「そして生きていた」
「気がついた時には館でした」
エヴァが言う。
「流木に引っ掛かってたのを俺が拾った」
シズクが微笑む。
「そう聞いています」
ティセラはエヴァを見る。
「エヴァは、この瀑布ではありませんね」
「ああ」
エヴァは遠い水面を見ながら答えた。
「俺の国の方じゃ、魔界大穴は乾いた崖だった」
「そこから?」
「国が負けて捕まった。その後、最後に捨てられた」
ルヴァナが聞く。
「この水まで直接落ちたの?」
「途中は知らん」
「知らない?」
「落ちた後、どこかの水には入った。池か川か地下水路かも分からん。そのまま流されてきたらしい」
ネイラが頷く。
「同じ谷底へ来ても、入り口が違うんですね」
ティセラも頷いた。
「そこが興味深いところです」
次にリーゼ。
リーゼは腕を組んだ。
「小官は墜落だ」
ルヴァナが聞く。
「飛行機?」
「そうだ」
リーゼの顔が少し誇らしげになる。
「ヴェルテンヴァント、世界壁を越える航空任務中だった。機体が損傷し、そのまま谷底へ墜落した」
ネイラが尋ねる。
「この滝壺へ?」
「北の川だ」
「機体ごと?」
「ああ」
シズクが言う。
「聖者とエヴァが助けに行きました。私も一緒に」
エヴァが続ける。
「途中からシズクを持った」
ルヴァナがすぐ反応した。
「その時も荷物?」
シズクが頷く。
「はい」
リーゼが叫んだ。
「そこで話を戻すな!」
娘二人が笑った。
ティセラについては、先ほど聞いたばかりなので説明は短かった。
そしてネイラが母親二人を見る。
「クロエ母さんとアスラ母さんは?」
ルヴァナも聞く。
「あたしたち、二人が落ちた時の細かいところは聞いてなかったよね」
クロエとアスラが顔を見合わせた。
アスラが先に言う。
「こいつに落とされた」
クロエが即座に返す。
「貴様も私を落としただろう」
リーゼがため息をついた。
「またそこから始めるのか」
ネイラが聞く。
「二人とも?」
クロエが説明する。
「世界を分つ谷の上で戦っていた」
ルヴァナが笑う。
「また戦ってたんだ」
アスラは平然としている。
「いつものことだ」
クロエが続けた。
「最後に互いの攻撃がほぼ同時に入った。それで二人とも裂谷へ落ちた」
ネイラが尋ねる。
「一緒に?」
「分かつ河まではな」
アスラが答えた。
「その後、流れが分かれた」
クロエは娘たちを見る。
「私は西側の支流へ流され、大尉と教授に拾われた」
アスラも続ける。
「私は別の水路へ入り、エヴァとシズクに拾われた」
ルヴァナは二人を見比べた。
「戦って、一緒に落ちて、別々に流されて、最後は同じ館?」
「そうだ」
ネイラが小さく笑う。
「やっぱり仲がいいですね」
「違う」
「違う」
母親二人の声が揃った。
リーゼは手を振った。
「その話はもういい。何度聞いても宿敵へ戻る」
滝壺の景色を十分に見た後、一行は漂着物が集まる岸へ移動した。
こちらも、娘二人以外にはいつもの仕事だった。
樽。
壊れた箱。
板。
縄。
布。
陶器片。
片方だけの履き物。
金属片。
用途の分からない道具。
流れ着くものは毎回違う。
ルヴァナがさっそく濡れた箱へ手を伸ばした。
シズクが止める。
「触らないでください」
「何で?」
シズクは近くから長い枝を拾った。
ルヴァナの顔が明るくなる。
「棒!」
「はい」
リーゼが言う。
「何故、それだけはもう知っている」
「館の周りで教えてもらった」
シズクは箱から少し離れて立つ。
棒を伸ばす。
軽く突く。
反応はない。
もう一度押す。
箱が転がる。
裏側から黒い虫が何匹も這い出した。
ルヴァナが一歩下がった。
「うわ」
シズクが頷く。
「こういうことがあります」
ネイラは真面目に見ていた。
「直接触れず、まず動かして裏まで確認する」
「はい」
ティセラが補足する。
「生物、卵、植物、毒物などが付着している可能性があります」
ルヴァナも棒を拾った。
「じゃ、あたしも」
アスラが娘を見る。
「強く叩くなよ」
「つつくだけ」
クロエも言う。
「お前のつつくだけは信用できん」
シズクが棒の長さを見る。
「もう少し長い方が安全です」
「じゃあこれ!」
「それなら大丈夫です」
リーゼは頭を抱えた。
「谷底式安全確認が娘二人にも定着していく……」
全員が岸へ散らばった。
ノアは大きな流木。
エヴァは使えそうな金属。
リーゼは壊れた箱の金具。
ティセラは流れ着いた植物片。
クロエとネイラは用途不明の金属部品。
アスラとルヴァナは、大きな流木を二人でひっくり返そうとしている。
リーゼが叫んだ。
「力任せに裏返す前に棒で確認しろ!」
ルヴァナが止まる。
「あ」
アスラも止まった。
「忘れていた」
「母親まで!」
少し離れた場所で、シズクは濡れた布を棒でつついた。
動かない。
裏返す。
錆びた針のようなものが数本出てくる。
「これは使えそうです」
エヴァが見る。
「持って帰れ」
「はい」
シズクは少しだけ笑った。
初めて滝壺へ来た日、自分が拾ったものも針だった。
裁縫ができる。
それが、谷底で見つけた最初の仕事になった。
今は自分が、新しく来た娘たちへ漂着物の拾い方を教えている。
そんなことを考えていた時だった。
ノアが顔を上げた。
「ん?」
エヴァも少し遅れて空を見る。
クロエとアスラは、ほぼ同時だった。
「上」
「何か落ちている」
全員が大瀑布の方を見る。
白い水煙。
巨大な落水。
その彼方。
何かが落ちていた。
遠い。
滝壺のかなり彼方。
最初は黒い点にしか見えなかった。
だが、点にしては大きい。
落ち続けるにつれ、その輪郭が少しずつ分かる。
ネイラが目を細めた。
「物ではありません」
クロエも見る。
「動いている」
ルヴァナが聞く。
「生き物?」
リーゼも目を凝らす。
「四つ足……か?」
水煙の切れ間。
黒いものが身体を捻った。
四本の脚らしきもの。
大きな胴。
長い首のようなもの。
翼は見えない。
かなり遠い。
それなのに、大きさが分かる。
ルヴァナが呟いた。
「……でかくない?」
ネイラも頷く。
「あの距離で形が分かります」
シズクは落ちている黒い生き物と、滝壺の上空を飛んでいる鳥のようなものを見比べた。
人から見れば、十分すぎるほど大きい。
だが。
「それでも」
シズクが言う。
「あの鳥なら、丸ごと食べられそうですね」
ルヴァナが鳥を見る。
黒い生き物を見る。
もう一度鳥を見る。
「……ほんとだ」
リーゼが嫌そうに言った。
「谷底では大きさの基準を考えるな。頭がおかしくなる」
ティセラは眼鏡を押し上げる。
「少なくとも、こちらから四肢を判別できる程度の大きさはあります」
エヴァだけが、何も言わなかった。
黒い生き物を見ている。
眉を寄せる。
何かが引っ掛かったような顔。
シズクが気づいた。
「エヴァ?」
「……いや」
エヴァはさらに目を細めた。
「遠すぎる」
黒い生き物は、まだ落ちている。
一度、四本の脚が大きく動いた。
そして。
遥か彼方の滝壺へ。
落ちた。
どおおおおおんっ!
巨大な水柱が上がった。
かなり遠い。
それでも、少し遅れて音が届いた。
水柱が崩れる。
大きな波紋が広がっていく。
ルヴァナが呟いた。
「落ちた……」
ネイラは水面から目を離さない。
「浮いてきますか?」
ノアも遠くを見ている。
「分からない」
リーゼは空を見た。
「あの距離では、すぐ助けに行くわけにもいかんな」
クロエも空を見る。
アスラも同じ方向を見る。
エヴァだけは、まだ落下地点から目を離さなかった。
広大な滝壺。
その彼方。
水柱が消えた場所には、もう何が落ちたのか分かるものは見えない。
しばらくして。
上空を飛んでいた鳥のようなものが一羽。
落下地点へ向きを変えた。
さらにもう一羽。
その向こうでも。
別の大きな影が旋回を始める。
シズクがそれを見て言った。
「見つかりましたね」
エヴァは何も答えなかった。
ただ、遠い水面を見続けていた。




