6・1 ライナルトの初恋
馬車から降りた先に見えたのは、三階建てで簡素なつくりのアパルトマンだった。ライナルトの魔術の先生、イルザさんのお宅だ。
ライナルトの後に続いて小さなエントランスに入る。右手には階段があり、正面にはやはり簡素な木の扉があった。
小さなノッカーにライナルトが手を伸ばしかけたところで、扉が開き男性が顔を出した。
「馬車の音がしたので。お久しぶりです」
男性が丁寧に頭を下げる。年のころは四十くらい。服装は質素で、どことなく淋しげな表情をしている。
「お久しぶりです。こちらは――」と、ライナルトが私を示す。「同僚のフリーデ・キューネル伯爵令嬢」
男性が私に向かって「イルザの夫、ヴィム・ペッペルです」と挨拶し、後ろを振り向く。その先には十代前半の男の子がいた。
「あちらが息子のテオです」
「初めまして。フリーデ・キューネルです。訪問をご許可くださり、ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもない!」
ヴィムさんが慌てたように両手を横に振る。
「妻のことをいまだに気にかけていただき、ありがたいかぎりです」
「当然です!」
ライナルトが強い口調で割って入った。
「すべては父が短慮だったことが原因なのですから」
ヴィムさんは困ったような顔で、小さく頭を下げた。平民の彼に、侯爵に非があると言えるはずがない。たとえどんなに悲惨な状況だとしても。
ライナルトの話によると、イルザさんには当時一歳のお子さんがいたという。そのお子さんがテオさんだ。
テオさんは生きて動いているお母さんの記憶がないそうだ。
彼についての話は聞いただけでも、胸が潰れそうになる。
テオさんがまだ幼いころは、ライナルトに会うたびに「いつお母さんに会えるの?」と尋ねていたのだけど、いつの間にか口にすることはなくなったとか。
『テオは期待することを諦めてしまったのかもしれない』と私に話すライナルトは、ひどくつらそうだった。
ヴィムさんの案内で室内に入る。
イルザさんはリビングにいた。両手は身をかばうかのように胸の前で構えている一方で、表情はあまりない。あえて言うなら諦念が感じられる。
そんな彼女の前には小さなテーブルがあって、花瓶にいけられた花とパン、ワインが置かれていた。
ヴィムさん、テオさんのお気持ちが痛いほど伝わってくる。
――ライナルトに彼女の話を聞いたとき、私は当然呪いの解析に向かうものだと思った。けれどライナルトはそこまでさせるつもりはない、自分が解析したものがある、と断った。
なぜなら、イルザさんの元へいくと絶対に気持ちが沈むからなのだという。
確かにライナルトの言うとおり、十二年も経つのに大切にされているイルザさんや、物悲しげなヴィムさん、お母さんを知らずに育っているテオさんを見ると、苦しくなる。
けれどライナルトはこの辛さから十二年も逃げずに、努力してきたのだ。
こんなに誠意あるひとはほかにいない。
そう考えると、私はとても素敵な人を好きになったのだと思う。
◇
解析を終えると暇を告げて、ペッペル家を出た。
やや離れたところで待機していた貸し馬車が近寄ってくる。なぜクラッセン邸の馬車ではないかというと、ペッペル邸の来訪が侯爵夫妻に伝わると、関わるのはもうやめろと命令されるからなのだそう。
馬車に乗り向かい合わせにすわると、解析結果の書き付けを取り出した。内容はライナルトと、かつて魔法局が作成したものとまるで同じだった。
とはいえもともと例のない呪いで、解析不可能な部分も多い。それがライナルトが八年かけても解呪できない原因ではないかという。
「オレは魔術師を辞めても、研究は続けるつもりだ。先生のためにも、ご家族のためにも」
ライナルトの言葉にうなずく。
でも文官の仕事をしながらとなると、取れる時間は大幅に減る。
さらに痛手となるのは、魔法局員しか閲覧不可能な書物が多くあること、研究材料の入手が今より難しくなることだ。
「とはいえ、魔法局員である間に解決することがベストよね。がんばりましょう」
「ああ。――ありがとな。フリーデの協力があれば可能な気がする」
「任せて」
笑顔のライナルトに私も笑顔を返す。
けれど脳裏にペッペル家で見た彼の顔がよみがえり、胸の内にもやもやとしたものが広がった。
イルザさんを見るライナルトは、切なそうな顔をしていた。
それに彼から初めてイルザさんの話を聞いたときの様子も思い出す。
恐らく、ライナルトは――
はっきりさせたいと考えた私は、思い切って尋ねることにした。
「間違えていたらごめんなさいなんだけど。あなた、イルザさんを好きだったんじゃない?」
「……っ!」
ライナルトの顔が真っ赤になる。目を見開き口をはくはくと動かす。かと思うと大きな手で口元を隠し、顔をそらす。
けれどすぐにまた私を見た。
「す、好きといっても子供のころのことだ。どうにかなりたいなんて微塵も思っていなくて、ただ、なんというか、そう、憧れだ。しょ、正直なところ初恋、ではあるんだが、幼いころの幼い気持ち、にすぎない。うん」
私の指摘にライナルトはかなり動揺したみたいで、嚙みながらも早口でまくしたてると、ふう、と大きく息をはいた。
「ごめんね。余計なことを言ったわね」
「いや、過去の話だし」
でも、ライナルトがイルザさんに好意を持っていたことは事実なわけで。今まで恋愛事情を微塵も見せていなかったぶん、私のショックは大きいみたいだ。
しかも、初恋。初めての恋なんてものは生涯に一度きりしかない特別なものだし……
――まいったな。私は恋心を彼に伝える気もないくせに、いっちょ前に傷ついているらしい。
「フリーデ。念のために言うが、今のオレはイルザ先生に特別な思いはないからな? 助けたいという気持ち、それだけだ」
なぜか必死の表情で言い募るライナルトに、胸の痛みは消えないものの、思わず笑みがこぼれた。あまりに必死すぎて、逆に信憑性がない。
「わかったわ。どのみち私はあなたの恋愛に口を挟むつもりはないもの。安心して」
「いや……。うん、まあ今は仕方ない」
ライナルトはまたも特大のため息をつくと、小声で「これも必要な過程なんだ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
さすがにちょっと後悔をする。
きっとライナルトは初恋を大切に自分だけのものにしたかったんだ。なのに私はそこに土足で踏み込んでしまった。
これだから恋愛経験のない仕事人間ってダメなのね。
ライナルトへの恋心なんて忘れて。適切な距離・適切な対応を心がけないと。
胸の痛みなんて、いつかはなくなるだろうから。




