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接ぎ木  作者: 塩崎栞
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4 一つの記憶

 デパートの食品売り場では、様々なバレンタインチョコが宝石のように展示されていた。ご褒美用のトリュフチョコから、幼い子供が喜びそうなキャラクターチョコまで、棚の端から端まで占領している。


 黄色い声を上げて物色する少女たちを横目に、私は鞄の紐を強く握りしめた。家の近くだからって、部屋着にコートを羽織っただけではラフすぎただろうか。

 恋人持ちの姉さんに付いてきたことはあるが、一人で、渡す相手が明確に決まっているチョコを買いに来たのは初めてだった。どこか居心地の悪さを感じながらも、見本として展示されているチョコを一つ一つ見ていく。


 カカオ特有の甘い香りが、売り場全体に広がっていた。二月になれば街のあちこちから漂うその匂いを吸い込んだとき、口内で茎がぴくりと動いた。


 姉さんに見てもらったあの日から、茎の成長に特に変化はなかった。私自身も体の中を這う異物にすっかり慣れ、授業中などはその存在を忘れていたほどだ。


 その薔薇が蠢き、揺れ、茎を伸ばした。

 目覚めた、としか形容できないほど、その成長は急なものだった。


 口内をみるみる満たす茎に、恐怖を感じる前に噛みついた。歯は思ったよりも深く食い込み、三分の一ほどを切り落とした。だらりと力を失った茎の断面から、液体のようなものが溢れ出た。先程肺一杯に吸い込んだ香りが、今度は自分の内部から漏れ出ていた。


 茎から滴り落ちたのは、チョコだった。どろりとした液体が口内に溢れ、舌に纏わりつく。

 甘い。頭の髄まで痺れそうだ。


 ぎゅっと目を閉じたとき、ある光景がストロボを焚いたように瞼の裏に浮かんだ。


 私自身が見える。まだ幼い。小学校低学年くらいだろうか。満足そうに笑う私の手には、チョコが握られている。そこらのデパートのお菓子売り場で買える代物ではない。ブランドのロゴが入った包装紙に包まれたそれは、つるんと丸い形をしている。

 私は記憶を手繰り寄せる。


 ……ああ、そうだ。あれは、オレンジを模ったチョコだった。二十四等分にスライスされていて、一枚一枚にオレンジの断面の模様が刻まれていた。口に入れると、チョコの甘さと柑橘系の酸っぱさが広がって、なんて美味しいのだろうと私は感動して……。


 母親が職場の病院で貰ったチョコだった。

 その病院には女性から大人気のお医者様がいて、バレンタインには持ちきれない程のチョコを贈られていた。けれでも、そのお医者様は既婚者で、大量のチョコを持って帰る訳にはいかないから、十数人いる看護師に全て配ったのだった。


 まだ幼い私が高級店のチョコにありつけたのも、そういう理由だった。


 高級そうな紙袋に入ったチョコを、母は四個も五個も持って帰って来た。お金がかけられているだけあってどれも信じられない程美味しかったが、私の記憶に深く刻まれたのはオレンジを模ったチョコだった。

 幼い頃は、その理由が分かっていなかった。オレンジを丸々一つ模ったチョコなんて珍しいから目に留まったのだろう。そう自分を無理やり納得させていた。

 今なら分かる。


 母が貰ってきたチョコの中で、あれだけが本命だった。


 箱に規則正しく詰められたチョコが並ぶ中で、丸々としたオレンジは明らかに異彩を放っていた。アルミの包み紙を剥がすと、花が咲くようにチョコが広がった。


 女の想いも、そこには詰まっていた。例え既婚者であっても好意を伝えずにはいられない、どこか執念じみた想いだった。


 どんな女性だったのだろう。彼女の名前も顔も、私は知らない。

 看護師か、入院患者か、それとも知人の見舞いに行ったときに偶然そのお医者様を見かけたのか。

 他の女性たちのチョコに紛れないように、吟味したのだろう。綺麗にラッピングするときも、不安と期待が織り交ざったに違いない。本命チョコという形で、許されない想いを伝えようとしたのだ。


 その想いを、私は食べた。相手に届くことのなかった情念は、消化されることもなかったのだろう。根付くようにして、私の腹に留まり続けた。そのまま目覚めることも、本来ならなかった筈だ。

 絵描きの彼女に対する私の燻ぶるような熱が、芽を出す養分となった。薔薇は接ぎ木で育つ。私という土壌が、名も知らない女の情念を育てたのだ。


 だからこの薔薇は、恋に身を焦がした女性であると同時に、私自身だ。


 噛み切っても尚長い茎が、私の舌を這う。表皮に棘を引っかけながら。わざと私を傷つけるように。

 私は歯で茎を挟み、ますます強く舌に押しつけた。沈んだ茎が皮膚を破り、無数の傷口から血が滲む。


 いいんだよ。


 心の中で呟く。


 もっと血を流しても。


 例え無意識であっても。炎が燃えるような女性の想いの強さを、まだ知らなかったとしても。


 貴方の真剣な想いを、私は踏み躙ったのだから。


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