第九話 赤い津波
(前書きはNVNKに粛清されました)
1945年7月8日未明、ソ満国境。
満洲の空は、異様な静けさに包まれていた。
湿り気を帯びた夏の空気が、地表に重く沈み込んでいる。草は風もなく揺れず、虫の声さえどこか遠く、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
それは、嵐の前の静寂ですらない。
もっと質の悪い――逃れようのない「予告」だった。
最初の異変に気づいたのは、国境付近の監視哨である。
同時刻、ソ満国境、監視哨
「……機影?」
兵士は双眼鏡を覗き込み、目を細めた。
霞んだ地平線の上に、黒い点がひとつ浮かんでいる。
いや、違う。
二つ、三つ。
瞬きをする間に、それは増殖していく。
点は線となり、線は塊となり、やがて編隊を形成して空を覆い始めた。
その規模を理解した瞬間、兵士の背筋に冷たいものが走る。
「おい、あれは――」
言い終える前に、空気が裂けた。
轟音。
爆発。
大地が跳ね上がる。
警報が鳴り響くよりも早く、すべては始まっていた。
ソ連軍機による一斉爆撃である。
滑走路が抉り取られ、燃料庫が炎柱となって吹き上がる。兵舎は瞬時に瓦礫へと変わり、逃げ惑う兵士たちの影が爆炎に呑み込まれていく。
低空へ降下した攻撃機が、地表を舐めるように通過する。
機銃掃射。
土煙と血飛沫が一直線に引き裂かれる。
満洲国空軍は混乱の中で緊急発進を試みた。
だが、それはもはや「戦闘」と呼べるものではなかった。
離陸直後の機体が、上空で待ち構えていた敵戦闘機に捕捉される。旋回に入る余裕すらなく、火球となって落ちていく。
一機、また一機。
滑走路の残骸の上に、黒煙の柱が増えていく。
空は、完全に制圧されていた。
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同時刻、ソ満国境地上戦線。
地鳴りが、大地の奥から這い上がってくる。
最初は錯覚かと思われたその振動は、やがて誰の耳にも明確な現実として届いた。
ソ連極東軍の侵攻である。
地平線の彼方から、戦車の群れが姿を現す。無数の履帯が土を砕き、砂塵を巻き上げながら前進してくる様は、まるで地面そのものが動き出したかのようだった。
その後方では砲兵部隊が整然と展開し、間断なく砲撃を開始する。
音が重なり、空気が震え、世界が歪む。
圧倒的な物量。
それは戦術でも戦略でもなく、ただ「現象」として迫ってきた。
これに対する関東軍および満洲国軍の防衛線は、あまりにも脆弱だった。
野戦陣地。塹壕。急造トーチカ。
確かに「準備」はされていた。
だが、その準備はソ連軍の物量を押し留めるにはあまりにも不足だった。
「来るぞ!」
叫び声と同時に、砲弾が直撃する。
陣地が消し飛び、土と血と肉片が混ざり合って宙に舞う。
生き残った者が反撃を試みる。
対戦車砲が火を噴き、一両のBT-7を撃破する。
しかし、その背後から現れるのは十両、二十両――数えきれない後続だ。
機関銃は撃ち続けられる。
銃身は赤熱し、やがて歪み、沈黙する。
弾薬も、時間も、決定的に足りない。
そして、空から死が降りてくる。
ソ連のIl-2襲撃機。
低空で侵入し、ロケット弾を放つ。
炸裂。
塹壕ごと、人間が吹き飛ぶ。
逃げる者の背中を機銃弾が貫く。集団は爆弾で粉砕される。
地上に存在する「動くもの」は、すべて標的だった。
戦線の崩壊は、崩壊と認識されるよりも早く進行していった。
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1945年7月8日、満洲国内各地。
前線から遠く離れた村々にも、別種の破滅が訪れていた。
武装した兵士たちが、組織だった動きで侵入する。
扉は蹴破られ、金品は奪われた。
抵抗の試みた者は即座に銃殺された。
女性は皆凌辱された。
だが、それも長くは続かない。
火が放たれる。
乾いた木材は一瞬で炎に包まれ、家屋は音を立てて崩れ落ちていく。
煙が空を覆い、熱が呼吸を奪う。
逃げようと試みた者は皆殺しにされた。
逃げ場を失った人々は、その場で倒れるしかなかった。
それはもはや戦争という枠組みでは説明できない。破壊でも、占領でもない。
それは、「浄化」だった。
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1945年7月8日、東京市ヶ谷、陸軍参謀本部。
中枢は、既に機能不全に陥りつつあった。
「ソ連が攻めてきただと?条約はどうした!」
梅津美治郎参謀総長が確認する。
「確認中です!しかしながら、既に現地との連絡が途絶しつつあります!」
報告に来た参謀が答える。
「制空権はどうした!?」
梅津参謀総長が確認を取る。
「……既に喪失した模様です」
参謀から返ってきた答えは、あまりにも絶望的だった。
怒号と報告が交錯する。
しかし、それらはどれも断片的で、全体像を結ぶものは存在しない。
状況を理解する前に、結論だけが押し出される。
「関東軍は持ちこたえろ。死守せよ」
反射的な命令だった。
そこには戦略も見通しもない。
ただ「時間を稼げ」という一点のみ。
だが、その時間が何を意味するのか――誰一人として説明できなかった。
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さらに混乱を深めたのは、外務省内部である。
「今回の事態は、明らかに陸軍の責任だ」
「築城工事などという挑発行為の結果だろう!」
対ソ交渉に望みを託していた官僚たちは、責任の所在を軍へと押し付け始める。
「外交的解決の道を閉ざしたのは誰だ!」
「いや、そもそも軍が――」
議論は瞬く間に罵倒へと変質する。
誰もが「過去」を責めるが、「今」を決める者はいない。
統制は失われ、国家の意思は内部から崩れ始めていた。
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1945年7月8日、満洲。
ひとりの将校が、焼け焦げた地面の上に立っていた。
周囲には、もはや部隊と呼べるものは存在しない。
瓦礫。
死体。
そして、遠くから響き続ける砲声。
彼はゆっくりと空を見上げる。
灰色の雲の向こうを、敵機が横切っていった。
「……これが、終わりか」
その声は、風にも届かない。
ただ、自分自身の中で消えていく。
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絶滅戦争。
その言葉は、まだ誰の口にも上っていない。
だが現実は、既にその段階へと踏み込んでいた。
国家も、軍も、民も。
区別なく押し潰されていく。
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1945年7月8日、ソ満国境、虎頭要塞
ソ連による宣戦布告無き侵略で崩壊していく満洲国の中で、唯一気を吐いていたのが虎頭要塞であった。
「撃ー!」
射撃指揮官の号令で、見上げるほどの巨砲から巨弾が撃ち出される。
発射された巨弾は瞬く間にソ満国境を飛び越え、スターリンが砲撃でシベリア鉄道が遮断されないようにと架けさせた鉄橋の周囲に降り注ぎ鉄橋を揺さぶる。そして暫く揺さぶられるうち、鉄橋や橋脚に巨弾が直撃して鉄橋が川へと叩き落とされていく。
ソ連領内かつ射程内に存在する鉄橋や駅及び信号所を一通り破壊し終えた巨砲は、その破壊力を迫り来るソ連軍地上部隊へ振り向ける。
近くに戦艦の主砲弾と同じくらいの巨弾が着弾し地中で炸裂した衝撃で、欧州で猛威を振るったT-34-85が何両も転覆してしがみついていたソ連軍歩兵は撒き散らされ或いは踏み潰される。
運悪く列車砲の砲弾を喰らったJS-2は原型を留めず、それが戦車であったことすら分からない鉄塊へと姿を変える。
砲撃での破壊を試みるソ連軍砲兵は、列車砲からの砲撃に手も足も出ない。
しかしながら、彼等の反撃は侵略者の暴虐に比べるとあまりにもささやかだった。
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ソ連による宣戦布告なき侵略。
その一撃によって、この戦争の「出口」は完全に消失した。
日本政府は、この事態をもって結論づける。
――連合国は、日本国民を一人残らず絶滅させるつもりである。
その認識のもと、本土決戦準備は加速していく。
理性ではなく、恐怖によって。
ただ一人――もとい、ただ「お一方」を除いて。
仲介を頼んだ相手から突然殴られて事実上敵しか居なくなっちゃったーー日本はそんな絶望に叩き落とされました。
ところで、ポツダム宣言が出されたポツダム会談って7月17日に開始なんですよね。
つまり、作中にてこの時日本が把握してることは、
1.連合国は無条件降伏以外認めない。
2.ドイツは滅びて消滅した。
3.ソ連が突然日ソ不可侵条約を破って日本と満洲に侵略し始めた。
の3つであり、これらを総合すると文字通り絶滅するまで戦争を継続するか無条件降伏(=明治22年憲法で保障されている人間としての権利が認められるかすら怪しい(てかソ連の行動からして人間として扱われないと考える方が自然))かの2択ということになります。
なので絶滅まで戦争し続ける方がまだ明るい未来を描けそうという訳で。




