第八話 大日本帝國海軍壊滅
ヨーロッパでドイツがコミーに滅ぼされようとしている間、太平洋では着々とアメリカ軍が日本を追い詰めていきます。
日本は事実上アメリカとイギリスだけで敗戦まで追い詰められつつありますから、莫大な出血を流した成果をソ連に掻っ攫われたくないというアメリカ側の心理も分かりますね。
1945年2月下旬。
太平洋の戦局は、もはや取り返しのつかない段階へと踏み込んでいた。
アメリカ海軍は硫黄島攻略作戦を発動、まずは数日にわたる熾烈な艦砲射撃によって島そのものを削り取るかのような攻撃を加えた。黒い火山灰の大地は砕かれ、焼かれ、掘り返され、地形そのものが変貌するほどの破壊が降り注ぐ。
しかし、それでもなお、硫黄島に立て籠もる小笠原兵団は沈黙しなかった。
地下壕に潜り、火力を温存し、敵を引き込んでから叩く——徹底した持久戦の構えは、上陸してきたアメリカ軍を確実に消耗させていった。島の至る所から突如として噴き上がる銃火、姿なき砲撃。制圧したはずの地点からの反撃。アメリカ軍は「占領」という言葉の意味を、硫黄島で根底から覆されることになる。
攻略は遅れに遅れた。
当初予定された日数の実に十倍。硫黄島は、ただの小島ではなく、血を吸い続ける消耗戦の象徴へと変わっていた。
だが、その代償の果てに得られたものは決して小さくはなかった。
第21航空軍による日本本土空襲に、ついにP-51戦闘機の長距離護衛が付くようになったのである。
これにより、日本本土上空の様相は一変する。
これまで爆撃機を迎撃すればよかった戦いは、護衛戦闘機との空戦を強いられる戦いへと変貌した。高度、速度、航続距離、そのすべてで優位に立つ敵機との戦闘は、日本側戦闘機部隊にとって苛烈を極めるものとなっていく。
空は、もはや守るものではなく、削り取られていく場所となりつつあった。
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1945年3月末。
硫黄島の戦いがなお継続している最中であるにもかかわらず、アメリカ海軍は次の一手を打つ。
第5艦隊の主力を沖縄本島沖へと展開させたのである。
1945年4月1日。
日本側の予想を裏切る形で、アメリカ軍は沖縄への上陸を敢行した。
上陸部隊は強固な抵抗に直面する。だが、それでも止まらなかった。圧倒的な物量と継続的な補給、そして制空・制海権の完全な掌握。それらを背景に、アメリカ軍は沖縄本島を横断し、戦域を縦に切り裂くように進撃していく。
これに対し、防戦にあたる第三十二軍は、致命的な混乱に陥ることなく後退を続けた。
秩序は維持されていた。
だが、それは勝利への秩序ではない。
敗北を先送りするための秩序だった。
彼らは最終防衛線である首里へと集結し、そこに籠る。
沖縄戦は、ここからが本番だった。
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1945年4月2日。
沖縄上陸の報が日本本土へ届くと、海軍軍令部は即座に動いた。
「菊水作戦」実施が決定される。
開始は4月6日。
南九州各地の飛行場には、陸海軍の航空部隊が次々と展開していった。整備の行き届かぬ機体、熟練とは言い難い搭乗員、それでも彼らは飛び立つ。
目的はただ一つ。
アメリカ第5艦隊主力への打撃。
それは通常の航空戦ではなかった。
特攻、そして夜間襲撃。
生還を前提としない攻撃が、繰り返し実施されていく。
その攻撃は軍事的には限定的であったかもしれない。
しかし、沖縄の地で生き延びようとしている人々にとって、それは確かに意味を持っていた。
ガマに身を潜めるしかなかった住民たち。
絶え間ない艦砲射撃と空襲に晒され続ける日々。
その中で、特攻や夜間襲撃が行われる時間だけは、わずかな変化があった。
アメリカ艦隊は防御に専念せざるを得なくなる。
砲撃の手が、わずかに緩む。
その一瞬が、彼らにとっての「慈雨」だった。
救いにも似た、短い静寂。
人々は感謝した。
だが同時に、願わずにはいられなかった。
——もうやめてくれ。
——自分たちのために、命を捨てないでくれ。
矛盾した祈りを胸に抱えながら、人々は水を集め、食糧を探し、ただ生き延びることにすがりつく。
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1945年4月2日。
海上でもまた、一つの決断が下されていた。
戦艦大和を旗艦とする第一遊撃部隊の出撃である。
沖縄へ。
事実上の片道作戦。
それでも出撃は命じられ、艦隊は南へと針路を取った。
1945年4月7日午後。
アメリカ第58任務部隊から発進し、合計309機もの艦上機が、3回にわたり空を覆い尽くした。
戦艦大和に向けられた93発もの爆弾、59本の魚雷、執拗な機銃掃射。
それら全てから逃れる術はなかった。
20発もの爆弾と20本以上もの魚雷を喰らった巨艦は炎に包まれて、やがて海へと沈んでいく。
護衛艦も軽巡洋艦矢矧以下、駆逐艦濱風、朝霜、霞、磯風が失われて、帰還できたのは雪風、涼月、冬月及び初霜の駆逐艦4隻のみ。
ワシントン海軍軍縮条約以来の花形にして大日本帝國海軍の象徴である第二水雷戦隊は、この時をもって解隊された。
それは単なる一部隊の消滅ではない。
大日本帝國海軍という組織そのものが、終焉へと向かっていることを象徴する出来事だった。
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一方、地上の第三十二軍。
彼らはなお戦い続けていた。
だが、その内実は深刻だった。
持久戦を徹底するのか、あるいは反撃に転じるのか。
方針は定まらず、決断は遅れ、命令は揺れ動く。
優柔不断。
それは戦場において最も致命的な要素の一つである。
無駄な損害が積み重なっていく。
それでもなお彼等は高い火力密度を維持し、アメリカ軍に損害を与え続けた。
その代償は確実に蓄積していく。
じわじわと、しかし確実に。
組織は蝕まれていった。
1945年6月22日
遂に第三十二軍は、組織的抵抗能力を喪失する。
沖縄の失陥は、もはや避けられないものとなった。
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三箇月に及ぶ戦いの末、大日本帝國海軍はほぼすべての重油燃料を使い果たした。
重油燃料が無いために艦隊は動けない。
艦隊が動けない以上、海上作戦は立てられない。
海軍は、存在していながら戦えない存在へと変わっていた。
残された手段は、事実上ただ一つ。
特攻。
それだけだった。
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1945年7月8日
そしてこの日、日本を絶望の底へ突き落とす出来事が起きる。
それは、これまでのすべてを覆すほどの現実だった。
本土の一角を占領されるまでに追い詰められた日本ですが、1943年にカサブランカで出された無条件降伏要求のために幕引きの決断が出来ないまま絶望を迎えることになります。




