第92話 温もりの先にある戦い
一晩で、身体は嘘のように軽くなっていた。
目を開けた瞬間、まず天井の木目が目に入る。見慣れたアルトレアの宿舎の天井だ。
息を吸う。胸の奥にこびりついていた重苦しさが、ゆっくりと溶けていく。
――動ける。
それだけで、心の奥に溜まっていた焦りが、少しだけ静まった。
「おはよう……ございます」
すぐ傍から、柔らかな声が返ってくる。
視線を向けると、ベッドの脇に腰掛けたトローネがいた。
夜明け前の淡い光を背に受け、穏やかな微笑みを浮かべている。
両手は胸の前で静かに組まれ、そこから細く、しかし途切れることのない魔力の流れが感じ取れた。
その魔力は、今もなお、俺の身体へと注がれている。
「……もしかして、一晩中……?」
自分でも分かるほど、声が低く、かすれていた。
「ええ……一晩中……です」
迷いも、照れもなく、それが当たり前のことだと言わんばかりの口調だった。
「私には……これくらいしか……できませんから」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
魂共鳴を立て続けに行い、魔力の流れを無理やり引き伸ばし、限界を越えた代償は、決して軽くはなかった。
作戦会議をした後、今日に備えてすぐに眠りについてしまった。
その間、彼女は一人、治癒魔法を続けていたのだ。
「……ありがとう、トローネ」
そう言うと、彼女はゆっくりと立ち上がり、ベッドの縁へと歩み寄ってきた。
近づくにつれ、やわらかな体温と、ほのかに甘い香りが伝わってくる。
次の瞬間、温もりが、そっと身体を包んだ。
広い胸元と、柔らかな腕が、逃げ場を与えないほど自然に回される。
押しつけるでもなく、だが確かに感じる重みと弾力が、身体の力を抜かせた。
強くはないが、包み込まれる感覚は深く、拒むという発想そのものが浮かばない。
柔らかなものに顔をうずめた拍子に、思わず息が漏れる。
背中を撫でる手は大きく、指先まであたたかかった。
まるで幼い頃、転んだあとに抱き寄せられた記憶をなぞるような、それでいて、子どもの頃には知らなかった大人の安心感が、そこにはあった。
「行って……らっしゃい」
その声音は、戦場へ向かう者に向けられる言葉ではなく、家を出る息子へ、静かに背中を押す母親の声だった。
「必ず……帰って……きてください」
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
「ああ。約束する」
短いが、逃げ場のない言葉で応えた。
トローネは満足そうにうなずき、最後にそっと額へ手を当てる。魔力の流れが、静かに断たれた。
「もう……大丈夫です。皆さん……外で待って……います」
その言葉を合図に、俺はベッドから身を起こした。
◇ ◆ ◇
外に出ると、朝の冷たい空気が肌を打った。
北側の防壁の前には、既に全員が揃っていた。
サリアは腕を組み、壁にもたれながらこちらを見ている。
厳しい視線の奥に、迷いはない。
ガレオンは大剣を背負い、目を閉じて静かに呼吸を整えていた。
戦いの前、いつもそうする。
コーハは拳を握りしめ、珍しく無言のまま前を見据えている。
言葉にしない分、決意は強い。
ドレイナとツムギは並んで立ち、短く言葉を交わしていた。
互いに、不安を押し殺すための確認のようにも見える。
ハードンはいつもの調子で腕を振り回し、笑っている。
だが、その目は鋭い。
シュウは一歩引いた位置で全体を見渡し、今後の行く末を頭の中で組み直しているのだろう。
連絡役として同行するリリラは、少し緊張した面持ちで、俺を見つめていた。
「……よし」
声を出すと、全員の視線がこちらに集まる。
その中に、ひときわ大きな影があった。
巨斧を肩に担い、熊のような体躯をした男。
北の風を思わせる荒々しさと、領主としての威厳を同時に纏っている。
「久しぶりだな、クロム」
低く、よく通る声。バルドリア北のカザル領主、マサクリフだ。
「腕利きが来てるとは聞いてたが……まさかあんたとはな」
「悪いか?」
「いいや。むしろ心強い」
マサクリフは豪快に笑い、俺の肩を叩く。
「ここは任せろ。ついて行きてぇ気持ちは山ほどあるが……」
そう言って、周囲を見渡す。
「連携が取れたもん同士の方が、戦は上手くいく。そういうもんだろ」
「……助かる」
「礼はいらねぇ。俺たちは、俺たちの役目を果たすだけだ」
その背中に、迷いはなかった。
◇ ◆ ◇
作戦の最終確認。
マサクリフ率いるバルドリアの部隊が、樹海入口で大規模な陽動を行う。
アンデッドを引き寄せ、注意をそちらへ集中させる。
その隙に、俺たちは樹海奥――敵の城へと突入する。
「問題は、場所だな」
マサクリフが言う。
「噂は聞いてるが、誰も見たことがねぇ」
俺は胸に手を当てた。
そこに、微かだが確かな感覚がある。
「……分かる」
「何?」
「リヴとの繋がりが、まだ残ってる」
細い糸のような感覚だが、まだ繋がっている。
「生きてる。今も……そこにいる」
空気が、張り詰めた。
「なら迷う理由はないわね」
サリアが言う。
「取り戻しに行こう」
ガレオンがうなずく。
「派手に暴れようぜ」
ハードンが笑う。
「必ず戻る」
シュウの言葉は短い。
「何かあっても泥ネバコンボで足止めしてやります」
「勝手にコンビにするんじゃないわよ」
見送りに来ていたネバルドにドロシーが反論する。
「リリリ。何かあっても私たちはずっと一緒だよ」
「リリラ。リリルと一緒に待ってるよ」
リリラとリリリが強く抱き合う。アストレイで待機してもらっているリリルも傍にいる様に感じる。
フリシアは両手を祈るように握りしめる。
「皆さんで……帰ってきてください」
全員が、それぞれの覚悟を胸に刻む。
俺は腰に差した黒い刀に手を置いた。
喰闇。闇を喰らい、道を切り開くための力。
「作戦開始だ」
その言葉と共に、全員が動き出す。
――ネクロスとの決戦。
ネクロマンサーとしての因縁を、ここで終わらせるために。
第十一章はここで完結です。
第十一章ではついに攻め込んできたネクロス、そしてさらわれたリヴ。
ネクロスとの決着をつける決意をします。
これから始まるネクロスとの長い戦いの結末、どのようになるのか楽しみにして頂けたら幸いです。
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