第93話 ここまで来た
空気が震えた。
地を叩き割るような轟音と、怒号と、魔力の爆発が一斉に押し寄せてくる。
木々の隙間を抜けて届くその振動は、もはや音ではなく衝撃だった。
大地そのものが呻いている。
――始まった。
マサクリフ率いるバルドリアの部隊が、正面から火を噴いたのだ。
見なくとも分かる。
あの男、そしてバルドリアの戦士たちが、ただ敵を引きつけるためだけの戦いをするはずがない。
全力でぶつかり、全力で殺し、全力で生き残る。命を賭けることを前提に、敵を叩き潰す。
それが、あの国の戦い方だ。
案の定、樹海の奥から、異様な気配が一斉に動き出した。
――アンデッドだ。
腐臭と死の魔力を纏った影が、雪崩のようにアルトリアへと流れ込んでいく。
骨が擦れ合う音、腐肉が地面を引きずる音。無数の足音が重なり、地鳴りのように響く。
あの数、さすがのバルドリア兵たちでも、すべてを抑えきれるはずがない。
実際、一部の群れは戦線をすり抜け、アルトリアの方角へと流れ込もうとしていた。
だが――淡く、しかし確固たる光の幕が、それを阻んだ。
ヴァリアさんの結界だ。
アンデッドたちは透明な壁に叩きつけられ、呻き、爪を立て、牙を剥く。
それでも、越えられない。
死者の力では、あの結界を簡単には破れない。
その光景を横目に、俺は拳を握りしめた。
――任せた。
声には出さない。だが、胸の奥で何度も繰り返す。
あの人たちが、アストレイを守ってくれている。
だからこそ、俺は前へ進める。
「クロム、そろそろ」
サリアの声が、背中から届いた。
振り返ると、仲間たちはすでに配置につき、武器を手にしていた。
馬車へ向かう足を進めながら、俺は自然とその顔ぶれを目で追う。
隣に立つのは、サリア。
槍聖の名に恥じぬ構えで、前に立つ。
本当は、俺は残ってほしかった。
それでも彼女は言った――「あなたと一緒よ」と。
だから今、迷いはない。
その隣で、大剣を肩に乗せるガレオンが、静かに呼吸を整えている。
一振りの重さで流れを変える男だ。必ず道を作ってくれる。
気づけば前に立っているのが、ハードンだ。
硬化の力を纏うあいつがいる限り、簡単には崩れない。
後方では、コーハがミーノと向き合い、言葉を交わしていた。
腐食はアンデッドには相性が悪い。
それでもこの旅において欠かす事が出来ない存在だ。
ツムギは静かにうなずいた。
戦場で何が起こるかは分からない。
糸で流れを繋ぎ、命を拾う役目を、彼女に託す。
シュウは言葉少なに、晴天を構えていた。
シグレの想いを継ぐ男。
今のアストレイにおける、間違いなく最高戦力の一角だ。
そして、リリラ。
いざという時の連絡役。
誰もが前を向けるのは、彼女がいるからだ。
――この布陣で、ネクレアへ行く。
誰の顔にも、迷いはない。
あるのは、覚悟だけだ。
「ああ。行こう」
短く答え、腰に差した黒い刀へと手を伸ばす。
喰闇。その冷たい感触が、現実をはっきりと俺に突きつける。
――これから先は、生きて戻れる保証などない。
だが誰一人、欠けさせない。
◇ ◆ ◇
旅立つ前にドルビが用意してくれていた馬車は、見た目以上に頑丈だった。
魔獣の皮で補強された車体に、底部は一見するとただの木組みに見える。
だが、走らせると分かる。
強い揺れが来ても、衝撃がふっと逃げる。
木と金属を噛み合わせた、職人ならではの仕掛けがそこにあった。
まるで、この旅を最初から知っていたかのようだ。
ネクロスの待つ場所へ向かうためだけに作られたと言っていい。
御者席にはハードンとコーハが並んだ。
「よし、行くぞ!」
ハードンが手綱を引く。馬車が軋みを上げながら動き出した。
その瞬間、空気が変わる。
コーハの魔力が、静かに、広がっていった。
腐敗領域。
生命を拒み、死を招く力。
進行方向の木々が、じわりと色を失い、葉が黒ずみ、幹が脆くなる。
根は崩れ、土へと還り、道が生まれる。
樹海の奥へ。
背後で、世界が閉じた気がした。
――後戻りは、もうできない。
◇ ◆ ◇
しばらく進んで、気づいたことがある。
アンデッドの数が、少ない。
「……案外、楽なもんだな」
御者席から、ハードンが気楽に言った。
だが、俺は首を振った。
「違う。楽なんじゃない」
視線は、前方の闇に向けたまま。
「向こうも気づいてる。アルトリアの攻撃が陽動だってことはな」
「じゃあなんで来ねぇ?」
「……あえて、だ」
自分で口にして、胸が重くなる。
「向こうの目的は、俺だ。俺たちを今は見逃してる。奥へ、奥へ誘い込むために」
沈黙が落ちた。
馬車の軋む音。腐敗して倒れる木々の音。
それだけが、耳に残る。
◇ ◆ ◇
初日の戦闘は、樹海に入って間もなく訪れた。
アンデッドの小規模な群れが道を塞いでいた。
剣を抜き、連携で押し切る。
ネクレア化を試みかけて、俺は判断を変えた。
――無理だ。
いつもより魔力も、時間も、喰われすぎる。
ここで消耗するわけにはいかない。
「倒して進む!」
叫び、喰闇を振るう。
闇を喰らう刃が、死体を沈黙させる。
それでも、消耗は確実に蓄積していった。
――近づいている。
メルクアに。ネクロスに。
◇ ◆ ◇
二日目、三日目、四日目。
アンデッドの抵抗は、確実に増していった。
数だけではなく、質が違う。
動きに無駄がなく、連携すら感じられる。
夜は無理をせず、交代で眠る。だが、眠りは浅い。
夢に、リヴの気配が混じる。
呼ばれている気がする。
細い糸のような感覚が、まだ繋がっている。
それだけが、俺を前に進ませた。
◇ ◆ ◇
五日目。
腐敗の進行が、目に見えて遅くなった。
コーハの額に、汗が滲む。
「無理はするな」
「でも……止まったら、終わりです」
歯を食いしばり、腐敗領域を広げる彼の背中は、小さく見えた。
進軍速度は、確実に落ち、焦りが、胸を締めつける。
その日の中規模戦闘は、これまでで、最も消耗した。
ガレオンの大剣が鈍り、サリアの魔力が荒れる。
それでも、誰一人倒れなかった。
倒れられなかった。
◇ ◆ ◇
六日目。
空気が、変わった。
音が、減った。風が、冷たい。
何かが、こちらを見ている。
言葉にしなくても、全員が感じていた。
――近い。
◇ ◆ ◇
七日目の朝。
樹海の向こうに、それはあった。
黒く、歪み、死を象った城。
視認した瞬間、喉が鳴る。
「……あれか」
誰かが呟いた。
俺は、喰闇の柄を握りしめる。
――来た。
ここが、終点だ。
そして、始まりだ。
ネクロスと、ネクロマンサーとしての因縁に、決着をつける場所。
俺たちは、馬車を止めた。
城を、ただ見据えたまま。




