第91話 闇を喰らう
意識が、底から引き上げられるように浮上してきた。
深い水底に沈められていたものが、無理やり光の差す場所へと引き戻される感覚。
重い。身体も、思考も、すべてが鉛のように沈んでいる。指一本動かすのにも、意志と時間が必要だった。
瞼を開くことすら億劫で、しばらくは呼吸の音だけが世界のすべてだった。
自分が生きていることを確かめるように、ゆっくりと息を吸い、吐く。
それでも、いつまでもこうしてはいられない。意識の奥から、焦りだけが先に目を覚まそうとしていた。
ゆっくりと、瞼を押し上げる。
視界に映ったのは、木組みの天井だった。
鼻をつくのは、薬の匂い。血と鉄と、死の気配が混じる戦場の臭いとは違う。
「……よかった」
安堵の声が、すぐ近くから聞こえた。
視線を向けると、そこにいたのはフリシアだった。 少しだけ目の下に影を落とし、疲れを隠しきれていない。それでも、微笑みはいつもと変わらない。
俺が目を覚ましたことを確認して、胸を撫で下ろしているのががはっきりと分かった。
「心配しました。二日間、ずっと眠ったままでしたから」
二日。
その言葉が、胸の奥に突き刺さり、思考が一気に引き戻された。
リヴ。
あの瞬間、背後から伸びてきた鎖。間に合わなかった判断。掴めなかった、その指先。
「……リヴは」
声が、思った以上に掠れていた。
身体を起こそうとするが、力が入らない。上体を起こしかけた瞬間、視界が揺れ、世界が傾いた。
「クロムさん、無理を――」
「助けに行かないと」
フリシアの制止を遮って言った。
考えて出た言葉じゃない。ただ、胸の奥に溜まり続けていたものが、堰を切ったように溢れ出ただけだ。
「今すぐ行かないと。リヴは……ネクロスに連れて行かれた。時間をかければ、それだけ――」
パンッ!
その先を言い切る前に、視界が横に弾かれた。乾いた音が、耳の奥に残る。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
遅れて、頬にじんわりと熱が広がる。
顔を上げると、そこに立っていたのはサリアだった。
振り抜いた手を下ろし、鋭い視線で俺を射抜いている。
「落ち着きなさい」
短く、強い声。
「焦って突っ込んで、何ができるの。あなたが死んだら、それで終わりよ」
息を呑んだ。
反論しようと口を開きかけて、言葉が出てこない。
否定できなかったからだ。
「……もう二日経ってる」
サリアは続ける。
「今さら早い遅いで状況は変わらないわ。冷静になりなさい」
二日。
その事実が、じわじわと胸に染み込んでくる。
俺は、歯を噛み締めた。
焦燥感でいっぱいだった頭が、ようやく現実を捉え始める。
今の俺は、剣を振るえる状態じゃない。立つことすらままならない。
――このまま突っ込めば、足手まといになる。
「……悪い」
小さくそう言うと、サリアはほんの一瞬だけ目を伏せてから、表情を和らげた。
「分かればいいのよ」
そのときだった。
「やれやれ、相変わらずいい夫婦だな」
背後から、場違いなほど陽気な声が飛んできた。
振り向くと、そこにいたのはハードンだった。腕を組み、いつもの豪快な笑みを浮かべている。
「ハードン、なんでここに……」
「僕たちもいるよ、クロムさん」
それを合図にしたかのように、次々と人影が現れた。
コーハ、ドレイナ、ツムギ、シュウ。
アストレイを支え続けてくれた仲間たちが、揃ってそこに立っていた。
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……なんで、みんな」
「決まってるだろ」
ハードンが肩をすくめる。
「仲間がさらわれて、黙って見てろって言われて誰が従う」
コーハが一歩前に出る。
「相手はアンデッドです。正直、僕の力じゃ通用しないかもしれません。でも……出来ることは、全部やります」
ドレイナも、腕を組んだまま言った。
「アストレイは男だけじゃないのよ」
ツムギが、静かに頷く。
「ここまで紡ぎとめてきた想いを、途切れさせるわけにはいきません」
シュウが、淡々と続けた。
「状況は把握している。俺も今はアストレイの一員だ。助太刀させてもらう。シグレの代わりに」
俺は、視線を落とした。
一人で背負い込もうとしていたことが、少しだけ恥ずかしくなる。
同時に、胸の奥が確かに支えられているのを感じた。
「アストレイとアステリアは……ギルドはどうなってる」
気になっていたことを口にすると、フリシアが即座に答えた。
「心配しなくていいよ」
その声には、迷いがなかった。
「各国から援軍が来ています。後方はミーノさんやドロシー、ネバルドさんに、トローネさんに任せてあります」
「ギルドの方もだ」
ハードンが続ける。
「ギルディアからな。ギルド設営のときに世話になったサポルさんが、代理で管理してくれてる」
あの人の顔が、すぐに浮かんだ。
「それだけじゃない」
ハードンはさらに言った。
「バルドリアから腕利きが来てる。アストレイとアステリアの防衛、それにアルトレアにもな」
胸の内で、静かに息を吐いた。
俺が倒れている間にも、世界はネクロスに向けて動いていた。
「それと」
サリアが一歩前に出る。
「イグラード様から伝言を預かってる」
父の名を聞き、背筋が自然と伸びた。
「『ヴァルメイアのことは心配するな。今は自国のことに集中しろ』だそうよ」
……父上らしい。突き放すようでいて、確かに背中を押してくれる。
部屋の空気が、次第に引き締まっていく。
そのとき、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、バラクだった。
無言で近づき、俺の前に立つと、一本の刀を差し出す。
黒い。柄も、鞘も、光を吸い込むような色をしている。
「最近はシグレやシュウと訓練してただろ。それなら刀の方がいいと思ってな」
俺は、無言でそれを受け取った。ずしりと、重みが掌に伝わる。
「名前は、まだない」
バラクはそう言って、一歩下がった。
俺は、刀を見下ろす。鞘から抜くと、刃に歪んだ自分の顔が映った。
自然と、言葉が口をついて出た。
「……喰闇だ」
周囲が、静まり返る。
「闇を喰らうと書いて、喰闇」
柄を握る手に、力を込める。
「これで――ネクロスという闇を喰らう」
顔を上げ、仲間たちを見る。
「アストレイのみんなでリヴを、取り戻す」
誰も、軽口を叩かなかった。誰も、否定しなかった。
そこにあったのは、ただ一つ。
ネクロスとの決戦を前にした、静かな覚悟。
戦いは、避けられない。
ならば俺は、闇を掲げ、闇を終わらせる。
アストレイのみんなと共に。




