第90話 連れ去られた灯
魂共鳴が、ほどけていく。
あれほど強く、深く、リヴと繋がっていたはずの感覚が、指の隙間から砂が零れ落ちるように、静かに、失われていった。
視界が、引き戻される。
リヴから遠ざかり、俺自身の視界へと収束していく。
拡張されていた感覚が、無理やり引き剥がされ、頭の奥に鈍い痛みが残り、思わず奥歯を噛み締めた。
「……リヴ?」
呼びかけても、返事はない。
前方で、黒い翼が霧散する。
あれほど圧倒的だった彼女の存在が、嘘のように掻き消えていた。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。胸の奥が、嫌な形でざわついた。
「――クロムさん!」
ガレオンの叫びに、俺は我に返る。
剣を握り直し、視線を前線へ走らせた、その瞬間だった。
樹海の奥、瘴気の濃い闇の中から、足音と鎖の音が響いた。
じゃらり、と湿った金属音とともに、姿を現したのは、チェイナードだった。
その手に引かれ、鎖に繋がれたまま引きずられるように現れた存在を見て、喉が凍りついた。
「……リヴ」
声にならない声が漏れる。
黒い鎖が彼女の身体に絡みついている。顔は伏せられ、反応はない。
鎖の先を握るチェイナードは、相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。
「お久しぶりです、クロム様」
その声音に、悪意はない。
だからこそ、余計に腹の底が冷えた。
「……お前」
言葉が、荒くなる。
「返せ」
低く、噛み殺すように言った。
「リヴを返せ。今すぐにだ!」
チェイナードは肩をすくめ、困ったように首を振る。
「それは出来ません。こちらの要求を、あなた方は受け入れてくれなかった」
鎖が、わずかに引かれ、リヴの身体が揺れた。
奥歯が、軋んだ。
「ですから、そちらから飛び込んでくるのを待っていました」
穏やかな口調のまま、告げられる宣告。
「こうなれば、あなた方は――来ざるをえないでしょう?」
胸の奥に、重いものが落ちる。
俺は、見誤っていた。
援軍が到着し、前線が安定したことで、どこかで気を抜いていた。
崩壊は免れた。だが、それだけだ。
このままではいけない。何かを変えなければならない。
その焦りが、胸の奥に澱のように溜まっていた。
敵は正面からぶつかってくる。
力には力を、数には数を。
そうやって押し合う戦いが続くものだと、無意識に決めつけていた。
戦線が保たれていることに、考えを縛られていた。
動けていない現実から目を逸らし、別の形で手を打たれる可能性を、深く考えなかった。
その隙を、正確に突かれた。
慢心ではない。
だが、焦りが視野を狭めた。
油断ではない。
けれど、守るべき一点を、見失っていた。
「……ガレオン」
剣を握ったまま、短く呼ぶ。
「やるぞ」
返事を待たず、魔力を解放した。
半ば強引に、魂共鳴を繋ぐ。
世界が、反転する。
◆ ◆ ◆
――クロムさんの魔力が、流れ込んでくる。
奔流だ。
熱く、重く、怒りと焦燥を孕んだ力。
身体が軋む。
それでも、大剣を握る手は離さない。
『リヴを返せぇぇぇッ!』
クロムさんの叫びが、意志が、そのまま叩きつけられる。
俺は地面を踏み抜き、大剣を横薙ぎに振るった。
解き放たれた衝撃波が、地を削り、空気を裂き、前方のアンデッドどもをまとめて吹き飛ばす。
腐肉が舞い、骨が砕け、瘴気が散った。
一直線に、チェイナードへ届く――はずだった。
だが、衝撃波の前に、樹海が、立ちはだかった。
歪んだ樹々が、まるで意思を持つかのようにせり上がり、絡み合い、壁を成す。
幹が軋み、葉が千切れ、それでもなお、突破を許さない。
「……チッ」
もう一撃、叩き込もうとした、その時。
「――あまりにも遅いから、様子を見に来たよ」
新たな声が、樹海の奥から響いた。
樹海が、左右に割れる。
そこから現れたのは、一人の男だった。
長い外套。鍛えられた体躯。穏やかな笑み。
その立ち姿には、かつて誰かの上に立っていた者特有の空気がある。
「……アルドレイン様」
チェイナードが、わずかに頭を下げた。
「わざわざ様子見など……」
「メルクアに頼まれたんだよ」
アルドレインを呼ばれた男は、肩をすくめた。
「君も、メルクアの大事な人だからね」
その言い方が、ひどく他人事で、背筋が冷える。
アルドレインは、こちらへ視線を向ける。
「はじめまして」
微笑みながら、名乗る。
「僕は、ナクロアの王子アルドレイン。――今は、ネクロスの王子かな」
国を失い、責務を失い、それでも肩書きだけが残った存在。
その歪さが、言葉の端々から滲み出ている。
「君の大切な人は、預からせてもらう」
アルドレインは、鎖に繋がれたリヴを一瞥し、薄く笑った。
「さぁ帰ろう。ルナリオも、待っているよ」
その名が告げられた瞬間。
遠くから、腹の底を揺らすような遠吠えが響いた。
空気が震え、瘴気を孕んだ樹海が一斉にざわめく。
周囲に残っていた魔獣のアンデッドたちが、同時に動きを止めた。首を垂れ、命令を待つかのように、同じ方向を向く。
……間違いない。
今のは、ただの獣じゃない。魔獣のアンデッドを、統べる存在だ。
背中を、嫌な汗が伝う。
俺たちは、壁と戦っていたに過ぎない。
その向こう側に、命令を下す何かがいる。
アルドレインは、その反応を楽しむように告げる。
「急いだ方がいい。あまり待たせると……機嫌を損ねるからさ」
「それでは、この辺りで」
チェイナードが続ける。
「クロム様。私たちの城で、お待ちしていますよ。たどり着ければ、ですがね」
その瞬間、クロムさんの怒りが魔力となって溢れ出した。
『――行かせるか』
意思が、直接流れ込んでくる。
俺は大剣を振り上げ、再び衝撃を放つ。
先ほどよりも、さらに強く。
だが――またしても、樹海が阻む。
『まだ……まだ……』
クロムさんの声が、遠くなる。
魂共鳴が、限界を迎えていた。連続使用の負荷が、確実に繋がりを削っていく。
魔力が引き潮のように消え、俺は膝をつく。大剣を地面に突き立て、息を荒く吐いた。
視界の端で、アルドレインとチェイナードが樹海の奥へ消えていく。
鎖の音とともに、リヴの姿も。
手を伸ばすことすら、できなかった。
戦場に残ったのは、折れた樹々と、倒れたアンデッド。
そして、取り返しのつかない、敗北感だけだった。




