第89話 待たれていた一歩
終わりが見えない――それが、今の戦況を最も正確に表す言葉だった。
北から押し寄せるアンデッドの襲撃は、相変わらず止む気配がない。
昼夜を問わず、間断なく続く波状攻撃。
前線で迎え撃ち、削り、押し返す。数を減らすことはできていると思う。
だが、それだけだ。
減っているはずなのに、減らない。
倒しているはずなのに、終わらない。
このままでは、いずれ擦り切れる。
この村の住人も、ネクレアたちも――そして俺自身も。
そう判断して、現状を伝え、参加可能な冒険者の援軍を募る。
助けを求めることに、迷いはなかった。
これは意地を張る場面じゃない。
数日後、 援軍と物資が、ようやくアルトレア村へと到着した。
ここへ来る覚悟を持った猛者たちは、状況を理解した顔で、すぐに前線へと向かう。
アストレイとアステリアからの物資で、不安だった補給線が、ようやく息を吹き返した。
彼らの到着によって、前線は目に見えて安定した。
押し寄せるアンデッドの波を押し返し、被害を最小限に抑え、防衛戦もなんとか踏みとどまる。
だが――それだけだった。
戦況は、膠着したまま、微動だにしない。
敵の動きは、あまりにも統率されていた。
人間のアンデッドは前に出ない代わりに、魔物のアンデッドを盾として並べ、その後方から遠距離攻撃と回復役が支える。
倒せば、起き上がり、削れば、すぐに補われる。
こちらが踏み込めば、左右と背後から回り込まれる。
一度でも陣形が乱れれば、その隙を逃さず食いついてくる。
決定打がない。
◇ ◆ ◇
夜の見張りを終え、交代を済ませたあとの休憩時間だった。
張りつめていた緊張が、ようやく一息分だけ緩む。
焚き火の前に腰を下ろし、俺は剣を膝に乗せた。
布でゆっくりと刃を拭いながら、静かな時間に身を委ねる。
炎が爆ぜる音だけが、規則正しく耳に残る。
誰も口を開かないが、それは安心からくる沈黙ではなかった。
張り詰め続けた心が、どこにも逃げ場を見つけられずにいる――そんな空気の中で。
俺は、無意識に口を開いてしまった。
「……こんな時、シグレがいれば」
言った瞬間、しまったと思った。
その場の空気が、わずかに揺れる。
焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
リヴは、何も言わず、ただ炎を見つめている。揺れる火の光が、その横顔を照らす。
ガレオンは表情を変えないが、大剣を持つ拳に力が入ったのが分かった。
ヴァリアさんは、視線を伏せ、静かに息を吐いた。
アストレイの最強戦力だったシグレ。
ここにいない存在を口にした意味は、誰にでも分かった。
俺は、強く歯を噛みしめる。
「……すまない」
それしか言えなかった。
本当は分かっている。
シグレがいれば、という考え自体が、甘えだ。
最初から、サリアやシュウに同行してもらう選択肢もあった。
俺が判断を急がず、もっと慎重に構えていれば――
結果論だが、責任は俺にある。
守るべき国の前線で、戦況を動かせていないのは、俺だ。
「……一気に、状況を変えるしかない」
俺は顔を上げた。
消耗戦を続けていても、ネクロスの思惑通りになるだけだ。
ならば、向こうの盤面そのものを壊す。
「樹海を切り広げる」
言葉にすると、全員の視線が集まる。
「視界を確保する。動線を減らす。アンデッドが溜まりにくい地形にする。少しでも、攻めにくい状況を作る」
無茶なのは承知しているが、何もしないよりはいい。
「俺がガレオンと魂共鳴して、敵ごと樹海を一気に薙ぎ払う」
そう言った瞬間だった。
「……それなら」
リヴが、静かに声を上げた。
「私と、魂共鳴を」
一瞬、言葉を失った。
リヴは、真っ直ぐ俺を見ている。
逃げも、迷いもない。
「ガレオンさんの大剣は確かに有効でしょう。でも――」
一歩、前に出る。
「クロム様と一番深く繋がれるのは、私です」
拳を握りしめる。
「クロム様と私なら、道を切り拓けます」
その言葉に、嘘はない。
俺以上の覚悟と、信頼と、強さがあった。
俺は短く息を吐き、頷いた。
「……分かった。頼む」
こうして、翌朝、作戦は決行された。
◆ ◆ ◆
クロム様と意識が重なった瞬間、世界が一変した。
――視界が、広がる。空気の流れが分かる。敵の気配が、線となって浮かび上がる。
魔力が、溢れる。底が見えないほどの力が、私の中へと流れ込んでくる。
背中から、黒い翼が展開する。クロム様と私の魔力で形作られた、アストレイの象徴。
地を蹴ると一歩で、敵との距離が消える。
魔獣のアンデッドが、群れを成して迫る。
咆哮、腐臭、爪と牙。
――遅い。
拳を振るう。
衝撃が、空気を裂き、前列の魔獣たちがまとめて吹き飛ぶ。
身体が軽い。クロム様の魔力が、奔流のように私を満たしている。
次々と現れる魔獣を、薙ぎ払う。爪も牙も、届かない。
翼で跳躍し、樹海へと迫る。
黒く歪んだ樹々。ネクロスの瘴気を孕んだ、異様な森。
この壁を、壊す。
そう思った、その時だった。
「――それを、待っていました」
樹海の奥から、声。
ぞくり、と背筋が凍る。
次の瞬間、周囲の空気が変わった。
人間のアンデッドが、樹海の中から、次々と姿を現す。
いつの間にか、完全に包囲されていた。
数が違う。今まで見てきた比ではない。
「……罠、だったのね」
舌打ちし、迎撃態勢に入る。
拳を振るい、二体、三体と打ち倒す。迫る人影を砕き、薙ぎ払い、後退させる。
だが、減らない。意識は、完全に周囲の敵へと向いていた。
――その瞬間。
足元に、違和感が走る。
アンデッドに気を取られている間に、地面が静かに歪んでいた。
遅れて、魔力の流れを感じ取る。
黒い鎖が、地中から伸び、脚を絡め取った。
「っ……!」
引き剥がそうとするが、次の鎖が腕に、胴に絡みつく。
ただの鎖ではない。魔力で作られ、私の動きを縛る。
力が、抜けていく。
意識が、急速に遠のく。
霧の向こうから、あの男の影が歩み寄ってくる。
穏やかな声。
「では、一緒に来てもらいましょう」
クロム様――
そう呼ぼうとした意識は、闇に沈んだ。




