第88話 縛られる戦場
チェイナードが去ってから、三日が経った。
あの日、死の行列が村の外へと溶けるように引いたあとも、アンデッドたちは完全には姿を消さなかった。
北の樹海の入口付近。
霧が立ちこめる森の縁に、黒い影が点々と並んでいる。
村との距離を、正確に測った位置。
近すぎず、遠すぎず。
襲ってこないが、去りもせず待機している。
こちらがどう動くのか、攻めてこない事を確認するための偵察。
アルトレア村は、異様な緊張の中で三日を過ごしていた。
昼間は、畑に出る者もいれば、井戸に水を汲みに来る者もいるが、その動きはどこかぎこちない。
夜になると、空気は一変した。
家々の灯りは普段よりも早く落とされ、通りには人影が消える。
代わりに聞こえてくるのは、鎧の擦れる音と、見張りの足音だけだった。
守られている側の恐怖というものは、どうしても澱みのように溜まる。
襲われれば、覚悟が決まる。
だが、襲われないまま待たされる時間は、人の心を静かに削る。
俺たちも警戒を解くことなく、アルトレア村に留まっていた。
アストレイへ戻るという選択肢は、最初からなかった。
ここが落ちれば、北は一気に抜かれる。
そうなれば、アストレイ本土への侵攻は避けられない。
チェイナードの言葉が、頭の奥で何度も反芻される。
『次にお会いする時は……また、違う形で』
穏やかな声音。
だが、その裏に込められていた意味を、俺たちはまだ測り切れていなかった。
◇ ◆ ◇
四日目の朝だった。
北門の見張りを終えて戻った直後、リリリが駆けてきた。息を切らし、頬に焦りを浮かべたまま。
その表情を見た瞬間、胸の奥が嫌な形でざわつく。
リリリは俺の前で立ち止まり、短く告げた。
「リリラから、連絡です」
それだけで、十分だった。
嫌な予感は、いつも裏切らない。
集会用の建物に、主要な顔ぶれが集まる。
リヴ、ガレオン、ヴァリアさん。そして、連絡を中継するリリリ。
リリラの声は直接聞こえないが、リリリの口から語られる内容は、ひとつひとつが重く、鋭かった。
「……ヴァルメイアに、ネクロスの侵攻が始まったって」
空気が、目に見えて沈む。
「突然、ネクロスの樹海が増殖をして、ヴァルメイア北部領地へ侵食して……それに合わせて、アンデッドの軍勢が襲撃を開始してるって」
樹海に紛れ、数を誇るアンデッドが押し寄せる光景が、脳裏に浮かぶ。
聞くだけで、背中に冷たいものが走った。
「現在は、ヴァルネスト領主――イグラード様の力で、樹海ごとアンデッドを焼いて対抗しているみたい」
父の名が出た瞬間、呼吸が詰まった。
「けど……火力で押し返してはいるけど、相手は数と再生力
で、長期戦、持久戦になる可能性が高いって」
報告は、そこで一度切れた。
沈黙が、重く落ちる。
俺は、奥歯を噛み締める。
ヴァルメイア。生まれ育った土地。父が、領主として守り続けてきた場所。
今、その地が戦場になっている。
助けに行きたい。力を貸したい。
だが――それは、叶わない。
アルトレア村の外には、未だにアンデッドの軍勢が控えている。
ここで俺たちが動けば、アストレイの北は無防備になる。
それに、俺が国を離れれば、ネクレアたちとの繋がりが途絶える。
彼女たちの存在は、俺の魔力に依存している。
どちらにせよ、俺たちはここを離れられない。
俺は、ヴァリアさんを見る。
「……結界を、ヴァルメイア側まで広げることは」
分かっていて、聞いた。
だが、聞かずにはいられなかった。
ヴァリアさんは、静かに首を横に振る。
「……無理です。わたくしの結界は、アストレイを守るためのもの。ネクレアとなった今、それ以外の目的では展開できません」
はっきりとした答えだった。
「国として認められた時点で、役割は決まっています。私は、ここを守るためにいる」
正論だ。間違ってはいない。
それでも、胸の奥に溜まるこの歯がゆさは、どうしようもなかった。
父のことは信じている。
イグラード・ヴァルネストは、生半可な相手に負ける人ではない。
だが――信じることと、何もできないことは、別だ。
◇ ◆ ◇
その日の夜だった。最初の悲鳴が、北門から上がったのは。
見張りの角笛が、鋭く鳴り響く。村中が一斉に目を覚まし、動き出す。松明の光が揺れ、武器を取る音が重なった。
アンデッドが、来た。村の外で待機していた影が、一斉に前進する。
それからは、昼夜を問わない襲撃だった。波のように、間を置かず、繰り返し押し寄せてくる。
俺は前線へと向かう。この状況を逆手に取れる可能性を、一瞬考えた。
ネクロスのアンデッドをネクレア化できれば、戦力を奪える。
だが、現実は冷酷だった。
襲ってくるのは、魔物のアンデッドばかりで人間のアンデッドは、後方に留まり、動かない。
俺には、魔物のアンデッドをネクレアにすることはできない。
そして――敵は、それを理解している。
俺たちにできるのは、迎撃だけだった。
だが、半端に倒すと意味がなかった。
後方に控える、回復役のアンデッド。
倒れた魔物のアンデッドが、黒い霧に包まれ、再び立ち上がる。
何度も、何度でも。
「……くそっ!」
回復役を狙おうにも、その前に魔物の壁が立ち塞がる。
一体を崩せば、即座に次が埋める。
リヴの拳が炸裂し、ガレオンの大剣が唸り、ネクレアたちが連携して押し返す。
それでも、減らない。
夜が明け、また夜が来る。
昼も、夜も、襲撃は止まらない。
俺たちは、次第に理解し始めていた。
これは殲滅戦ではなく、俺たちを消耗させるための戦いだ。
ヴァルメイアを攻める一方で、俺たちをここに縛り付ける。
動けなくするための、完璧な配置。
チェイナードの穏やかな笑みが、脳裏に浮かぶ。
俺は、剣を握り直す。
終わりの見えない持久戦。削られていくのは、体力だけじゃない。
それでも、ここを退くわけにはいかなかった。
これは世界が、確実に戦争へと転がり始めた証なのだから。
夜明け前の空の下、俺たちは歯を食いしばり、再び迫る影へと向き直った。




