第84話 晴れを継ぐ者
「……もう一度、頼む」
ある朝、シュウは短く、それだけを言った。
言い訳も、理由もないが、その言葉に迷いはなかった。
以前のような荒さは、もうどこにもない。刀を握る手は落ち着き、背筋は自然に伸び、呼吸は深い。
ただ強くなったのではない。
剣と向き合う姿勢そのものが、変わっていた。
シグレは、しばらくの間、黙ってシュウを見つめていた。視線は鋭く、だがどこか柔らかい。
やがて、ほんのわずか目を細める。
「よかろう」
それだけで十分だった。
互いに、もう余計な言葉を必要としていない。
◇ ◆ ◇
城の訓練場には、昨夜の雨が残した湿り気が、地面に淡く光っている。
二つの影が、向かい合って立つ。
風はなく、雲は低く、空気は妙に重かった。
俺は二人の間に立ち、静かに息を整える。
これは、単なる再戦ではない。
勝ち負けを決めるための場でもないことを、嫌というほど理解していた。
距離は、前回と同じだが、空気はまるで違う。
張りつめているのに、荒れていない。
澄んだ水面の奥で、確かな流れが脈打っている。
「――始め」
俺が告げても、二人は動かなかった。
一拍、二拍。
草を撫でる微かな音だけが、耳に届く。
シュウの剣は低く、静かだ。
斬り急ぐ気配はない。
待っている。相手を、世界ごと。
シグレも同じだった。
刀に触れながら、呼吸を重ねる。
刀を振るうのではなく、刀と共にという在り方。
やがて――二人は同時に、居合の構えに入った。
抜かず、ただ、置く。
世界が、さらに静まる。
次の瞬間、光が、走った。
踏み込みは一歩、刃は一線。
意識が追いつくより早く、居合と居合が正面から噛み合う。
音は、ほとんどなく、衝撃だけが、遅れて空気を震わせる。
そして――宙を舞ったのは、シュウの刀だった。
根元から、きれいに折れている。
力負けではない。技術の差でもない。
覚悟の差だ。
それでも、シュウは膝を折らなかった。
刀を失ってなお、侍として立ち続ける。
深く息を吐き、そして――
「……ありがとうございました」
静かに、深く頭を下げた。
そこに悔しさはない。未練も、言い訳もない。
あるのは、ただ一つ、納得だけだった。
シグレは、しばらく何も言わなかった。
それから、腰の刀に手をかける。
晴天。
澄んだ刃を、ゆっくりと抜き、そのまま、シュウへ差し出した。
「……これを、授ける」
シュウが、目を見開く。
「……冗談だろ」
「冗談ではない」
穏やかで、揺れのない声だった。
「拙者は、あの時果たせなかった約束を、ようやく果たした。だから、この晴天を握る役目は――お前に渡す」
沈黙が落ちる。
そして、シグレははっきりと言った。
「拙者は、お前の先祖だ。ジウの父だ」
空気が、止まった。
シュウはすぐには答えなかったが、やがて、ふっと息を吐く。
「……気付いていないとでも、思っていたのか?」
苦笑に近い笑み。
「シグレと言う名と、家宝の刀が時雨。いくら鈍くても、気づく」
シグレは、目を伏せた。
「……すまぬ」
「何がだ?」
シュウは、静かに言う。
「ご先祖様に帰って、刀を教えてやれなかったことか?」
そして、一歩、前に出て空を仰ぎ、続けた。
「ご先祖様はな、他の道を選ぶこともできた。だが、父が歩いた道を、その先の景色まで見てみたいと思った。いつか、その道が交わる時が来ると信じて……最後に、そう言ってたらしい」
その言葉が、胸に突き刺さる。
シグレの肩が、わずかに震えた。
「……そうか」
声が、掠れる。
「立派に……育ったんだな」
その瞬間、シグレの頬を、涙が伝った。音もなく、ただ、静かに。
「ありがとう……」
誰に向けた言葉かは、分からない。
だが、確かに。
刀と、想いは――受け渡された。
晴天は、シュウの手にある。
その刃は、もう迷っていなかった。
風が吹き、朝の光が差し込む。
シグレの輪郭が、少しずつ薄れていく。
彼は――俺を見た。
「……クロム殿」
低く、穏やかな声。
「アストレイの道半ばにて、先に逝く不義理を……許して下され」
胸の奥が、きしんだ。
だが、俺は首を振る。
「構わないさ」
言葉は、自然と出ていた。
「……シグレは、自分の道を極めたんだろ」
一瞬、シグレの表情が、わずかに和らぐ。
「……そう言ってもらえるなら、救われる」
最後に空を仰ぐ。
「できるなら……アストレイを、頼む」
そして、シグレは、光の中へ溶けていった。
まるで、雨が上がるように。
俺は、しばらく、その場を動けなかった。
◇ ◆ ◇
シグレが旅立ったことを伝えると、アストレイの空気は目に見えて沈んだ。
声を上げて泣く者はいない。
だが、誰もが言葉を失い、俯き、胸の奥に何かを落としたような顔をしていた。
アストレイにとって、シグレは外の大陸から来た剣士だった。
それでも、確かに――アストレイの侍だった。
ツムギは、報せを聞くと、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……そう」
それだけだった。
同郷の者が旅立ったからなのか、あるいは、もっと深い、言葉にできない感情があったのか。
俺には分からない。
だが、彼女の背中は、どこか吹っ切れたようにも見えた。
雨が上がった後の空気のように、静かで、澄んでいた。
シュウは、アストレイに残ることを選んだ。
「しばらく、ここの世話になる」
そう言って、城と街を見渡す。
「ご先祖様が……いや、シグレが愛した国だ」
静かな声だったが、迷いはなかった。
今では、俺と並んで、サリアと朝稽古を受けている。
剣の構えも、踏み込みも、少しずつアストレイの色に染まりつつある。
守る者として、この国に立っている。
朝日は、完全に昇っていた。
雨は去り、空は、晴れていた。
意思は、確かに――未来へと渡された。
第十章はここで完結です。
第十章では国になったアストレイの新たな始まり。
そして人間関係の変化とネクレアたちの旅立ち、と言う内容でした。
ネクレアたちが永遠の存在ではないという事は最初から決めていました。
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