第82話 雨を継ぐ者
夜明け前の空気は、いつも少しだけ張りつめている。
昼の喧騒にも、夜の静寂にも属さない、宙ぶらりんな時間。
世界が目覚める直前、息を潜めているような、そんな感覚。
城の裏手、まだ陽の光が届かない訓練場で、俺は木刀を構えていた。
「……そこだ、踏み込みが浅い」
正面に立つシグレの声は低く、穏やかだが、その視線には一切の逃げ場がない。
一瞬の油断も、迷いも、すべて見透かされている。
俺は息を吐き、もう一歩、前へ出た。
乾いた音が、朝靄の中で弾ける。
木と木がぶつかり合い、衝撃が手のひらから腕へ伝わった。
だが――
打ち合う直前で、シグレの木刀が止まる。
「今のは悪くない。だが、力に頼りすぎだ」
そう言って、彼はすっと木刀を引いた。
その動きには、やはり一切の無駄がない。
朝靄に溶け込むような、静かな所作だった。
サリアとの訓練にも、だいぶ慣れてきた。
基礎を徹底的に叩き込まれ、体力も反射も、以前とは比べものにならない。
だが、シグレとの稽古は、また別だ。
技を教えられているという感覚が、どこか希薄になる。
代わりに突きつけられるのは、構え、呼吸、間合い。
そして――剣を振る理由そのもの。
「剣は、振るものじゃない。置くものだ」
そう言いながら、シグレは俺の足元を指さす。
「ここに置け。迷いも一緒にな」
俺は、黙って頷いた。
言葉を返す必要はなかった。
今はただ、身体に刻むべき時だ。
その横顔を見ていると、不意に思う。
この男は、どれほどの時間を剣と共に生きてきたのだろう、と。
その瞬間だった。
ぽつりと、頬に冷たいものが落ちる。
続いて、草を打つ小さな音が重なり始めた。
乾きかけていた地面が、ゆっくりと色を濃くしていく。
激しさはないが、確かに、命を潤す雨。
草木が息を吹き返すように、朝の空気がしっとりと満ちていく。
争いを止めるでも、何かを奪うでもない。
ただ、生きるために降る雨だった。
シグレは、雨空を見上げた。
流れる雲を追うその視線が、ほんの一瞬、遠くなる。
――思い出している。
理屈ではなく、直感でそう分かった。
「……ジウ」
小さく、独り言のように零れた名。
俺は、思わず聞き返しかけて――やめた。
それが踏み込んではいけない記憶だと、説明されるまでもなく理解していた。
その瞬間、胸の奥が、かすかに疼く。
かつて、シグレと魂共鳴で繋がった時、感情の奔流の中に、その名は確かにあった。
喜び、誇り、そして、どうしようもない悔恨。
視界が、わずかに揺らぐ。
シグレは、静かに木刀を手に取った。
その動作は、どこか懐かしむようで、普段よりもわずかに遅い。
それを見た瞬間、記憶が重なった。
脳裏に浮かぶのは、幼い少年の姿。
まだ背も低く、木刀を握るだけで精一杯だった。
両手でしがみつくように構え、すぐに腕が震える。
何度も落とし、何度も拾い上げる。
それでも、目だけは、真っ直ぐだった。
――慈雨。
ジャポニアの言葉で、命をつなぐ、恵みの雨。
あれは、シグレの記憶だ。
そして同時に、今の俺の中にも、確かに残っている光景だった。
シグレが、あの時、どんな声で笑い、どんな顔で言ったのかも――分かる。
『戻ったら、ちゃんと稽古をつけてやる』
修行の旅に出る前。
未来を疑いもしなかった、あの日の約束。
それが、最後になったことも。
そこまで思考が辿り着きかけた、その時。
「……ん?」
城門の方から、場違いなほどよく通る声が響いた。
「たのもー!」
一言だが、迷いも遠慮もない、澄んだ声。
俺とシグレは、同時に顔を上げた。
◇ ◆ ◇
早朝のアストレイの城門前に立っていたのは、一人の若い男だった。
着物姿。腰には、一本の刀。
ただ一人、まっすぐ立ち、城を見上げている。
「ほう……」
感嘆が、そのまま口から漏れる。
「基礎は違うが……見た目は、ジャポニアの城に近いな」
城壁の角度、屋根の重なり、門の配置。
一つ一つを確かめるように、視線を走らせている。
「こんなところで、こんな城を見るとは思わなかった」
純粋な驚きだった。
「で、何の用だ?」
俺が問いかけると、男は視線を戻し、すっと背筋を伸ばした。
「腕試しに来た」
即答だった。
「この地に、新しい国ができたと聞いた。あのバルドリアも認め、刀もあると言う。なら、その力を確かめたくなるのが道理だろ」
挑発でも、傲慢でもない。
ただ、それが当たり前だという口調。
その男を見た瞬間。
シグレの動きが、止まった。
空気が、わずかに揺れる。
「……ジウ?」
漏れた声は、あまりにも静かで、だが確かに聞こえた。
男は、ぴたりと動きを止める。
「……は?」
怪訝そうに眉をひそめ、一歩前に出る。
「なんで……俺のご先祖様の名前を知っているんだ?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
男は、腰の刀に手を添えながら、はっきりと言う。
「俺の名は、シュウだ」
朝の空気の中で、その名が、確かな重みを持って響いた。
シグレは、何も言わない。
ただ、目を細め、じっと男を見つめている。
まるで――過去と現在が、そこで重なったかのように。
俺は、その沈黙の意味を、まだ理解できずにいた。
だが、確信だけはあった。
この出会いは、偶然ではない。
時を越えて、剣が、再び交わろうとしている。
朝日が、ようやく城壁を照らし始めた。
新しい一日が、静かに、だが確実に動き出そうとしていた。




