第81話 帰る場所
城の前から離れ、人の流れを抜けた先。
賑わいは嘘のように遠ざかり、音の輪郭がぼやけていく。
祝福の声も、泣き声も届かない。
そこにあるのは、一定の間隔で吹き抜ける風の音だけだった。
その場所に、ハードンは立っていた。
いや、立っているというより、置き去りにされたと言った方が正しい。
城とは反対の方向を向き、視線は宙を漂わせたまま、微動だにしない。
その背中は、戦場で見慣れたそれより、ひどく頼りなく見えた。
俺はゆっくりと近づいた。
ハードンは気づいていない。
それほどまでに、思考の奥へ沈み込んでいる。
その背中を見ていると、ふと、昔の言葉が脳裏をよぎる。
『どうせ、死んでもネクレアになるんだ』
冗談めいた口調で吐き出されたその言葉は、当時の俺の胸に、引っかかった。
軽口のようでいて、どこか本気だった。
死を、恐れていないのではなく、死を先延ばしにできる逃げ道として見ていた言葉。
だが、バルドリアとの戦いを経て。
生きることの重さを、命が終わることの意味を、骨の髄まで叩き込まれてから。
ハードンは、変わった。
少なくとも、生きることを軽んじる目は、もうしていなかった。
それでもだ。
「……納得できないんだろ」
声をかけると、ハードンの肩が、わずかに揺れた。
ゆっくりと振り返り、俺を見る。
「ああ……クロムか」
その声には、いつもの豪胆さがない。
迷いと戸惑いが、そのまま晒されていた。
「……消えちまったな、ドルビ」
ぽつりと、落とすように呟く。
「城を完成させて……あんな顔して……消えるってのは……」
言葉が、そこで途切れる。
拳を握りしめ、歯を食いしばる音が、かすかに聞こえた。
「俺は……正直、分からねえ」
ハードンは、城の方向へ一度だけ視線を向けた。
「ネクレアってのはよ……強くなれるもんだと思ってた」
低く、掠れた声。
「死なねえ。倒れねえ。何度でも立ち上がれる。だから――」
そこで言葉を切った。
「……だから、なりてぇと思ってた時もあった」
否定はしない。取り繕いもしない。
「でも、あいつは……ドルビは……」
息を吐く。
震えが、声に混じる。
「終わったって、顔をしてやがった」
その一言に、すべてが詰まっていた。
俺は、ハードンの隣に並び立つ。
城ではなく、同じ空を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。
「ハードン」
「……ああ」
「ネクレアはな――」
一拍、置く。
言葉は、刃にも、救いにもなり得る。
だから、選ばなければならなかった。
「終わらせるために、生き直す存在だ」
ハードンの目が、わずかに見開かれる。
「蘇るのは、死から逃げるためじゃない。ましてや、強くなるためでもない」
言葉を噛みしめるように、続ける。
「未練を、終わらせるための時間を得る。それだけだ」
ハードンは、何も言わない。
だが、逃げずに聞いている。
城の輪郭を思い浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「ドルビは……あの城を完成させた瞬間、自分の未練を、すべて置いていった」
「……」
「だから、旅立った」
喉が鳴る音が、はっきりと聞こえた。
「死はな、終わりじゃない」
俺は、はっきりと言った。
「完成だ」
その言葉に、ハードンは息を呑んだ。
「生きるってのは、変わり続けることだ。迷って、悩んで、選び続けること」
視線を前に向ける。
「だが死は違う。もう、変わらない」
それは確定された一点。歩みの終着点。
「俺は生は未完成で、死は完成だと思ってる。ネクレアってのは……ゴールを延期された旅人みたいなもんだと思う。まだ歩く理由があるから、戻ることを許されている。ただ、それだけだ」
ハードンの声が、かすれる。
「……じゃあ、ドルビは」
「ああ」
頷く。
「生ききった。だから、旅立った」
しばらく、沈黙が落ちた。
やがて、ハードンが苦笑する。
「……なんだよ、それ……格好良すぎだろ」
だが、その目からは、確かに迷いが消えつつあった。
俺は、最後にこう告げる。
「死は、敗北じゃない。生ききった者にだけ許される、帰る場所だ」
そして――
「だから、ハードン」
彼の目を見る。
「生きろ」
それは短いが重い言葉。
ハードンは、深く息を吸い込み、吐いた。
「ああ……」
その声には、覚悟があった。
「生きるわ」
城を背に、前を向く。
「……最後までな」
◇ ◆ ◇
その日を境に、変化が起き始めた。
ドルビだけでは、なかった。
ネクレアとして再び歩んできた者たちが、少しずつ――旅立っていった。
それは唐突でも、悲劇的でもない。
皆、同じ表情をしていた。
やりきった者の顔だ。
そして、そのたびに俺は、感じていた。
力が、弱まらない。
それどころか、胸の奥に、何かが流れ込んでくる。
言葉にならない想い。
果たされた願い。
歩み続けた時間の重み。
それらが、俺の中へ残っていく。
不思議な感覚だった。
失うたびに、満たされる。終わりを見送るたびに、背負うものが増えていく。
ネクレアたちは、消えていく。
だが、その想いは――終わらない。
俺の中で、生き続けている。
この力が、何を意味するのか、どこへ向かうのかは、まだ、分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
彼らは、確かに生ききった。
そして俺は――その証を、受け取っている。
城の影が、ゆっくりと地面を伸ばしていく。
完成と別れを背負ったまま。
新しい夜が、静かに訪れようとしていた。




