第78話 平穏に差す小さな影
夜が白みに変わる、その少し前。館の中庭には、まだ冷たい空気が残っていた。
吐く息が、わずかに白む。
静寂を裂くように、乾いた音が響いた。
サリアが振るう訓練用の槍を、俺が必死に避け、弾き、受け止める音だ。
「遅いわ」
容赦のない声と同時に、視界の端から槍が迫る。
思考より先に身体を捻ったが、完全には躱しきれず、肩口をかすめた。
「……っ!」
鈍い痛みが走る。
「ほら。判断が遅れた」
サリアは淡々と距離を取る。
乱れのない足運び、安定した呼吸。
対して俺は、すでに息が荒い。額から汗が伝い、手のひらは湿っている。
指先に余計な力が入り、動きが重くなるのを、自分でもはっきりと自覚していた。
「王としての執務に入る前に倒れたら、元も子もないのは分かっているけど」
そう言いながらも、サリアは槍を下ろさない。
むしろ、踏み込みで距離を詰めてくる。
「ネクレアたちだけが強ければいいわけじゃないでしょう」
その言葉に、俺は小さく息を吐いた。
リヴとサリアと、ようやく本当の意味で和解してから、しばらく経った頃。
俺はこうして、早朝にサリアから訓練を受けるようになっていた。
俺自身の身体能力、判断力など、すべてを底上げするための訓練。
それが表向きの理由だ。
だが――たぶん、それだけじゃない。
俺とサリアが、すれ違ったまま過ごしてきた時間。
言葉にしなかったこと、向き合わなかったこと。
その空白を、こうして埋めようとしているのかもしれなかった。
「……次、行くわよ」
考えがまとまるより早く、槍が来る。
迷いのない一撃。
俺は歯を食いしばり、ぎりぎりで受け止めた。
衝撃が腕に走り、骨が軋む感覚が伝わる。
「受け止めただけじゃだめ。反撃をしないと」
「無茶を言う……!」
「無茶を言われる立場にいるのよ、あなたは」
淡々と告げられる言葉だが、その奥には確かな重みがあった。
王である以上、守られるだけではいられない。
それは、俺自身が誰よりも分かっている。
分かっているからこそ、きつい。
「――はいはい、そこまで!」
横合いから、場の空気を割るような明るい声が飛んできた。
振り返ると、フリシアが手を振りながら駆け寄ってくる。
朝の冷気など気にも留めない様子で、いつも通りの軽やかさだ。
「サリアさん、ちょっと厳しすぎじゃない? クロムさん、顔色悪いよ?」
「鍛錬に情けは不要よ」
「そう言う問題じゃありません」
フリシアは肩をすくめ、俺の隣に立った。
「ほら、クロムさん。この後の仕事もあるんでしょ? 今日はもうおしまい」
「あなた、横から口出しするつもり?」
サリアの眉が、わずかに動く。
二人の視線が交錯し、空気が張り詰めた。
理由は分からない。
ただ、フリシアは妙にサリアに突っかかる。
だが、そこに悪意は感じられず、むしろ、どこか楽しそうですらある。
この国に来たばかりのサリアに、友人が出来ると思えば、悪いことではないのだろう。
二人の言い合いを横目に、俺は木陰で息を整えた。
少し前まで、こんな朝が来るとは思ってもいなかった。
張りつめていたものが、少しずつ緩み、日常へと溶けていく。
それが、この国なのだと最近、ようやく実感し始めていた。
◇ ◆ ◇
そんな日々が、しばらく続いた。
早朝の訓練。執務。国の整備と調整。
戦うための時間から、生きるための時間へ。
国が、ようやく形になり始めていた。
そんなある日の午後。
「……失礼します、クロムさん……あっ、クロム様」
「いつも通りで構わないよ」
執務室を訪ねてきたのは、ドルビの弟子のネバルドだった。
部屋に入ると、どこか落ち着かない様子を見せている。
「今日はどうした?」
椅子を勧めると、彼は一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから深く頭を下げた。
「ご相談が……あります」
その声は、硬く、張りつめていた。
「最近……師匠の様子が、おかしいんです」
リヴが、手にしていた書類をそっと机に置く。
表情が、わずかに曇った。
「ドルビが?」
「はい。仕事中なのに、ぼうっとしていることが増えました。手も止まるし……以前のような、気迫がないというか……」
ネバルドは、言葉を選ぶように続ける。
「体調が悪いのかと思って聞いても、ネクレアだから大丈夫だと、しか言わなくて……」
俺は、すぐには答えられなかった。
ドルビはアストレイの最初期から、この国を支えてくれた男。
戦時も、混乱の最中も、文句一つ言わず働き続け、基盤を築き上げてきた存在だ。
「平和になって……気が緩んだのでしょうか……」
リヴの声には、心配がにじんでいた。
それも、一つの答えではある。張り詰めていた糸が緩み、疲れが表に出る。
だが――俺の胸の奥には、別の感触があった。
普通の人間なら、そういうこともある。
だが、ドルビはネクレアだ。
ただ気を抜いた。
それだけで、済むのだろうか。
「……分かった。俺からも、話してみる」
そう告げると、ネバルドはほっとしたように頭を下げた。
彼が去った後、執務室には静寂が戻る。
リヴが、俺を見る。
「クロム様……何か、思い当たることが?」
俺は、しばらく黙っていた。
確信はない。
ただ、引っかかる。
戦いが終わり、国が形を持ち始めた今、何かが変わろうとしているのかもしれない。
「……まだ、分からない」
正直な答えだった。
「だが、放っておくわけにはいかない」
この国は、積み重なり成り立っている。
誰か一人の歪みは、やがて全体に影を落とす。
俺は椅子にもたれ、天井を見上げた。
平穏の中の、わずかな異変。
それを見逃さないことも、王の役目なのだろう。
――そう、思いながら。
胸の奥で、静かに警鐘が鳴っていた。




