第76話 眠らない者の居場所
サリアをアストレイに正式に迎えてから、数日が経った。
大きな出来事があったわけではない。
国政が急変したわけでも、外交に新たな波が立ったわけでもない。
書類は滞りなく流れ、会議は予定通り進み、各国からの反応も想定の範囲内だった。
それでも――館の空気は、明らかに変わっていた。
理由は、はっきりしている。
リヴだ。
露骨に不機嫌になっていた。
ただし、それは声を荒げるような不機嫌さではない。
口数が減ったわけではない。仕事を怠っているわけでもない。
誰かに当たり散らすわけでも、態度に棘を混ぜるわけでもなかった。
むしろ、逆だ。
彼女は、いつも以上に完璧だった。
夜が終わるころには、すでに彼女は動いている。
眠りを必要としないネクレアであるリヴにとって、夜明けは休息の終わりではなく、ただ時間が移ろう合図に過ぎない。
執務では俺の一歩先を読み、必要な書類は揃い、判断材料も過不足なく提示される。
使用人への指示も丁寧で、問題が起きる前に芽を摘んでいた。
笑顔もある。声色も柔らかい。態度だけを見れば、何一つ問題はない。
それなのに、その場に残るのは、張りつめた糸のような感覚だった。
触れれば切れる。
だが、誰も触れられない。
朝の食事。執務室での補佐。廊下ですれ違うときの挨拶。
どれも、これまでと同じはずなのに、どこか噛み合っていない。
ほんのわずかなズレが、積み重なって、違和感になる。
周りの人たちも気づいているのが分かった。
言葉にはしないが、視線が慎重になり、会話の端々に探るような間が生まれている。
館の中に、見えない棘が散らばっているような感覚。
サリアが、それに気づいていないはずがなかった。
だが、彼女は何も言わなかった。
必要以上に踏み込まず、穏やかに振る舞っている。
そして俺も――気づかないふりを、していた。
◇ ◆ ◇
決定的だったのは、あまりにも些細な出来事だ。
昼過ぎ、執務室で書類を確認していたときのことだった。
「クロム様、次はこちらを」
リヴが差し出してきたのは、国庫管理の月次報告。
内容に問題はない。数字も整合している。
「ありがとう。後で目を通す」
そう言った、その瞬間だった。
リヴの指が、ほんの一瞬だけ、強く書類を握った。
紙が、かすかに軋む音を立てる。意識しなければ聞き逃すほどの、小さな音。
すぐに力は抜かれ、彼女はいつもの微笑みを浮かべた。
だが、その一瞬を、俺は見逃さなかった。
「……リヴ」
呼び止めると、彼女は振り返る。
「はい?」
穏やかな声。けれど、目の奥が、どこか遠い。
壁を一枚挟んだ向こう側を見ているような、そんな視線だった。
「少し、話がしたい」
一拍の間。リヴはわずかに目を瞬かせ、それから小さく頷く。
「……分かりました」
◇ ◆ ◇
場所は、中庭を選んだ。
人目が少なく、風の通る場所。
生と死の狭間にあるネクレアである彼女にとって、比較的落ち着ける空間だ。
向かい合って立つと、距離が妙に遠く感じられた。
数歩しか離れていないのに、声が届きにくい。
「最近、様子がおかしい」
単刀直入に切り出す。
「何か、あったのか?」
リヴは、すぐには答えなかった。
視線を落とし、風に揺れる草花を見つめる。
「……いいえ」
短い否定。
「国も館も、何も問題はありません。仕事も、いつも通りです」
それが事実であることは、俺が一番よく知っている。
だが、それがすべてではないことも、分かっている。
「それなら――」
俺は、一歩踏み込んだ。
「俺に対して、何か思うことはないのか」
その瞬間、リヴの肩が、ほんのわずかに揺れた。
沈黙が、長く伸びる。風の音だけが、中庭を満たす。
やがて、彼女はぽつりと口を開いた。
「……クロム様は、優しすぎます」
予想外の言葉だった。
「向き合う必要のないことまで、向き合おうとする。見なくてもいい痛みに、手を伸ばしてしまう」
「それの、何が悪い」
即座に返すと、リヴは困ったように笑った。
「悪くは、ありません。ただ……」
一度、言葉を切る。
「その優しさが、人を傷つけることもあるんです」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「……俺が、誰かを傷つけたと?」
問いかける声が、思った以上に低くなった。
リヴは、ゆっくりと頷く。
「はい」
迷いのない肯定。
「――私です」
言葉を失った俺を前に、リヴは続ける。
「サリア『様』を迎えたことが、間違いだとは思っていません。国として、王として、正しい選択です」
感情を削ぎ落としたような声音。
「むしろ……当然です」
その一言が、胸に深く突き刺さる。
「私は、ネクレアです。死者であり、生者ではありません。そして……子を成すことも、できない」
彼女は、その事実を、何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。
言葉に、感情の揺れがほとんどなかった。
「国の未来を考えるなら、王であるクロム様の隣に立つべきなのは、命を繋げるサリア様です」
風が強く吹き、リヴの髪が揺れる。
「私は……最初から、その資格がなかった。ネクレアになる前も、なった後も」
胸が、締めつけられる。
俺は理解しているつもりだった。
リヴがネクレアになってしまったことも、子を成せないことも。
それでも、共に夜を過ごし、温度を確かめ、想いを重ねてきた。
それらが、すべて無意味だったなどと、思ったことはない。
だが――
「クロム様は、悪くありません」
リヴは、はっきりと言った。
「私が、勝手に期待して、勝手に未来を思い描いて、勝手に……傷ついただけです」
その言葉は、自己否定そのものだった。
「だから、私は――」
一瞬、言葉に詰まる
「身を引こうと思っています」
その瞬間、思考が止まった。
「国のために、サリア様のために、そして……クロム様のために」
一つ一つの言葉が、刃のように胸へ落ちてくる。
その瞬間、ようやく理解した。
リヴは、怒っていたわけじゃない。嫉妬していたわけでも、責めていたわけでもない。
ただ、自分を削り、消そうとしていただけだ。
「……ふざけるな」
気づけば、そう口にしていた。
声が、震えていた。
俺は、気づいていなかった。
サリアを迎え入れるという選択が、どれほどリヴを追い詰めていたのか。
善意だと思っていた。
正しい判断だと信じていた。
その裏で、最も近くにいた存在を、知らないうちに傷つけていた。
リヴは、顔を上げない。
「……それでも、私はネクレアです」
その一言が、すべてだった。
俺は、愕然とする。
共に歩いていると思っていた。
中庭に、沈黙が落ちる。
答えは、まだ出ない。
だが、一つだけ、はっきりしたことがある。
俺は、リヴを傷つけた。
知らずに、無自覚に、善意という名の刃で。
その事実だけが、重く、胸に残っていた。




