第75話 同じ歩幅で
サリアが、アストレイへ来る。
その知らせを受け取った瞬間、胸の奥で何かが、かすかに揺れた。
まるで、長い間沈殿していた記憶が、静かに水面へ浮かび上がってくるような感覚だった。
驚きではなく、喜びとも、安堵とも、まだ呼べない。
ただ、ずっと棚上げにされていた問いが、ついに現実として、こちらへ歩いてくる。
それだけは、はっきりと分かった。
俺とサリアは、婚約している。
過去の話ではなく形式上、その関係は今も継続していた。
ネクロマンシーを授かった俺が、教会によって異端と断じられ、処刑寸前まで追い詰められたあの日。
俺は、ヴァルメイア国を捨てた。
生きるための選択だったが、その結果として、彼女の隣に立つ資格を失ったのも、また事実だった。
それでもサリアは、俺の問題が解決するまで婚約は保留にしてほしいと、父に願い出たという。
立場も、将来も、不安定なままで。
そして今、教会とヴァルメイア国は、ネクロマンシーを禁忌ではなかったと認めた。
アストレイは独立国となり、俺は、王になった。
避け続けていた問いが、再び現実として、俺の前に差し出される。
サリアは、どうするのか。俺は、どう向き合うのか。
その答えを形にするため、ヴァルメイアとアストレイの間で協議が重ねられた。
政治的意味合いも、形式も含めた末の結論。
サリアは、アストレイへ嫁ぐ。
それが、正式に決まった。
◇ ◆ ◇
サリアを迎える当日、空は驚くほど穏やかだった。
館に整えられた迎賓の場は簡素だが、必要な礼はすべて揃っている。
過剰な装飾を施すより、アストレイらしい在り方を示したかった。
列をなして並ぶ人々の中に、ネクレアたちの姿もある。
生者と死者が肩を並べる光景は、今やアストレイでは日常だった。
遠くに馬車の影が見えた瞬間、ざわめきが波のように広がる。
ゆっくりと近づき、止まると扉が開き、サリアが、降り立った。
銀の髪に、氷のように澄んだ青い瞳。背筋を伸ばし、周囲を静かに見渡す佇まい。
建国の時に一時とはいえ傍にいたはずなのに、こうして迎える立場になると、ほんの短い空白が、思った以上に長く感じられた。
懐かしさが、かすかに胸をかすめる。
彼女も、俺を見た。
一瞬、視線が絡み、そのまま、そっと微笑んだ。
昔には、決して見せなかった笑み。
だが、その理由を、俺はもう知っている。
俺は、一歩前に出た。
「……ようこそ、アストレイへ。サリア」
「ええ。久しぶりね、クロム」
形式的な挨拶のはずなのに、言葉の奥に、積み重なった年月が滲んでいた。
歓迎の儀は滞りなく終わり、サリアは館へと案内される。
だが、その後に予定されていた会食は、彼女自身の希望で延期となった。
「まずは……話がしたいわ」
その言葉に、断れる理由など、最初からなかった。
◇ ◆ ◇
二人きりで向き合うのは、いつ以来だろう。
応接室の窓から差し込む光が、床に柔らかな影を落としている。
向かい合って座ると、自然と距離が空いた。
先に口を開いたのは、サリアだった。
「……少し見ない間に、変わったわね」
「そう……かな」
「ええ。顔つきが。王様の顔をしているわ」
冗談めいた口調とは裏腹に、その視線は真剣だった。
「そっちは……あまり変わらないな」
「努力はしたけど、人は簡単には、変われないわ」
微笑みながらも、その声には確かな重みがある。
沈黙が落ちた。
言うべきことは、いくらでもある。
だが、どこから手を伸ばせばいいのか分からない。
やがて、サリアが静かに切り出した。
「……魂共鳴のことは、リヴから聞いたわ」
胸の奥が、わずかに強く脈打つ。
「リヴと戦っている間に、あなたが私の想いを……彼女の中で聞いた、と」
その言葉に、息を呑む。
「私のことも……想っていてくれたの?」
責める声ではない。
確かめるような、慎重な問いだった。
「……ああ」
否定する理由は、どこにもなかった。
あの時、確かに想っていた。
許嫁として、何一つ与えられなかった後悔。
距離を置いたまま、踏み出せなかった弱さ。
それでも、彼女の心が離れていなかったという事実。
「俺は……臆病だった」
自然と、言葉が零れる。
「領主になる覚悟はあっても、サリアと向き合う覚悟がなかった」
サリアは、静かに首を横に振った。
「違うわ。私が立場を考えすぎただけよ。領主の妻になる身として、あなたの足を引っ張りたくなかったの」
穏やかな断言だった。
「今のあなたは違う。国と人を背負った上で、それでも私を迎えようとしている」
その違いを、彼女は理解していた。
「私は……それを、誇りに思うわ」
胸が、熱を帯びる。
「……変わったな」
「……あなたが変えたのよ」
ふっと、笑みがこぼれた。
思えば、昔は親が決めた関係だと思い込んでいた。
だが今は違う。
同じ歩幅で、隣にいたいと思える距離だ。
「サリア」
「はい」
「アストレイは、普通の国じゃない」
「知っているわ」
「生者と死者が共に生きる国だ」
「それも」
「それでも……ここで、俺と一緒に生きる覚悟はあるか」
わずかに、俺の声が震えたが、サリアは、迷わなかった。
「あるわ」
即答だった。
「あなたが選んだ道なら、私は隣を歩くわ」
その言葉が、胸に深く沈む。
「……ありがとう」
それ以上、言葉は続かなかった。
◇ ◆ ◇
部屋を出ると、廊下の先にリヴが立っていた。
こちらを見るなり、いつもの穏やかな表情を浮かべる――はずだった。
だが、一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
その顔に、影が差した。
何かを悟ったような。あるいは、失うことを予感したような。
俺とサリアを交互に見て、すぐに視線を伏せる。
「……お話は、終わりましたか」
「ああ」
リヴは、静かに頷く。
「それなら……良かったです」
その声は、いつも通りに感じた。
だが、胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
俺はまだ、その意味を理解していない。
この国が、前へ進むために。
そして、俺自身が選び取った未来のために。
避けては通れない感情が、確かに存在することを。




