第漆話 愛に堕ちた者の、その先
――また、眠っていた。
その事実を理解した瞬間、胸の奥に小さな空洞が生まれる。
確かに、目を閉じた記憶はある。
だが、そこから先が思い出せない。
眠りに落ちるまでの時間と、目覚めるまでの時間。
その境界は、まるで溶ける氷のように、少しずつ曖昧になっていた。
けれど、完全な空白ではない。
意識の底で、私は確かに何かを辿っていた。
誰かの声。炎に灼かれる空。奪われ、抗い、名を与えられた土地。
死と愛が絡み合い、ひとつの王国が形を成していく、その過程。
それらは、初めて見る光景ではなかった。
どこかで知っている。
いや――知っているどころか、かつてこの目で見届けたはずのものだ。
思い出している、という感覚とも違う。
私自身が、過去の中へ引き戻され、同じ時間をもう一度、生きていた。
最近は、一度眠ると長い。
長いというより……深い。
底なし沼に沈むように、意識が遠くまで連れて行かれる。
薄暗い天蓋の向こう、見慣れた天井が視界に入る。
死者の国ネクロス。
玉座の間の奥、私のために整えられた眠りの間。
身体を起こそうとした、その瞬間。
微かな違和感が、内側から私を引き止めた。
――軽い。
力が、ほんの僅かだが、確実に欠けている。
血を失うような痛みはない。
喪失を告げる悲鳴も、警告もない。
ただ、足りない。
指先を見つめる。
白く、細く、変わらぬ手。
けれど、その奥を流れていたはずの奔流は、わずかに細くなっていた。
怒りも恐怖もない。
胸の奥に広がるのは、静かで、どうしようもない不安。
私が眠る時間が長くなった理由。
それは力を蓄えるためではない。
世界が、私を必要としなくなりつつある兆しだった。
気配が動く。
完全に身を起こす前に、足音が近づいてきた。
「お目覚めになられたのですね、メルクア様」
落ち着いた声。振り返らずとも分かる。
「チェイナード……」
死してなお忠義を貫く執事。
私が最初に愛した人。
彼だけは、時の流れから取り残されたままだ。
「どれくらい、眠っていたの?」
「正確な時間は……測れません。ただ、以前よりも、長く」
やはり、か。
私は玉座にもたれ、深く息を吐いた。
「ネクロスで……何が起きているの?」
視線を向けると、チェイナードは一瞬だけ言葉を選んだ。
その沈黙が、すでに答えだった。
「各地で、我らが同胞が奪われています。……メルクア様と同じ、ネクロマンサーの手によって」
胸が、きしむ。
「新しい……ネクロマンサー?」
「はい。その者を中心に、ネクロスの領域を奪還し……新たな国を打ち立てています」
一拍の間。
「国の名は、アストレイ」
その響きが、胸の奥に落ちた。
知らない名だ。それなのに、不思議と拒絶はなかった。
私は、静かに目を閉じる。
――来たのだ。
いつか必ず訪れると、分かっていた日が。
「……そう」
短く答えながら、私は己の内を確かめる。
短く答えながら、己の内を確かめる。
やはり、弱まっている。
私の支配。
私の王国。
私の愛。
「私のせい、ね」
呟きは、誰に向けたものでもない。
死を独り占めしようとした。
愛する者を、永遠に繋ぎとめるために。
その歪みが、今、形を変えて返ってきた。
「メルクア様……」
「いいのよ、チェイナード」
私は首を振る。
「嘆いているわけじゃない。ただ……少し、寂しいだけよ」
死は、私の救いだった。
同時に、私の檻でもあった。
世界が、私以外の手で死を扱い始めた。
それは終わりではなく――私の愛が、誰かに受け継がれた証。
「また一人で考え込んでいるのかい?」
柔らかな声。
振り向けば、アルドレイン様が立っていた。
相変わらず、息を呑むほどに美しい。
その傍らには、銀灰色の魔狼ルナリオ。
かつて小さな子犬だった彼は、今や堂々たる守護獣だ。
「アルドレイン様……ルナリオ……」
ルナリオが低く喉を鳴らす。
その音は、懐かしい安心を連れてくる。
「起きたと聞いてね」
アルドレイン様は隣に腰を下ろし、そっと肩に手を置く。
「力が……弱まっている」
「ええ。でも、それは失うということじゃないわ」
私は静かに言った。
「私が築いたものが、動き出しただけ」
「君の王国は、終わるのかい?」
「いいえ」
即答した。
「形を変えるだけ。もう、一人で守る必要がなくなったのよ」
ルナリオが私の手に鼻先を寄せる。
その仕草は、昔のままだった。
「……新しい国の王は、どんな人なのかしら」
「きっと、不器用で、優しくて……君と少し、似ている」
思わず、笑みが零れた。
「それは……困るわね」
私の愛は、歪んでいた。間違っていた。
それでも――
「挨拶を、しないとね」
自然と、その言葉が口をついた。
チェイナードが目を見開く。
「メルクア様……?」
「だって」
私は立ち上がり、ゆっくりと玉座の前へ歩く。
「私の愛が創った王国の続きを、歩む者たちでしょう?」
アルドレイン様が、静かに頷いた。
ルナリオが、誇らしげに尾を揺らす。
眠りは、もう少し先でいい。
世界は動いている。
愛は、形を変えて受け継がれている。
そして私は、まだこの物語の外には出ていない。
「近いうちに、会いたいわね」
そう告げると、胸の奥に、かすかな期待が灯った。
――愛に堕ちた、その先へ。
私は、再び歩き出す。
第零章はここで完結です。
第零章では五百年前の真相。
死の女王が今後、クロムたちにどのように関わっていくのか楽しみにして頂けたら幸いです。
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