第伍話 愛が堕ちた楽園
アルドレイン様の配下となってから、いつの間にか一年が過ぎていた。
私が率いる死者の傭兵団は、いまやアルドレイン様直属の部隊として扱われ、王国でも異端ながら確かな戦力として認められていた。
アルドレイン様は、生きている大地そのもののような人だった。
民を思い、領地を思い、静かに、しかし自らスキルで大地を耕し、荒れた土地を肥沃な土地へと変えていく。
その背に続き、私は彼の護衛として常に行動を共にした。
周囲が死者である私の部隊を、人々が気味悪がるのは当然だった。
だがそれ以上に、私たちは成果を出し続けた。
耕作地は増え、収穫は安定し、人々の暮らしは改善していく。
私は、そのすべてを誇りに思えた。
──私が、誰かの役に立っている。そんな気持ちは生まれて初めてだった。
そして、ある時期からだ。
私は死者を新たに蘇らせることができなくなっていた。
理由はわかっていた。
かりそめの愛を与え、死者に縋っていたあの頃とは違う。
私は本物の愛を知ってしまったのだ。
そしてその愛に、アルドレイン様も静かに応えてくれていた。
いつしか私たちは、主人と部下という関係ではなくなっていた。
夜、灯の揺れる部屋で、彼は私の名を優しく呼んだ。
私の心は満たされ、初めて知る安心に抱かれながら眠りにつく夜が増えていった。
私は生まれて初めて、幸福というものを知った。
──そう思っていた。
◇ ◆ ◇
その報せが届いたのは、遠征から戻る途上。まだ陽の昇らぬ青黒い空の下、私は死者の傭兵団を従えながら王城へ向かっていた。
また褒めてもらえる。また、あの笑顔に触れられる。また、私を抱きしめてくれる。その想いに胸を熱くしていた、まさにその時だった。
石畳を叩く、乱れた足音。影がひとつ、こちらへ転がるように駆けてくる。
「メルクア様っ……! メルクア様……!」
アルドレイン様の従者が、蒼ざめた顔で私の前に膝をついた。
肩で息をし、声を震わせている。
嫌な予感が、骨の髄までひたひたと降りてくる。
「どうしたの……?」
声が自分でも驚くほど冷えていた。
「アルドレイン殿下が……っ、第一王子派の勢力に……!」
その瞬間、世界が倒れ、軋み、ひび割れた。
耳鳴りが、世界を覆い尽くす。視界の端が揺れ、足元が抜け落ちる感覚。
従者が何か言っているが、もう聞こえなかった。
いや、聞きたくなかった。
「……あ……」
声にならない声がこぼれる。
あの日、チェイナードを失ったときと同じ、壊れた音だった。
「……嘘」
否定しかできなかった。だが従者は、静かに首を振る。
「宮廷内で……王位継承権を巡る争いに巻き込まれ……」
その先の言葉は、私の世界には届かなかった。
アルドレイン様が、危ない?
あの優しい声も、温かな手も、私の名を囁く唇も、もう二度と、戻らない?
胸の奥が破れ、大きな穴が空いた。息ができない。世界が遠ざかる。
いやだ。嫌だ。嫌だ……!
もう奪わないで。
もう、ひとりにしないで……!
その叫びは胸の奥で爆ぜ、世界が白く弾けた。
次の瞬間、私は走り出していた。馬を飛ばし、死者の軍勢を引き連れ、王城へ一直線に向かう。兵士の制止も、怒号も、刃の光すらも意識に入らなかった。
ただひとつ。愛する人の元へ行かなくてはならない。それだけだった。
◇ ◆ ◇
アルドレイン様の部屋へ辿り着くころ、私は全身血まみれで、足も震えていた。
扉を押し開けた瞬間──世界が、止まった。
そこに、静かに横たわっていたのは、紛れもなく彼だった。
肌は青白く、胸には深い刺し傷。
いつも私だけを見てくれた瞳が閉じている。
「……アルドレイン様……」
膝から崩れ落ち、震える指先を彼の頬に添える。
冷たい。
死人のように冷たかった。
「いや……いや……」
かすれた否定が何度も漏れる。頭は理解を拒み、心は壊れかけていた。
失いたくない。失いたくない。もう二度と、あんな孤独はいやだ──!
その叫びが胸の奥で渦を巻き、ひとつの答えにたどり着いた。
──だったら、呼び戻せばいい。
私は震える手を彼の胸に当て、全身から魔力を絞り出した。
ネクロマンシー。
愛を求め、縋り、何度も使ってきた哀しいスキル。
だが今の私は違う。
代用品ではない。
本物の愛へ手を伸ばすためのスキルだった。
「お願い……帰ってきて……アルドレイン様……」
魔力が彼の身体に流れ込む。
空気が震え、炎が揺れる。影がうごめき広がり、部屋は深い闇に沈んだ。
目を開けて。
私を見て。
私を、ひとりにしないで──
祈りが涙に混じり、呼吸が乱れ、唇が切れるほど噛みしめた。
その時だった。彼の指が、わずかに動いた。
「……っ!」
胸に焼けるような熱が広がる。さらに魔力を注ぎ、魂を引き戻す。
「帰ってきて……! あなたじゃなきゃ嫌なの……! 私を……置いていかないで……!」
影が一瞬にして吸い込まれ、世界が静止した。
──そして、彼の瞼が震え、ゆっくりと開いた。
「……メルクア……?」
その声を聞いた瞬間、私は崩れ落ちた。
頬を涙が伝い、胸の奥の空洞が音を立てて満たされていく。
「アルドレイン様……よかった……! 本当に……本当に……!」
彼はまだ弱々しいが、たしかに微笑んでいた。生きていた時と同じ、優しい笑み。
「……戻ってこられたのは……君が呼んでくれたからだろう?」
「はい……! 私が……あなたを呼びました……!」
声が震え、涙で言葉がにじんだ。
拒まれるかもしれない。
それでも伝えたかった。
どれほど会いたかったか。どれほど愛しているか。
彼が手を伸ばし、私の頬をそっと撫でる。
「……メルクアが泣いているところは……見たくないな」
その一言で、また涙が溢れた。
私は彼の手を握り、頬に押し当てる。
「ああ……よかった……本当によかった……」
私は殿下の胸に顔を埋め、肩を震わせながら泣き続けた。
死者たちの虚ろな愛では埋まらなかった穴が、ようやく彼によって満たされたのだ。
彼がいる。愛する人が、私の腕の中にいる。
これこそが──私が求め続けていた「愛」だった。
孤独も、恐怖も、絶望も。
すべてが、その瞬間に溶け落ちた。
私はついにたどり着いた。
愛し、愛される者と共に生きる幸福に。
その瞬間──私の世界は、確かに完成した。




