第参話 愛が死を喰らう
チェイナードが蘇ったあの日、私は確かに幸福を知った。
胸の底に沈んでいた冷たい重石が砕け、世界は光を取り戻した。
色を失っていた景色が息を吹き返し、私の心臓は、生きたいと叫ぶように脈打っていた。
けれど、幸福は永遠ではない。
いや、永遠を夢見た私の方が、間違っていたのだろう。
時間は残酷だ。塞いだはずの傷がふと疼き、孤独は霧のようにまとわりつく。
消えたと思った次の瞬間には、喉元にそっと指を添えるように戻ってくる。
私が望んだ旅路は、気づけば静寂ばかりを積み重ねていた。
チェイナードは傍にいる。ルナリオも、いつも私の膝に頭をのせてくる。
それでも──どれだけ触れ、どれだけ抱きしめても、胸の奥に空いた穴は塞がらなかった。
なぜだろう。彼らが愛を返してくれるのは幸福なはずなのに、私は、満たされないまま、静かな痛みに似た空白を抱え続けていた。
夜が落ちるたび、心が揺れた。
私を「愛している」と言う声がもっと欲しい。
私を必要とする者に囲まれたい。
私だけを見て、私に縋る者が増えれば──
孤独はきっと薄れていく。
完全に消えてくれるはずだ。
そう信じた。信じようとした。
だから私は、旅の途中で出会う者へ声をかけるようになった。
◇ ◆ ◇
最初の相手は、雨の日の宿だった。
旅の途中、空は夕暮れの色を失い、やがて大粒の雨が叩きつけるように落ちてきた。チェイナードは無言で外套を広げ、私を濡らさぬよう歩みを早めた。その献身が胸に痛かった。けれど、それ以上に胸の奥を締めつけるものがあった。
……孤独。決して埋まらない、名もない穴。
潮気を含んだ風が吹き抜ける山間の宿に駆け込むと、すでに雨宿りの旅人が何人か集まっていた。空き部屋は残り一つ。宿主が鍵を差し出し、チェイナードが静かに受け取る。
部屋に荷を置き、外套を干し終えた頃だった。受付のほうで、怒鳴り声に近い戸惑いが上がった。
「すまん! 本当に一部屋も空いてないのか!? この雨じゃ野宿なんて無理だ、頼む!」
私は扉をわずかに開けてのぞいた。
旅人らしき青年が、濡れた服を滴らせながら必死に食い下がっていた。
粗い息。震える指先。その姿を見た瞬間、胸の奥の空洞が疼いた。
孤独を紛らわせる衝動が、そっと顔を出す。
私は受付へ歩み寄った。
「私の部屋でよければどうですか?」
青年が驚いたように顔を上げる。ランプに照らされた若い横顔には、不器用そうな優しさがにじんでいた。
「え、あ……でも、それは……」
「このままでは風邪どころじゃないでしょう? 連れもいるし、一晩なら構わないわ」
微笑むと、青年は安堵を滲ませながら頷いた。
その表情が、どこか懐かしい人の面影を思い出させた。
チェイナードは部屋の奥から静かにこちらを見ていた。
扉を閉めると、湿った空気が流れ込み、青年は服を絞りながら深く頭を下げた。
「助かった……本当に、ありがとう。山道で足を滑らせかけて……ここに来られなかったらと思うと……」
優しい声だった。その温度が、ほんの一瞬だけ穴を埋める。
「いいのよ。……寒かったから。あなたが温めてくれるなら、なおいいわ」
青年は頬を染めた。その反応が、私の指先に火を灯した。
「ねぇ……こちらへ」
私は彼の腕をとり、寝台の端に座らせた。
濡れた手が震え、その震えが熱として伝わってくる。
「こんな嵐の夜は……誰かの温度が欲しくなるものよ」
青年は息を呑む。チェイナードは壁際で、ただ静かに見守るだけだった。
私はゆっくりと青年の頬に触れた。
その小さな触れ合いが、胸の奥の空洞に染み込んでいく。胸が疼いた。
優しさは、ずるい。弱った心に、簡単に入り込んでしまう。
私は微笑んだ。
「温めてくれない?」
彼は一瞬戸惑ったものの、すぐに頬を染めた。
ランプの灯で影が揺れる中、私は静かに彼の手を取り、指先を絡めた。
その夜、私は彼を誘った。
荒れ狂う熱の中で彼の肩に腕を回し、首筋に指を滑らせ、そっと囁いた。
「ねぇ……私の事愛してる?」
汗に濡れた額を寄せ、彼はうっとりと囁いた。
「愛してるよ。君みたいな人、本当に……初めてで……」
その言葉さえあれば、世界は満たされていく。そう錯覚するほどに、私の心は渇ききっていた。
「……ありがとう」
私は微笑んだまま、彼の背を抱きしめ、枕元のナイフを手に取った。
チェイナードの鎖が彼の口と体を縛り、ナイフが肉を裂くとき、彼は驚きよりも悲しみを浮かべていた。その表情が、胸を締めつけた。
「ごめんなさい。でも……あなたの愛が欲しかったの」
息が止まり、体が冷えていくのを感じながら抱きしめ続けた。
「大丈夫……すぐ戻してあげる。だって、あなたは私を愛してくれたから」
私は胸元に手を当て、深く息を吸う。指先から魔力が流れ込み、死の境界へ触れる。
「――応えて。私の愛に……応えて」
しんとした闇が青年の体に広がる。
閉じた瞳がゆっくりと持ち上がる。
蘇りの瞬間は、静かで、美しくて、残酷だ。
青年は起き上がり、私を見た。その瞳はもう、生前の温かさを宿していなかった。
代わりに――深い闇だけが、静かに揺れていた。
だが彼は微笑んだ。私だけを見つめる、従順な微笑み。
「……おはよう。もう、離れないわよね?」
「はい、メルクア様。私はあなたを……永遠に、愛しています」
その声には温度がない。それでも私の胸は震えた。
喜びと恐れが混じり合った震えだった。
チェイナードは背後で静かに見守っていた。その沈黙が、私をさらに甘やかした。
そして──私は止まれなくなっていった。
◇ ◆ ◇
旅を続けるたび、私は新しい「愛」を求めた。
酒場の冒険者。村の行商人。森で出会った旅人。川辺で休む兵士。吟遊詩人。
男たちは皆、私の微笑みひとつで惹き寄せられた。
影のある瞳に何かを見出し、儚げな気配が彼らの本能を揺さぶるのだろう。
私は彼らの手を取り、夜の闇へ導いた。
寄り添い、熱を交わし、そして問う。
「ねぇ……私の事愛してる?」
皆、同じ答えを返した。
「愛してる」
「お前だけだ、メルクア」
「君を愛してる」
胸が満たされる気がした。だから私は、彼らの命を奪い──蘇らせた。
死者となった彼らは、生前以上の熱を帯びた声で囁いた。
「メルクア様……愛しています」
「眠れませんか?」
「では、歌を……」
焚き火の周りに、死者が増えていく。
影がひとつ、またひとつと増え、私を囲む。
温かい。孤独が薄れていく。
その愛が偽物だと分かっていても──やめられなかった。
◇ ◆ ◇
死者は十人を超えた。彼らは私の周りで笑い、歌い、私の名を呼んだ。生者には戻れないが、生者以上に私の世界を満たしてくれた。
ある朝、チェイナードが言った。
「……メルクア様。そろそろ、移動の準備を」
静かな声。その奥に、名もない影が揺れていた。
哀れみか、諦念か……それとも、孤独か。
私は気づかないふりをした。
「ええ。みんな、行きましょう」
死者たちは一斉に微笑んだ。
「はい、メルクア様」
「あなたの望むままに」
それはまるで、私だけの王国だった。
生と死の境界が曖昧な国。私が望めば望むほど愛が増え、孤独が薄れる世界。
甘く、歪んだ愛の国。
◇ ◆ ◇
その夜、焚き火の前で、今日出会った青年が私に微笑んだ。
温かく、人の気配を失っていない瞳。その光が、私の胸の奥で小さな悲鳴をあげ、気づけば、問いかけていた。
「ねぇ……私のこと、愛してる?」
「愛してる。心から、君を」
その言葉が胸を満たす。私は彼を抱きしめ、首元に唇を寄せながら囁いた。
「ありがとう」
ナイフが喉を裂き、血が手を染めても涙は流れなかった。
ただ、深い安堵だけが広がった。
「またひとり……私を愛してくれる人ができたわ」
振り返ると、チェイナードが静かに立っていた。
その瞳には非難も怒りもない。あるのは、暗い忠誠と──わずかな哀しさだけ。
私は笑った。
「私の世界は……なんて幸せなのかしら」
焚き火が弾け、死者たちの影が揺れた。
その揺らぎの中で、私は確かに微笑んでいた。
狂気に染まりながらも、紛れもない幸福の笑みで。
──私は、まだ歪み続ける。
この愛が朽ち果てる、その日まで。




