第弐話 愛が縛る影
ある日、私はすべてを捨てた。
──理由はただ一つ。
お父様に、見限られたからだ。
ルナリオを蘇らせて見せた夜。
私の愛を注ぐたび、あの子の身体はほんの少しずつ大きく、力強くなっていった。
死を越えて戻ってきた、私の大切な家族。その姿を見れば、きっと認めてもらえる。そう信じていた。
お父様は、一度だけ目を細めた。けれど、それは喜びでも驚きでもなかった。
あの沈黙が──答えだった。
気味が悪い。一族に相応しくない。厄介な力を授かった娘。
部屋の空気は、冷たいざわめきに満ちていた。
やがて城中に噂は広がり、私に話しかけてくれる者は一人、また一人といなくなった。目を合わせれば曖昧な笑みで逃げられ、廊下を歩けば陰で囁かれた。
まるで──私が呪いそのものになったかのように。
そして、ある夜。私は逃げるように屋敷を出た。
共に来てくれたのは、一人と一匹。執事のチェイナードと、蘇ったルナリオ。
「なんで……なんで一緒に来てくれるの?」
問いかける声は震えていた。
父親に、国に見限られた女の、弱々しい声。
チェイナードは、迷いを微塵も見せず微笑んでくれた。
「メルクア様が望む場所が……私の場所だからです」
胸が締め付けられた。
使用人として育った彼にとって、私に従うのは人生そのものを捨てるに等しいはずだ。
それなのに、彼は迷わず手を取ってくれた。
私はその手を握りしめ、暗闇へ駆け出した。屋敷の灯が小さくなり、夜風が頬を叩いた瞬間──初めて自由を感じた。
けれど、自由とはこんなにも孤独で、こんなにも心細いものなのだと、まだ知らなかった。
◇ ◆ ◇
駆け落ちの日々は、決して甘いものではなかった。
暖かい湯が出る家は夢のまた夢で、擦り切れた毛布を肩に寄せて夜を越した。
食べ物も十分ではなかったが、チェイナードはいつだって私に先に食べさせた。
「俺は大丈夫です。メルクア様は……」
「様なんて、つけないで。私はもうあの城を捨てたの」
一瞬だけ驚いたあと、彼は静かに頷いた。
「……メルクア。君は……俺にとって、大事な人だ」
焚き火の橙が彼の横顔を照らし、揺れる光の中でその言葉は、どんな宝石よりも輝いていた。
チェイナードとルナリオが傍にいる時間だけは──すべてを忘れられた。
……けれど、幸せは長く続かなかった。
◇ ◆ ◇
その日、私は薬草を摘んでいた。森の奥、陽を遮る木々の隙間から、淡い緑色の光が落ちてくる。
ルナリオは草むらを跳ね、小さく吠えながら駆け回っていた。チェイナードは少し離れたところで、私を見守るように立っていた。
「こんな時間が、ずっと続けばいいのにな」
つぶやくと、チェイナードは困ったように笑った。
「俺も同じことを思ってました。……でも、いつか必ず迎えが来る。御父上は執念深い。メルクアを諦めるとは思えない」
「それでも……あなたとなら、逃げ切れる気がするの」
言葉にすると、胸の奥が温かくなった。彼は照れたように目を細めた。
「それは、本来なら俺のセリフですよ」
そんな他愛のない会話が──当たり前に続くと思っていた。
思っていたのに。
──風が止んだ。森の色がほんのわずかに沈み、空気から音が消えた。
「……下がれ、メルクア!」
チェイナードの声が森を裂いた直後、闇から刃が飛んできた。金属の閃きが脳裏を貫き、私は反射的に身を伏せた。
悲鳴は出なかった。
ただ、胸が凍った。
振り返ったとき──チェイナードの胸に、黒い短剣が深く突き刺さっていた。指先から血の気が引いた。
「……っ」
声にならない声だけが漏れた。彼は私を庇っていた。影のように現れた刺客たちが、周囲を静かに囲んでいく。
「連れ戻せ。抵抗するなら多少傷つけても構わん」
冷ややかな声だった。お父様の側近の声に似ていて、背筋が震えた。
「いや……いやよ……やめて……!」
言葉は涙に溶けて震えていた。その隣で、チェイナードが膝をつく。肩が揺れ、胸から血が零れていた。
「……メルクア……逃げ……て……」
痛みに歪んだ顔で、それでも私に微笑もうとしていた。その顔が、胸の奥を引き裂いた。
「いや……いやああああああっ!!」
私は彼に抱きついていた。その身体から温もりが、急速に失われていく。指先が震え、心臓が砕けそうだった。
「行かないで……置いていかないで……!」
涙が頬を流れ、彼の衣服に落ちていく。
刺客が吐き捨てた。
「無駄だ。犬ならともかく、人間は戻らんと聞いている。そんなスキルなど──」
「戻るわ!」
私は叫んでいた。胸の奥に眠っていた魔力を、限界まで引きずり出した。
ルナリオを蘇らせた時よりずっと深いところまで、心のすべてを注ぎ込んだ。
「チェイナード……お願い……応えて……! 私を置いていかないで……! 私は……あなたを……!」
何度も名を呼んだ。
愛していると伝えた。
涙は頬を伝い、彼の胸元に落ちた。
「まさか!? 止めろ! スキルを使わせるな!」
追っ手の一人が私へ飛びかかろうと踏み込んだ。
だが、その足は地面を踏みしめる前に宙へ浮いた。
低い唸り声が森に響いた。ルナリオだった。
たてがみのような黒い毛が逆立つ。瞳は、淡く紫に光っていた。
ルナリオは追っ手の脚へ全身で噛みついた。肉を裂く生々しい音が響き、男は悲鳴を上げて崩れ落ちる。
「離せ、この獣が……ッ!」
別の追っ手が剣を振るう。しかしルナリオは素早く跳び退き、真正面から威嚇した。牙をむき、地をこすって姿勢を低くする。
──私を守るために。
「くそっ、たかが犬一匹に……!」
追っ手たちは焦り、警戒し、距離を取る。
その一瞬が、今の私には何よりの時間だった。
「ルナリオ……ありがとう」
私は呟きながら、ふたたびチェイナードへと魔力を注ぎ込む。
深く、もっと深く。
心の奥底に沈んだ熱が、指先から溢れ出す。
──その瞬間、闇が世界を包み、空気が震えた。影が蠢く。胸の奥で光が弾ける。何かが、確かに繋がった。
そして──彼は、立ち上がった。ゆっくりと。まるで新しい肉体と心をひとつずつ噛みしめるように。
生前よりも体格は引き締まり、瞳は深い闇を湛えていた。
けれど、その奥で微かに揺れる光だけは、確かにチェイナードのものだった。
「……メルクア様」
低く、深い声。けれど、その響きは確かに私だけを呼んでいた。胸が焼けるほど熱くなった。
「戻ってきて……くれた……!」
私は泣きながら彼の胸に飛び込んだ。その腕は、生前よりも強く私を抱き寄せた。
刺客たちが青ざめ、震える声で叫んだ。
「な……なんだこれは……!? 人は生き返らなかったんじゃないのか!?」
チェイナードは一言も答えなかった。ただ、暗い瞳で静かに彼らを見つめていた。
その無音の視線が、合図だったかのように──空気が震え、闇の中に何かが伸びた。
カシャリ、と金属にも似た音が響いた瞬間、刺客の身体に黒紫の鎖が巻きついていた。魔力で形づくられたそれは、生きているかのように蠢き、逃げ場すら与えず締めつけていく。
「ぐ……あ……っ!? な、なんだこの鎖……!? は……離れ──っ!」
鎖は答えず、ぎり、と締まる音だけが森に響いた。骨が押しつぶされ、喉が圧迫され、悲鳴は途中で潰れた。
別の刺客が慌てて後退したが──遅かった。チェイナードの足元から影のように鎖が伸び、男の両足に絡みつく。瞬く間に身体を宙へ吊り上げ、獲物を見るように首へと巻き上がる。
「ひ……っ……!」
くぐもった音が途切れ、ぶら下がった身体は、やがて動かなくなった。
逃げようとした最後の一人が、恐怖で声にならない叫びを上げた。
「や、やめ──」
言葉は続かなかった。後ろから伸びた鎖が、その口を塞ぎ、胸に深々と入り込んだからだ。
鎖の先端が刃のように変質し、心臓を貫いた音だけが、静かな森に落ちた。
そして──すべてが終わった。
チェイナードは動きを止め、静かに鎖を引き戻した。闇に溶けるように鎖は霧散していく。足元には、倒れ伏した刺客たちが横たわっていた。悲鳴の余韻だけが、まだ木々にこびりついている。
私は震えた。
恐怖ではない。
圧倒的な力を見た感動と──そして、胸の奥に沈んだ深い孤独。
愛は力になる。私が愛した者は、誰より強い。
けれど──この力を理解する者は、もう私の周りにはいない。
私とチェイナード、そしてルナリオ。この三つの魂だけが、どこにも属さずに生きていく。
逃亡は続く。どれほど困難でも、私は彼らと共に歩いていく。
「行きましょう……チェイナード」
「……ええ。どこへでも、メルクア様と一緒なら」
私は涙を袖で拭い、二人と一匹の影は夕闇の森へと溶けていった。
胸に残ったのは、深い愛と、深い孤独。
その二つが静かに絡み合い、私の中で燃え続けていた。




