第72話 背負うべき祝福
アストレイの朝は、薄い金色の光に包まれていた。
夜の冷えをわずかに残した空気が、ゆっくりと温もりを帯びていく。
いつもの朝と、見た目は何ひとつ変わらない。
けれど、決して同じではない。
今日、この町は――いや、この土地は、正式にひとつの国となる。
世界に認められた、ひとつの独立国家として。
胸の奥が、どうにも落ち着かなかった。
張り詰めているわけでも、震えているわけでもない。
それでも、確かに何かがざわついている。
緊張とも違う。期待とも少し違う。
不安。覚悟。責任。
それらに混じって、わずかな喜びさえもが、複雑な波となって何度も胸を打ってくる。
俺は深く息を吸い、夕べ整えられたばかりの礼装に袖を通した。
黒地に銀の刺繍が施された上衣は、思った以上に重い。
布の重さではない。背負わされる意味の重さだ。
似合わない、と何度も思った。今でも思っている。
俺は王の器じゃない。誰かの上に立つために生きてきたわけでもない。
それでも――今日だけは、逃げられない。
アストレイ建国。
その中心に、俺が立つ。
頭がくらくらするほどの事実だった。
◇ ◆ ◇
国家承認式は、町の中央広場で行われる。
いつもなら、子供たちが走り回り、商人の声が響く場所だ。
その広場に、臨時の大広間のような壇上が組まれていた。
三つの大陸の旗が掲げられ、その中央には、アストレイの新しい紋章がある。
深い赤を地に、白銀の一本の樹が描かれていた。
骨を思わせる細い幹から枝が伸び、その先には、かすかな葉が芽吹いている。
死を思わせる形でありながら、同時に再生を示す意匠。
過去の犠牲から目を逸らさず、それでも未来へ進むという、この国の在り方そのものだった。
まだ見慣れないその紋章が、朝の風に揺れている。
すでに、多くの人々が集まっていた。
アストレイの民だけではない。
ヴァルメイア、ギルディア、バルドリア。
三国の代表団が整然と並び、そのさらに後ろには、セラとノクティアを中心としたオルタリア大陸の聖職者たちが控えている。
視線の数が、異様なほど多い。
遠くからでもはっきり分かる。
世界が、アストレイを見ている。
実感は、まだ薄い。
それなのに、足だけは迷いなく前へと進んでいた。
「クロム」
呼ばれて、足を止める。
振り返ると、そこにサリアが立っていた。白銀の鎧ではなく、アストレイの紋章を縫い込んだ礼装。
戦士としてではなく、この国の一員としての姿だ。
軽やかで、清廉で、それでいてどこか誇らしげ。
一度はヴァルメイアに戻った彼女が、今日ここに立っている意味を、俺は嫌というほど理解していた。
「皆が待っている。あなたの国の、最初の日よ」
その言葉が、胸に落ちる。
「……俺の、国」
呟いた瞬間、じわりと重みが広がった。
国とは、土地でも、建物でもない。
そこに生きる人々すべてを、背負うということだ。
サリアは静かに言葉を重ねる。
「恐れなくていいわ。あなたは間違えない。間違えても、私たちが支える」
そして、一拍置いてから、柔らかく微笑んだ。
「あなたの選ぶ道が、アストレイの未来になるの」
喉が詰まった。
言葉が、何ひとつ出てこない。
その横から、リヴが静かに歩み寄ってくる。
「クロム様。わたくしも……微力ながら、お支えいたします」
視線を合わせると、真っ直ぐな瞳がそこにあった。
「あの日、救っていただいた命を……ようやく返せる気がします」
「返さなくていい」
思わず、即答していた。
「そんな義務は――」
「いいえ」
リヴは、首を横に振る。
「これは、恩返しではありません。願いです。あなたと、あなたが守るこの国のために……戦いたい。ともに歩きたい。そう思っただけです」
胸の奥が、温かく震えた。
この国には、もう俺一人じゃない。
そう思わせてくれる仲間たちがいる。
だから――前を向ける。
◇ ◆ ◇
壇上に立った瞬間、無数の視線が一斉に突き刺さった。
冷たい空気が肺を満たし、足元から力が湧き上がる。
最初に一歩、前へ出たのは父、イグラードだった。
ヴァルメイアの代表として、そして――俺の父として。
領主としての父が、王となる俺の前に立つ。
その事実だけで、胸の奥がざわつく。
「クロムよ……いや、今日からはアストレイの王クロムよ」
厳しい声の奥に、確かな誇りが滲んでいた。
「俺は今でも領主として、あの時間違った判断をしたとは思っていない。だが父としては――間違っていた」
短く、しかし重い言葉。
「申し訳なかった」
「……父上」
「誇りだけでは、国は守れぬ。これからは責任と覚悟が求められる。国を背負うということは、ただ生きる以上に苦しむことだ」
拳を、強く握りしめる。
「それでも、進むのだろう?」
「はい」
迷いはなかった。
「ならば――父としてではなく、隣国の一領主として誓おう。アストレイが正しい道を歩む限り、ヴァルネストは必ず助ける」
そう言って、父は手を差し出してきた。
迷いのない、まっすぐな手だった。
一瞬だけ、躊躇が胸をよぎる。
それは王としてではなく、息子としての感情だったのかもしれない。
それでも俺は、確かにその手を握り返した。
冷たいはずの掌は、驚くほど温かかった。
血のつながりを超えて、国と国として結ばれた証。
その重みが、指先から胸へと伝わってくる。
――戻れない場所を越えたのだと、はっきり分かった。
◇ ◆ ◇
続いて、ゆったりとした足取りで壇上に現れたのは、ギルディアのヴィゼル王だった。
目を覆う布は変わらない。それでも、その存在感は一歩ごとに空気を圧する。
「クロム殿。いや――新たな王よ」
低く、よく通る声が広場に響く。
「そなたの国は、まだ小さい。だがな、小さくとも価値ある国はいくらでもある」
言葉は穏やかだが、その裏には計算と経験が滲んでいる。商業国家の王が放つ、現実を見据えた重みだった。
「我がギルディアは交易の国だ。アストレイが望むなら、港の解放と交易路の開拓を約束しよう。そなたの国の発展は、我らの利益にもなる」
それは祝辞であると同時に、明確な同盟の意思表示だった。
「……ありがとうございます、ヴィゼル王」
そう答えると、王は小さく喉を鳴らす。
「ふっ。礼には及ばん。そなたには、うちのラセルが世話になったからな」
ヴィゼル王は満足げに笑い、次の王に場所を譲った。
◇ ◆ ◇
次に進み出てきたのは、バルドリアの王――バハドールだった。
一歩ごとに、地面がわずかに震える。
大柄な体躯から放たれるのは、山のような安定感と揺るがぬ力。
「クロムよ。よくぞ、ここまで成した」
豪放な声が、広場全体を包み込む。
「俺はな、アストレイがひとつの国になる日を、心から待っておった」
「バハドール王……」
「お前は強い。それは剣の腕や魔力だけではない」
王は俺をまっすぐ見据え、続ける。
「人のために動ける強さだ。背負うことから逃げぬ強さだ。それこそが、国を導く力よ」
その言葉は、胸の奥に深く沈み込んだ。
「その強さを、忘れるな。そして、守り続けろ」
次の瞬間、豪快な笑い声とともに、肩を強く叩かれた。
「困ったときは言え。バルドリアの兵は、いつでもアストレイのために剣を振るう」
その言葉は嘘ではない、と分かる。
だからこそ、胸が熱くなる。
◇ ◆ ◇
そして最後に、静かな足取りで壇上へ進んだのは、オルタリア大陸を代表して次期聖女候補のセラだった。
白い礼装が朝の光を受け、まるで淡く輝いているように見える。
その姿に、ざわめいていた広場が自然と静まり返った。
「クロムさん……」
その声は、どこまでも穏やかで、優しかった。
「あなたのネクロマンシーは、神に禁じられたものではありません」
言葉が、澄んだ水のように広がっていく。
「それは、真実を隠すために――人が作り上げた、偽りの禁忌だっただけです」
誰もが息を潜め、耳を傾けているのが分かる。
「あなたは罪人ではありません。恐れるべき存在でもありません」
そして、はっきりと告げた。
「あなたは……このアストレイを救った人です」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
長い間、無意識に抱えていた重石が、少しだけ軽くなった気がした。
「でも……」
俺は首を振る。
「だからといって、安心はしない。ネクロスの問題は、まだ終わっていない」
セラは静かにうなずく。
「ええ。これからが本当の戦いです。でも――あなたは、一人ではありません」
その言葉に重なるように、足音が近づいた。
リヴが、俺の隣に立つ。
揺るがぬ眼差しで、そっとこちらを見る。
反対側には、サリア。
鋼のように強く、確かな芯を持つ存在。
二人が並ぶだけで、背中に支えが生まれるのを感じた。
皆の視線を受け止め、俺はゆっくりと口を開く。
「……俺は、このアストレイを守る」
声は、不思議と震えなかった。
「そして――五百年前の罪も、すべて正す。ネクロスの問題からも逃げない。どんな真実であっても、最後まで見届ける」
その瞬間、風が吹いた。
雲間から夕日が差し込み、広場を黄金色に染め上げる。
リヴが、静かに続く。
「わたくしも、この命が尽きるまでお支えいたします」
サリアが小さく笑う。
「なら……胸を張りなさい。アストレイの初代王として、恥じない背中でいましょう」
セラは胸に手を当て、穏やかに告げる。
「あなたは、この大陸の希望になります。クロムさん」
次の瞬間、民衆が一斉に息を吸い込み、爆発するような歓声が、広場を包んだ。
「万歳! アストレイ王国万歳!!」
「クロム王、万歳!」
「新時代の始まりだ!!」
その声を浴びながら、俺は静かに空を見上げる。
――ここから始まる。
アストレイの物語が。
俺自身の物語が。
そして、五百年の罪を正すための道が。
沈みゆく夕日が、ゆっくりとアストレイを赤く照らしていた。
その光の中で、俺は悟った。
国を背負うということも、この力を持つということも――
呪いなんかじゃない。
大切なものを守り、未来へ繋ぐために与えられた、祝福なのだと。
第九章、そして国となった場面で第二部はここで完結です。
第九章では父イグラード、そして教会との戦いにネクロマンシーの真相と盛りだくさんの内容。
国になってしまったクロムたちが今後、どのようになるのか楽しみにして頂けたら幸いです。
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