第70話 真実に触れた者たち
五百年前に隠された罪。
セラの言葉は、刃となってノクティアの胸を深く貫いた。
彼女は一瞬、その場に立っていることすら忘れたように、わずかに身体を揺らした。
膝が震え、杖を握る手からは力が零れ落ちていく。
「……そんな……そんな、はず……ない……」
掠れた声は、祈りというより、縋りつくような否定だった。
彼女が展開していた聖域の光は弱まり、張り詰めていた空気が、嘘のようにほどけていく。
その姿を見て、胸の奥がきりりと痛んだ。
ノクティアは、間違っていない。
ただ、信じてきた正義が、歪められた歴史の上に築かれていただけだ。
「ノクティア」
セラが静かに一歩踏み出す。
それだけで、ノクティアは怯えたように後ずさった。
触れられたら、何かが決定的に壊れてしまうと、本能で察しているようだった。
「近寄らないで……! そうよ、これは……次期聖女候補としての策略ね! 教会を貶めるための……そんな……!」
「侮辱ではありません」
セラは声を荒げない。
淡々と、事実を置くように言った。
「記録です。残されていた、消しきれなかった記録」
その静けさが、逆に逃げ場を奪う。
ノクティアの喉が、ひくりと鳴った。
「……セラ。あなた……それを、私に信じろと?」
「信じるかどうかではありません」
きっぱりとした声だった。
「それが、真実だというだけです」
真実。
その一言は、どんな罵倒よりも残酷だった。
セラは視線を俺へ向ける。
そこには迷いも、計算もなかった。
「文献だけではありません。私は禁忌を操ると言われたアストレイをこの目で見ました。空気を感じ、人々の暮らしを知りました」
深く息を吸う。
背に生えた白い翼が、淡く光を帯びる。
「もし神が本当に禁じた力なら……命を救い、町を守ろうとする人たちが、あんなにも温かいはずがありません」
胸の奥が、かすかに震えた。
肯定されたのは、力だけじゃない。
俺が積み重ねてきた日々そのものだった。
「あなたは、知らなかっただけです」
セラの声が、少しだけ柔らぐ。
「ノクティア。あなたは……優しすぎる」
その言葉に、ノクティアの肩が大きく揺れた。
彼女は顔を逸らし、必死に涙を堪えようとする。
「……やめて……私は……私は……」
胸元を掴む指に、爪が食い込む。
崩れ落ちる信仰を、必死で繋ぎ止めようとしているようだった。
「私は教会に……すべてを捧げてきたのよ……疑ったことなんて……一度も……!」
「だからこそ、知ってほしかった」
セラの声には、責める色はない。
ただ、痛みを知っている者の響きがあった。
「真実を知らないまま、人を裁いてほしくなかった。あなたが……五百年前の王女と、同じ道を歩んでしまわないように」
「私が……あの死の女王と同じだと、言うの!?」
叫びは、恐怖そのものだった。
「違います」
即座に、否定が返る。
「でもあなたは、教会にすべてを捧げるあまり、自分自身を見失っていた。このまま進めば……いずれ、同じ孤独に辿り着いていたでしょう」
ノクティアはその言葉に、明確に怯えた。
彼女が恐れているのは、セラではない。
自分が信じた正義が、誰かを追い詰める側になっていたことを。
「そんな……そんなこと……!」
「でも、気づけた」
セラは、そっと微笑んだ。
「今なら、まだ間に合います」
その微笑みは、次期聖女候補という肩書きではなく、本物の光を宿していた。
ノクティアの膝が、ついに力を失う。
膝が地に触れる音が、やけに大きく響いた。
ぽつり、と涙が落ちる。
「……どうすれば……いいの……私は……何を……信じれば……」
敵でも、聖女候補でもない。
ただ、一人の少女が、世界の重さに耐えきれずに震えていた。
「ノクティア」
俺は剣を下げ、ゆっくりと近づいた。
敵意を持たないことが、言葉より伝わるように。
彼女が顔を上げる。
そこにあったのは、迷いと弱さだけだった。
「お前は……間違ってない。ただ、教えられたまま、信じてきただけだ」
「クロム……」
「俺は、お前を憎んでなんかいない」
震える唇が噛み締められ、堰を切ったように涙が溢れた。
「私は……あなたを……殺そうとして……!」
「そう教えられてきたんだ。でも今は違う。もう、俺を見てる」
ノクティアの肩が、小さく何度も揺れる。
その姿は、あまりにも無防備で、人間的で、胸が痛んだ。
やがて彼女は、杖をそっと地面に置いた。
その乾いた音が、戦場の空気を決定的に変える。
ざわめきが広がり、聖騎士たちが互いの顔を見交わす。
そして、一人、また一人と剣を下ろしていった。
「聖女様……!」
「ノクティア様……!」
「……剣を下ろして」
まだ震えは残っていた。
それでも、確かな意志が宿っていた。
「もう……戦う理由はありません」
光が完全に消え、聖域は霧のように溶けていく。
ヴァルメイア軍も、それに倣って武器を収めた。
戦いが、終わった。
嵐の後のような静寂の中、誰も言葉を発せず、ただ立ち尽くしていた。
「撤退します……オルタリアへ戻り……すべてを、問いただします」
その宣言を合図に、軍は静かに去っていった。
◇ ◆ ◇
戦場に残されたのは、俺たちと、セラだけ。
張り詰めていたものが切れ、膝が笑いそうになる。
その横に、セラが静かに降り立った。
「……助かった。本当に」
偽りのない言葉だった。
セラは、小さく微笑む。
「クロムさんたちを救いたかっただけです。そのためなら……ここまで来るのは当然です」
「どうやって……五百年前のことなんて調べたんだ。それに、ここまで……」
「次期聖女の権限です。本当は……ノクティアが出立する前に、真実を調べたかった。でも、間に合わなかった」
彼女は空を仰ぐ。
光の羽根が、粒子となって揺れていた。
「ヒュマリアへは船で渡りました。その後、マルキオンで……ラセル様に事情を話しました」
その名に、思わず息を呑む。
「はい。アストレイが危機にあると聞いて……彼が、急ぐべきだと教えてくれました。だから――」
セラは背に視線をやり、淡く光る翼をわずかに揺らす。
「私のスキルが【天使】でよかった。この翼があるから……空を飛んで来れたんです」
その声は控えめだったが、語られている内容は常識の枠を軽々と越えている。
「……ありがとう。セラが来なかったら……」
「間に合ってよかったです。でも――」
彼女の表情が、わずかに引き締まる。
「これからが本番ですよ。真実が広がれば……アストレイを取り巻く世界は、確実に変わります」
その言葉に、背筋がぞくりとした。
だが、同時に不思議な力が胸に宿るのを感じた。
もう、逃げる理由はない。




