第69話 五百年の虚構
セラの言葉を境に、戦場を満たしていたざわめきが、潮が引くように消えていった。
直前まで張り詰めていた空気は、まるで世界そのものが呼吸を忘れたかのように静まり返る。
俺たちも、ノクティアも、剣を構えていた聖騎士たちも、ヴァルメイア兵たちですら動けずにいた。
誰もが武器を握ったまま、次の行動を忘れ、ただ一人の少女の言葉を待っていた。
五百年前――
その言葉は、軽く口にできる数字じゃない。
人の記憶から風化し、歴史という名の沈殿物に埋もれた時間だ。
セラは、その底に沈められた真実へ、今、手を伸ばそうとしていた。
「セラ……続けてくれ」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
喉の奥が焼けるように痛い。
それでも言葉を投げたのは、逃げたくなかったからだ。
セラは俺を一度だけ見て、静かに頷いた。
それから視線を空へ向ける。
その横顔は、祈る者のようであった。
「五百年前。ヒュマリア大陸北部に、ナクロアという国がありました。表向きには、死の女王が滅ぼし、死の国ネクロスを作ったとされています」
セラの声は淡々としている。
だが、その奥には、確かに抑え込まれた怒りが潜んでいた。
「ですが、その裏側には……ある記録が残されていました。意図的に隠され、歪められ、切り取られた記録が」
風が吹き抜ける。
白い翼が揺れ、羽音が微かに響いた。
「五百年前のヴァルメイアには、名を残されなかった王女がいました」
ざわり、と空気が波立つ。
ヴァルメイア兵たちが顔を見合わせ、聖騎士たちの背筋が強張る。
「その王女が……ネクロマンシーを授かったのです」
言葉が落ちた瞬間、戦場に微かな動揺が走った。
誰かが息を呑み、誰かが喉を鳴らす。
俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。
「王女は最初、小さな命を蘇らせたと言われています。飼っていたペットをもう一度この世に繋ぎ止めた。失われたはずの命を、優しく縫い止めるような力でした」
その光景が、勝手に脳裏に浮かぶ。
恐ろしい儀式でも、禍々しい呪詛でもない。
ただ、失いたくないと願った命の延長。
「けれど……その奇跡は」
「恐れられた、か……」
思わず、口をついて出た。
セラは小さく頷く。
「はい。王女の力は、神の祝福ではなく、畏怖として受け取られました。王家にふさわしくない、不気味な力。そう囁かれ、距離を置かれ、次第に孤立していった」
セラの声は静かだ。
だがその静けさが、かえって胸を締めつける。
「心を許す者は、ほとんどいなかったそうです。やがて彼女は……自ら国を去りました」
追放ではない。
けれど、それ以外の道が残されていたわけでもなかっただろう。
「追い詰められ、信じていた国に裏切られ、居場所を失い……」
セラは、ほんのわずかに目を伏せる。
「――心が、壊れました」
その言葉は、冷たい石のように、胸の奥へ沈んだ。
心が壊れた。
たったそれだけの言葉で、五百年前の王女が背負った孤独が伝わってくる。
誰も近づかない。
誰も信じない。
誰にも必要とされない。
力を恐れられ、化け物と囁かれ続ける日々。
そんな絶望に、人はどれほど耐えられるのか。
「……彼女は、その後、何をしたんだ?」
問いながら、胸の奥が痛んだ。
自分でも気づかぬうちに、自分の行く末を重ねてしまっているのかもしれない。
セラは、静かに言葉を続ける。
「王女は……自分を捨てた国を拒絶しました。その心の叫びが、制御を失ったネクロマンシーと共鳴し、北の土地に死を広げたと言われています。その地は……いつしか、ネクロスと呼ばれるようになりました」
ネクロス。
今なお、死の女王が支配する国。
その始まりが、恐怖と孤独と、裏切りに押し潰された一人の女性の叫びだった。
「……そんなことが、本当に……?」
ノクティアの声は震えていた。
それは怒りでも威圧でもない。
足元の世界が崩れ落ちる感覚への、純粋な恐怖だった。
セラは、はっきりと頷く。
「でも……ヴァルメイア王家は、その事実を隠したかった」
視線が、ノクティアに向けられる。
「一国の滅亡に、自国の王女が関わっている。それは、王家の恥であり、権威を根底から揺るがす出来事です」
「教会は……何をしたの?」
ノクティアの問いは、もはや責める響きを失っていた。
「……ヴァルメイアは教会に助けを求めました」
セラの声は低く、確かだった。
「王女の罪を、禁忌として塗り潰すために」
ノクティアは口元を押さえた。聖騎士たちも、誰一人として言葉を発せない。
「当時の教会は、取引を持ちかけました。――王家の体面を守る代わりに、教会の権威をヒュマリア大陸で保証する。そして……ネクロマンシーは『神が禁じた力』として定義されました。王女の罪は、神の意志にすり替えられ、歴史から消されたのです」
喉が痛むほど、息を呑んだ。
「つまり……」
言葉が、そこで詰まる。
セラは、はっきりと告げた。
「ネクロマンシーの禁忌は、歴史の改ざんによって生まれた虚構です。ネクロマンサーは、神の敵ではありません。ただ……五百年前の失態を、隠したかっただけ」
雷に打たれたような衝撃が、頭と胸を同時に貫いた。
「教会の全員が、この真実を知っているわけではありません。伝えられ知っているのは、最高位の聖職者、ごく一部だけ」
セラは、俺をまっすぐに見た。
「クロムさん。あなたがネクロマンシーを授かったことで、彼らは五百年前と同じ動きを始めました」
胸が、嫌な音を立てる。
「禁忌の再来を恐れて……いえ、自分たちの罪が露呈することを恐れて」
「そんな理由で……」
声が震えた。
「俺を……消そうとしているのか」
セラは、悲しげに頷く。
「あなたがこの力を持つ限り、教会の……オルタリアの歴史は揺らぎます。だから彼らは、真実が広まる前に、禁忌の怪物を処分する必要があった」
セラは、静かに言った。
「クロムさん。あなたの力は……誰かが恐れ、隠し、封じたかった力です」
その瞳は、揺れていない。
「神に背くものではありません」
「……セラ。じゃあ、俺は……」
言葉が、喉で震える。
「あなたは――」
セラは、はっきりと言い切った。
「――禁忌なんかじゃありません」
一瞬、世界が止まった気がした。
「あなたの力は……人を救える力です」
胸の奥で、長い間凍りついていた何かが、音を立てて崩れ始めた。




