第67話 天より降る救済
聖域の光は、戦場をじわじわと焼き尽くす朝日にも似ていた。
美しく、逃れようもなく、命の輪郭さえ奪い去っていく。
世界そのものが淡い金色の牢獄となり、そこに閉じ込められた俺たちの力を吸い取っていくようだった。
ネクレアたちの身体から力が抜け落ちていく音が、皮膚の裏側で震えるほど鮮やかに感じられた。
「くっ……腐敗領域!」
吠えるような叫びとともに、コーハの体から黒紫の霧が溢れ、地面を走り、騎士たちの光の盾へと食らいつく。
しかし触れた瞬間、世界をはじくような透き通った音が響き、腐敗の霧はあっけなく霧散した。
「効かない……っ!? やっぱりいつもより……力が……」
かすれた声。歯を食いしばるその横顔が痛いほど苦悶に染まっている。
震える肩を見ただけで、俺の胸の奥がざらりと逆撫でされた。
ネクレアたちの動きも明らかに鈍っていた。
リヴでさえ、いつもは十数人を相手にして余裕そうにしているのに、今は十人と拳を交えるだけで息が乱れている。
シグレもまた、十人に囲まれ、乾いた斬撃の音を何度も浴びながら、かろうじて刀を返す有様だった。
「リヴ、シグレ、下がれ!」
「下がれません……クロム殿を……必ず……!」
ヴァリアさんが張った結界は、砕ける寸前のガラスのように高い音を立てて軋む。
その向こうでは聖騎士たちの光刃が幾筋も振りかざされていた。
「あああぁ……っ!」
ネクレアの一人が光を浴び、地面に崩れ落ちる。
光が彼らの身体から生命を吸い上げるようだった。
そして――一人の騎士が、ネクレアたちを踏み越え、俺の元へまっすぐ走ってきた。
幼いころ、領主となるために握らされた剣。
今は、手の中の鉄の冷たさだけが、自分の存在を支えている気がした。
「来いよ……!」
騎士の刃を受け止める。
衝突の瞬間、腕が焼けるように痺れ、骨の芯まで震えが走った。
幼いころから剣の稽古はしてきたつもりだ。
それでも――本物の戦場で鍛えられた騎士の刃圧は、想像していた世界の外側にあった。
押し返せない。
金属が跳ねる甲高い音がして、俺の剣は弾き飛ばされた。
視界の端で、くるくると空を回りながら落ちていく。
まずい――
騎士の眼光が細まり、光刃がまっすぐ俺の喉元へ迫った。
終わる。
そう悟った一瞬――
どごッ!
肉が殴られる鈍い音がし、騎士の身体が横に吹き飛ぶ。
俺の前に影が立ちはだかっていた。
荒く息を吐き、自分のものか相手のものかわからない、血塗れの拳を握ったハードンだった。
「クロム! こんなとこでやられてんじゃねぇよ!」
怒鳴り声というより、胸の底から絞り出した吠えだった。
その背中は震えているのに、まるで巨大な壁のように俺の前に立っていた。
「ハードン……!」
「お前が倒れたら、誰がアストレイを指揮するんだよ! いつまでもネクレアたちに守られてばっかでいられっか! 俺たち人間だって……やれるんだよ!」
俺はずっと、みんなを守るために戦っていたつもりだった。
だがハードンの言葉は、胸の奥に突き刺さり、気づかないふりをしていた事実を暴き出した。
守っているようで――本当は守られてばかりだったのかもしれないと。
「ヴァリアさん! 援護します!」
フリシアが両手を広げる。一陣の冷気が渦を巻き、地面が一瞬で白い氷に覆われる。
氷壁が伸び、砕けかけた結界の前へ新たな障壁となって立ちはだかった。
「ハーフエルフの私を受け入れてくれたアストレイを……クロムさんを絶対に渡さない……!」
その叫びは、凛とした祈りにも似ていた。
次の瞬間、世界が――ふっと軽くなる。
身体に絡みついていた見えない鎖が、いくつか外れたような感覚だった。
「これくらい……私にだって……できるわ」
掠れた声が背後から聞こえる。
振り返ると、ドレイナが、両手を空へ伸ばしていた。
吸魔のスキルが聖域の光を侵食し、光はわずかに薄らいで見える。
「ドレイナ……! 無理するな!」
「たまには……無理させなさい……!」
別の場所では、ドロシーが泥化を展開していた。
足元の大地が沼に変わり、騎士たちの重装備が次々と沈み、足を取られる。泥の海に騎士が倒れ込み、泥を跳ね上げる。
「アストレイはね……私たちの帰る場所なんだから!」
「待ってろよ、今止めてやるからな!」
粘着を操るネバルドが飛び込み、泥と絡むように粘着を広げる。足を奪われた騎士たちは、さらにその動きを完全に封じられた。
「動けないだろ、騎士さん! アストレイは渡さない!」
戦場全体に、アストレイの民の声が溢れ始めた。
「教会なんて前から気に食わなかった!」
「これから稼がせてもらう町を焼かれてたまるかよ!」
「俺たちを受け入れてくれたアストレイを……今度は俺たちが守る番だ!」
剣を掲げる者、魔法を放つ者、盾を構える者――
この町が、アストレイが、確かに一つの意思を持って立ち上がっていた。
その中に――治療院で眠っていたはずのサリアの姿があった。
頬はまだ青白い。
それでも槍を握る手は震えておらず、まっすぐ俺へと歩いてくる。
「サリア……」
彼女は静かに首を振った。
「私は……もう間違えない」
揺るがない光が、青い瞳に宿る。
「クロムを……殺させたりしない!」
教会を信じていたサリアが、神の光の下で、俺を守るために槍を構えていた。
その姿に胸が熱くなる。
聖域が弱まり、ネクレアたちが息を吹き返す。
リヴの動きが戻り、シグレが再び大人数を相手に斬り結んだ。
ついに――均衡が戻り始めた。
「いける……! 押し返――!」
叫ぼうとした、その瞬間。
光が、震えた。
ノクティアが両手を胸の前で組み、静かな祈りを紡いでいた。
「……神よ。禁忌に触れし者たちを、どうか正しき道へ導き給え……」
世界そのものが震えるほどの聖気が膨れ上がる。
「これ以上は……!」
ドレイナが悲鳴を上げ、そのまま崩れ落ちた。
「ぐ……っ! ま、また……!」
ネクレアたちが再び地へ倒れ込む。聖域により、結界が砕け、氷が溶け、泥が浄化され、粘着が剥がれ落ちていく。
ノクティアが悲しげな顔で、しかし冷たく言い放つ。
「……罪人以外の命まで奪うつもりはありませんでしたが……禁忌に感化されたなら、それもまた禁忌。皆さん、神の名のもと――浄化を」
ノクティアの号令に聖騎士たちの光刃が一斉に掲げられる。
……終わりだ。
そう理解した、その時だった。
影が――空から落ちてきた。
白い羽根が一枚、俺の前へ舞い降りる。
触れた瞬間、聖域の光に焼かれることなく、花片のように溶けて消えた。
顔を上げると、空から、ゆらりと舞い降りる影があった。
背中に純白の羽根を生やした、一人の女性。
白金の髪が風にほどけ、琥珀色の瞳が柔らかく輝く。
息が止まった。
「……セラ……?」
あの日、方向音痴でアストレイに迷い込み、「北って上じゃないんですか?」と訊いてきた、あの不思議な旅人。
その彼女が――光の翼に包まれ、まるで別人のような気配をまとってゆっくりと舞い降りていた。
「……久しぶり、クロムさん。遅くなって、ごめんなさい」
その声は、戦場のすべての音を静かに洗い流すようだった。
その姿を見て、聖騎士たちが一斉にざわめく。
「セ、セラ様……!?」
「なぜ……《《聖女候補》》のあなたが……ここに――!?」
俺は、息を呑み――悟る。
ただの旅人のはずがないとは思っていた。
しかし――彼女が纏う光は、俺の知らない何かを告げていた。




