第66話 天より降る断罪
父イグラードとの戦いは、剣より鋭く魂を削った。
戦場からの帰路は短くも長く感じ、身体よりも心が疲れていた。
だがアストレイの防壁の影が視界に収まった瞬間、強張っていた呼吸がようやく緩む。
門をくぐると、熱を帯びていた空気がふっと和らいだ。
この空気を吸うと、自分が戻ってきたことをやっと実感できる。
戦場を離れたのは数時間前のはずなのに、まるで数日分の重さが心に張り付いていた。
それでも、ここは俺の帰る場所だ。
門の内側で待っていた仲間たちが、次々と顔をあげた。
「クロムさん! 無事だったんですね……!」
フリシアが真っ先に駆け寄ってきて、息を荒くしながら俺を覗き込む。
その瞳には恐れと、心の底からの安堵が入り混じっていた。
「ああ。この通り、腕も足も付いてる」
笑ってみせたが、胸の奥でまだ震えが消えなかった。
父との交わした言葉は、矢のように心に突き刺さり、そのまま抜けずにいる。
「無茶ばかりしやがって……まあ、生きてりゃ十分だ」
ハードンが腕を組んだまま、目を細めて笑った。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが音を立てて緩む。
仲間の顔を見るだけで、息が深くなる。
戦場の余韻はまだ身体に残っているのに、不思議と心は静まっていく。
リヴ、シグレ、そしてネクレアたちがゆっくりとこちらへ歩いてきて、姿を見せる。トローネが駆け寄り、傷ついたネクレアたちを見て目を大きくした。
「クロムさん……。みんな、怪我を……?」
「俺が魔力を使いすぎたせいで、回復が追いついていないだけだ。魔力が戻ればすぐ治せる」
「クロム様のためなら、今は……どうということもありません」
リヴが淡々と言い切る。
その過度な忠誠心に苦笑しつつ、不思議と胸が熱くなる。
束の間の、穏やかな時間。
戦いの後の静寂は、こんなにも柔らかいのかと思う。
――世界が割れたのは、その瞬間だった。
空が震えた。
硬質な、耳を刺す音が響き、陽光が一瞬だけ白く塗り替えられた。
「……なんだ?」
見上げると、空の一点が裂けたように輝き、蒼白の光が街を包んだ。
天から降り注ぐ、巨大な光柱。
眩しさではなく、皮膚を凍りつかせる冷たい光。
町の人々が空を指差し、悲鳴が上がる。
光柱の中心から、巨大な円が広がっている。薄い膜のような光が天蓋のように展開し、アストレイの上空を覆う。
「あれは……結界? アストレイを包囲している……」
ヴァリアさんの呟きが、俺の想像を現実に引き戻す。
これはただの結界ではない。
世界そのものを塗り替えるような――聖なる圧を感じる。
その圧が俺の胸を掴み、魂の根元をえぐった。
「────っ!?」
胸の奥の、ネクレアたちとの絆が急激に細くなっていく。
ネクロマンシーの糸が軋み、ちぎれそうなほど締め上げられた。
「クロムさん!? みんなも……!」
フリシアの叫びが妙に遠く聞こえた。
視界の端でリヴが苦痛に顔を歪め、片膝をつく。
続いてシグレが浅い呼吸で肩を震わせ、ネクレアたちが一斉に地に伏した。
「クロム様……力が……削がれていきます……」
リヴのか細い声が、光に溶けていった。
ネクレアたちだけじゃない。
俺自身の魔力も、内側から攪拌されるように乱れ始めている。
血管の奥を針でなぞられるような、細く鋭い痛み。
だが隣を見ると、フリシアもハードンもまったく変わらぬ様子だった。
「クロムさん……この光……私たちには何の影響もありません。でも、クロムさんとネクレアのみんなは――」
フリシアは唇を噛み、周囲を見渡す。
その焦りが、逆に違和感を際立たせた。
聖なる圧力が狙っているのは、こちら側だけ。
ハードンも拳を構え、歯を剥きながら怒鳴った。
「なんなんだ、こんな気味の悪い光はよ! ……おい、クロム、あれを見ろ! 防壁の外だ……敵がぞろぞろ並んでやがる!」
その声に引かれ、俺は重い首を上げた。
眩い光が空から降り注ぎ、アストレイを覆うように結界の縁を描いている。
そして、その外側――整然と並ぶ白銀の鎧。
光を纏った教会の騎士団の列。
さらに後方には、ヴァルメイア軍の軍勢が、地平線を埋めるように広がっていた。
息が、喉の奥で止まった。
「……教会……と……ヴァルメイア軍……」
なぜだ。教会の騎士団がここにいる。
そんな疑問が胸を刺した瞬間、気付く。
軍勢の中心に、一人の女性が立っていた。
光の中心にいてなお、色褪せない存在。
深紅の髪が光をまとい、黒金の瞳がまっすぐにこちらを射抜く。
祈りのような純粋さと、断罪の刃のような冷徹さ。
相反する二つが美しく調和した瞳。
彼女は歩み出る。
その一歩ごとに光の結界が脈動する。
「私の名前はノクティア。オルタリアの次期聖女です」
声は澄み、教会の鐘の音のように響いた。
「あれが……次期聖女……」
あれが噂のオルタリアの次期聖女候補。
教会がこの大陸に送り出したという聖の代行者。
ノクティアは静かに両手を胸の前で組み、俺を見つめる。
「禁忌を操る者、クロム・アストレイ。あなたの力は、神の領域を侵し続けています」
白銀の光が彼女の周囲に集い、衣を揺らした。
「あなたの術式は魂を縛り、死霊を従える禁忌そのもの。その存在が、この世界の秩序を蝕む」
ひどく静かな声だった。
感情がないのではなく、確信だけが乗っている。
「聖域――展開」
光が一段深まり、空気がさらに重くなる。
俺の膝が一瞬揺れた。
聖の重圧が、血流にまで入り込んでくるようだ。
「クロム様……もう……身体が……」
リヴが息を詰まらせる。
他のネクレアたちもかすれるような呻き声が漏れる。
ノクティアがネクレアたちを見て、首を傾げた。
「普通のアンデッドならば、私のスキル【聖域】の中で霧散しているはず。やはり……しぶといですね。禁忌に作られた存在というのは」
その声には怒りも嘲りもなく、ただ祈りのような冷たさだけがある。
だからこそ恐ろしい。
「神に背く者を救う道は一つ。浄化です」
ノクティアが杖を掲げる。
後方の騎士団が光盾を構え、ヴァルメイア軍が一斉に武器を上げた。
「……やる気だな」
俺はかすかに笑った。この絶望的な状況で、なぜか笑いが漏れた。
戦えるのか?
いや――戦うしかない。
「クロムさん……!」
フリシアの瞳が揺れていた。
それは恐怖ではなく、俺を失うことへの切実な不安だった。
その横で、ハードンが拳を鳴らす。
「上等じゃねぇか。こんな連中まとめて――」
「やめろ、ハードン」
思わず声が鋭くなった。
ハードンが眉をひそめる。
「おまえまで倒れたら、誰が町を守るんだ。ここは……俺たちに任せてくれ」
「……クロム」
ハードンは悔しげに歯を食いしばったが、それ以上は言わなかった。
「大丈夫だ。……みんなは町へ。俺たちで守る」
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥で小さな火種がぱちりと弾けた。
恐怖でも焦りでもない。
ただ前へ進むための、静かな熱だ。
俺とネクレアたちは防壁の外へ歩を進めた。
聖域の光に焼かれるように、皆の動きは鈍く、足取りは重い。
それでも顔を上げ、並び立つ姿は揺らぎもしなかった。
忠誠という言葉では足りない。
もはや、生と死のどちらへ傾こうとも離れない、深い縁のようなものになっていた。
前方でノクティアが杖を胸元へそっと添え、静かな眼差しをこちらへ向ける。
「クロム。あなたの魂が、人の領域へ戻ることを……私は祈っています」
柔らかい響き。
けれどその奥には、温度のない断罪の刃が潜んでいた。
祈りであり、宣告でもある。
ヴァルメイア軍が大地を踏み鳴らし前進を開始する。教会騎士団の光盾が重なり、聖なるざわめきが空気を震わせた。鎧の擦れる音すら、ここでは戦端を告げる鐘のように響いた。
聖域の力で、リヴたちの動きも鈍い。
俺自身の魔力も乱されている。
父との戦いで受けた傷はまだ癒えていない。
圧倒的に不利。
状況は最悪。
だが――それでも前に立つしかない。
「クロム様……」
苦しく息を漏らすリヴの声が、かすかに耳に届く。
彼女の膝は震えていたが、視線だけは真っすぐ前を向いていた。
俺は剣を握り直し、ゆっくり前へ踏み出した。
「来いよ、聖女様」
剣を握る手のひらから、微かな熱が逆流する。
燃えるほどの力じゃない。
今の俺にはそんな余裕はない。
それでも――折れるほど弱くもない。
「俺たちは……まだ倒れるわけにはいかない」
声にして初めて、腹の底に灯った火が確かな炎として揺れた気がした。
聖と死が交差する戦いが、静かに幕を開けた。




