第65話 二人の父
父――イグラードがこちらへ歩み寄ってくるたび、空気が裂けていく。
足音自体は静かなのに、踏み出すたび周囲の大気がきしみ、まるで見えない火柱が立ち上るような圧が肌を刺した。
耳の奥では、熱そのもののうねりが響いていた。
炎の圧が空間を押し広げ、近づくだけで肺の奥まで熱されるような錯覚が走る。
父の視線は、血を分けた息子を見るものではない。
獄炎に照らされたその目は、目の前の獲物をただ焼き滅ぼすだけの、冷たい光を宿していた。
「まだ抵抗するのか、クロム」
声には炎が宿っていた。
怒りの熱ではない。
慈悲のかけらすら無い、純粋な拒絶の火炎だ。
「アストレイを守るためなら、俺は下がれない」
「守るだと?」
わずかに眉が動いた。
その瞬間、周囲の空気が波打ち、熱が肌を刺す。
「逃げ出したお前に、領主の資格など無い」
「逃げなければ処刑された。資格の話なんてどうでもいい。……俺はただ――父上に、認めてほしかった……」
その言葉が口を出た瞬間、空気が爆ぜた。
父の殺気が膨れ上がり、肌が焼け付くような痛みが走る。
「……くだらん。親の情など、領主である私の前では灰にしかすぎん。お前が何を望もうと、私はヴァルデンの領主である」
「それでも――」
反論を紡ごうとしたとき、左手に静かな熱が重なった。
シグレの手だった。
澄み切った目で、まっすぐ俺を見ていた。
「クロム殿……心を預けてくだされ」
その声音には、覚悟よりも深いもの――懇願に似た静かな熱が宿っていた。
シグレは続けて、低く、しかしはっきりと言った。
「今は、言葉だけでは届きませぬ。互いの心を繋ぎ、同じ刃を振るわねば……越えられぬ相手です」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、意識の底へ、もうひとつの呼吸が染み込んできた。
魂が重なる感覚――魂共鳴。
視界が徐々に混ざり、同調し、思考のリズムがひとつに重なる。
「行くぞ、クロム殿」
「ああ……頼む」
ひとりではない。その安心感が胸奥で静かに燃えた。
◆ ◆ ◆
イグラード殿がわずかに腕を振り上げた瞬間、地面を裂くように炎柱が噴き上がる。
これが獄炎。触れれば骨すら灰へ化す、破壊の極致。
だが、躊躇している余裕など無い。
拙者は一息で間合いを詰め、地を蹴って跳んだ。
イグラード殿の拳が振り下ろされる。
大気がめくれ、光が歪む。
ただの拳ではない。
内部に凝縮された熾熱が、空間ごと握り潰していた。
拙者は刃を合わせる。
炎と刃が衝突した瞬間、地が揺れ、世界が反転するほどの衝撃が襲った。
腕が痺れる。押し返せぬ……
これが獄炎の拳。
だが――
「イグラード殿!」
「……何だ、貴様」
「今は拙者など、どうでも良い。クロム殿を捨て、国を選んだ。それが貴殿の覚悟というのなら――問わせていただく」
イグラード殿の炎が、一瞬だけ揺らいだ。
「問うだと? この期に及んでか」
「ええ。今でなければならぬのです」
クロム殿の驚きが、拙者に流れ込んでくる。
だが拙者は、前へ踏み込んだ。
「なぜクロム殿と国を天秤にかけた。なぜ、どちらも守る道を探さなかった。……それほどまでに、重い理由があったと申すか」
「そんなもの……領主だからに決まっている!!」
怒号が周囲を震わせ、地面が悲鳴をあげる。
「領主は民を守る義務がある! 個人の感情ごときで揺らいでよい立場ではない! 国か子かを迫られたとき、私が選ぶのはただ一つ――!」
「それが貴殿の、本心か」
「黙れ! 貴様に何が分かる!」
怒りが頂点を越え、大気が赤熱する。
その時だった。
拙者の心が、クロム殿の胸へ流れ込んだ。
深い後悔。長い旅路の孤独。百五十年を超えても消えぬ痛み。拙者の、失った家族の記憶――
「……分かるのです」
「何がだ?」
「拙者にも――子がいました」
イグラード殿の動きが止まった。
拙者はゆっくりと刀を構え直し、続ける。
「武者修行の旅に出ていった。いつか戻ると約束して。だが拙者は遭難し、この大陸へ流れ着き……そして命を落とした」
炎がわずかに、弱くなった。
「妻も、子も残したまま。何も果たせぬまま、ただ骸となって……クロム殿のために蘇った」
流れ込むクロム殿の胸苦しさが、拙者の痛みを映していた。
「あれから百五十年。もう、あの子は生きておらぬでしょう。……子孫がどこかで生きているかどうかさえ、分からぬ」
声が震える。
「今でも後悔している。あの幼い手を離したことを。旅に出たことを。もう二度と会えぬかもしれぬと知りながら……それでも刀を取った自分の愚かさを」
イグラード殿は、一歩すら動けなくなっていた。
「イグラード殿。子を置いて先に行く痛みも――残される側の痛みも――本当に、お分かりにならぬと申すか?」
その瞳が揺れた。
怒りではない。
もっと深い場所で。
拙者越しに、クロム殿にも伝わる揺らぎ。
『父上は……まだ……?』
クロム殿の呟きが胸に響いた、その瞬間。
「……やめろォォッ!」
イグラード殿が叫び、獄炎が爆発した。
感情を否定するように、炎は濁流となって世界を覆う。
『クロム殿!』
『ああ――行くぞ、シグレ!』
心の奥底にある思考の流れがひとつに重なり、判断の速さも、斬るべき瞬間も、互いに同じ光景として浮かび上がった。
拙者は晴天を鞘に納め、静かに腰へ添える。
その瞬間、クロム殿の魔力がしずかに胸奥へ満ち、拙者の意志に寄り添うようにして晴天へと流れ込んでいく。
刀身がかすかに震え、魔力が共鳴する。
まるで一振りの刃と二つの魂が、同じ方向だけを見るように。
世界が、音を失った。
――ただ一閃のための静寂。
「――霽光」
刀が抜け、光が走る。
晴天に蓄えられた魔力が獄炎の渦を切り裂き、世界の赤を晴らすように一直線の銀光を描いた。
イグラード殿の鎧が裂け、血が滲む。
殺す為の太刀ではない。
だが、確かに届いた。
「くっ……!」
イグラード殿は後退し、獄炎の出力を収束させる。
「イグラード殿。これは殺意の一太刀ではござらん。貴殿の胸に渦巻く暗雲――それを払うための一閃です」
イグラード殿はしばらく拙者を睨みつけ……やがて静かに背を向けた。
「……一時撤退だ」
炎をまとい、軍勢とともに消えていく背中が揺れて見えた。
◇ ◇ ◇
戦場に、風が吹いた。
焦げついた空気に、わずかに冷たい澄んだ匂いが戻ってくる。
魂共鳴を解くと、シグレが刀を納めて俺の肩へ手を置いた。
「……クロム殿。大丈夫ですか」
「ああ。シグレこそ」
「拙者は大丈夫です。……むしろ、心が軽くなりました」
胸の奥には、シグレの長い痛みがまだ残っていた。
だがその痛みは、不思議と俺の心をも整えていた。
「あんな……父上を見るのは初めてだ」
「ええ。あの御方は、まだ完全に家族を捨てたわけではない」
その一言に胸が熱くなる。
父は俺を捨てた。そう信じてきた。
だが――ほんのわずかにでも揺らぎがあるのなら、いつか、向き合える日が来るのだろうか。
戦いはまだ終わらない、けれど、ほんのわずかでも希望があるなら。
「……父上。いつか、話せる日が来るといいんだけどな」
空を見上げる。
硝煙と焦げ跡だけが漂う、暗い空。
だが――雲の切れ間から、かすかな光が差していた。




