第63話 領主として、ひとりの男として
黒い光が消え、視界がゆっくりと地上へ戻っていった。
魂共鳴がほどけていく感覚は、まるで深い水底から浮上する時のように重く、静かで、そして――寂しい。
リヴの奥にあった温度が、魔力の流れとともに遠ざかっていく。
戦いの熱が抜けていくにつれ、胸の奥が妙に冷えた。
地面に膝をつく。鼓動が乱れ、喉の奥で息が震える。
体はまだ戦いの余韻に支配されている。
「……クロム様」
振り返ったリヴの腕には、ぐったりとしたサリアが抱きかかえられていた。
その呼吸は微かで、胸元が細かく上下しているだけだ。
額には汗と土がつき、頬には――乾ききらない涙の跡。
心臓が締め付けられた。
なぜ泣いたのか。
何を思って、ここまで来たのか。
そのすべてが胸に刺さる。
「……サリアを、こっちに」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
リヴは静かにうなずき、サリアをそっと俺の腕へ預ける。
軽い。
気絶して力の抜けた体は、こんなにも細いのかと思うほど軽かった。
細い身体が俺の胸に触れた瞬間、忘れたはずの日々が、重く沈んだ泥のように押し寄せてきた。
その瞬間、忘れていたはずの記憶が泥のように溢れ出す。
――初めて顔を合わせた日。
ぎこちない挨拶。形式ばった言葉以外、何も話せなかった。
――婚約者として並んで歩いた日。
互いに距離の詰め方が分からず、必要最低限の言葉しか交わせなかった。
――式典の時。
周囲の目ばかりが重くのしかかり、俺はただ横に立つだけだった。
彼女は常に凛としていて、強く見えた。
近づけば壊れてしまうような、遠い存在だった。
――それでも。
俺が処刑されかけたあの日だけは、彼女は最後まで目を逸らさなかった。
その意味を、俺は見逃していた。
「クロム様……サリアは、あなたをずっと――」
「わかってる」
リヴの言葉を、短く、だが噛みしめるように遮った。
魂共鳴で共有した想いは、俺の胸にも深く食い込んでいる。
サリア。お前はずっと、こんなにも――
拳が震える。
遅すぎる。
どれだけすれ違えば、気づくことができたのだろう。
だが今は、立ち止まっている暇はない。
俺はサリアを抱えたまま立ち上がり、周囲に残った彼女の部下たちへ視線を送った。
槍を構えてこちらを睨む女騎士たち。
主を奪われた怒りと、不安と、敗北の痛み。
それでも彼女らの瞳は、サリアを案じて揺れている。
「殺してはいない。死なせる気もない。……俺が悪いように扱うことは絶対にしない。約束する」
敵としてではなく、同じ一人の人間として告げた言葉だった。
沈黙が落ちる。
やがて、サリアの侍女だった女性が槍を地面に突き立て、深く頭を下げた。
「……感謝いたします、クロム殿。サリア様を……どうか……」
「預かるだけだ。……今は退け」
その一言で、緊張が解けたように彼女らは武器を下ろし、静かに撤退していく。
戦場に残されたのは、風と砂、そして俺たちだけだった。
馬に乗り、サリアを抱いたままアストレイへ向かう。
腕の中の体温が、妙に心をかき乱した。
リヴが並走し、時折心配そうにこちらを覗く。
「クロム様……」
「言わなくてもいい。俺も……感じていた」
サリアの想いも、リヴの想いも、繋がりの中で全て触れてしまった。
もう逃げられないし、逃げるつもりもない。
「……俺は、何も分かっていなかった。あいつが、どれほど……俺を……」
言葉が途切れ、呼吸が揺れた。
自分でも驚くほど弱い声だった。
リヴがそっと優しく微笑む。
「大丈夫です。あなたに届いた。それだけで、あの人はきっと報われます」
その言葉が、胸にしみた。
◇ ◆ ◇
アストレイへ戻ると、皆が息を飲んだ表情を向けてきた。
「ク、クロムさん、お怪我は……!? そ、そのお方は……!」
真っ先に駆け寄ってきたのはフリシアだった。
その後ろからハードン、そしてネクレアたちも押し寄せてくる。
「大丈夫だ。俺のことより、サリアを頼む」
サリアを寝台へ運び、治療班が総出で処置を施す。
診断は、魔力枯渇と全身の疲労による気絶。
命に関わるものではないと告げられ、全身から力が抜けた。
夜が深まり、皆が寝静まっても、俺はサリアの傍にいた。
静かに眠る横顔。
昼間の激しい戦いが嘘のように安らかで、胸が痛んだ。
「……お前、本当に馬鹿だな」
その言葉は俺自身への呟きでもあった。
◇ ◆ ◇
夜が白む頃、部屋の扉が勢いよく開いた。
「クロムさん! 報告です!」
ラピが駆け込んでくる。
顔色は蒼白だった。
「ヴァルメイア軍が……アストレイ西に布陣! 先頭はヴァルネスト領の旗印です!」
心臓が跳ねた。
ついに来た。
避けられぬ運命が、門前にまで迫っている。
会議室へ入り、主要メンバーが揃う。
俺が席につくなり、ハードンが前に出た。
「クロム、今回ばかりは俺たちも行くぞ。ここで見てるなんてできない」
「気持ちは分かる。だが――」
俺は全員の顔を見渡し、静かに言った。
「この戦いの結末は分からない。……俺が死ぬこともあり得る。いざという時のために、アストレイを頼む」
「馬鹿言うんじゃない!」
机が鳴り、ハードンの怒声が響く。
「そんな結末、絶対に認めねぇからな!」
フリシアも涙をこらえながら言葉を続けた。
「クロムさんがいないアストレイなんて……考えられません……」
その想いが、胸に刺さる。
だが領主としての責任もある。
「念のためだ。……俺は領主として言ってる」
沈黙が落ち、やがて皆がうなずいた。
それでも、誰一人として俺の死を認めてはいなかった。
「もちろん無事に戻ってくるさ。ハードンにはギルドマスターもしてもらわないといけないしな」
「お、おい……! その話はなんだ! 初めて聞いたぞ!」
「そうだっけ? まぁその話も含めて帰ってからにしよう。頼んだぞ」
言葉を濁して微笑むと、皆に背を向け、扉へ向かった。
◇ ◆ ◇
アストレイの西方、ヴァルネスト軍が整然と並び、槍と盾の壁が地平線まで続いている。
その中央――父、イグラードが馬上から俺を見下ろしていた。
「……クロム!」
その声は、燃え盛る炎が地を這うように低く、重く響いた。
「禁忌の汚名を雪ぐ唯一の道だ。大人しく投降しろ。そうすれば、アストレイの民の命だけは助けてやる」
まるで俺をまだ子どものように扱う声音。
だが、俺はもう違う。
前へ進み、真っ直ぐに父を見返す。
「父上。俺はアストレイの領主だ。……この土地を、俺は捨てない」
父の顔が歪む。
「愚か者が!」
軍勢がざわつき、その空気を裂くように別の声が横から飛ぶ。
「お前のせいで、俺はサリアと結婚できないんだよ!」
ジーノだった。
嫉妬と焦りが混ざった顔で、俺を睨みつける。
「おとなしく死ねよ。お前がいなければ全部うまくいったんだ!」
俺は目を閉じ、短く息を吐いた。
もし俺が死ねば、サリアは幸せになるのか。
――その答えは、もう知っている。
ゆっくりと剣に手をかけた。
その動きに反応し、ネクレアたちが俺の前へ立つ。
「クロム様に手を出すのなら……容赦しません」
「クロム殿の敵は、全て斬る」
リヴが拳を握り、黒い魔力が滲む。
シグレが刀を抜く。
ネクレアたちが魔力を立ち上らせる。
もう引き返す道はない。
父が剣を掲げた。
「全軍――構え!」
その瞬間、風が止まり、戦場の空気が張り詰めた。
俺は仲間たちを振り返り、静かに言う。
「行くぞ。アストレイを守るために!」
魔力が渦を巻き、全員の視線が前へ向けられる。
そして――
「――討てぇッ!!」
父の怒号が大地を震わせ、ヴァルネスト一族の因縁がついに幕を開けた。
第八章はここで完結です。
第八章では始まってしまった故郷ヴァルメイアとの戦争。
そして久しぶりに登場のサリアにイグラード。
この戦いの結末の果て、どのようになるのか楽しみにして頂けたら幸いです。
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