第61話 槍の誓い、拳の愛
風が、音を失ったように沈んでいた。
西の平原は、陽光が乾いた大地を照り返し、空気は張りつめ、わずかな砂の揺れすら、戦の前触れとして肌を刺す。
その中央で、サリアの槍先が、俺の胸元をまっすぐに射抜いていた。
槍の穂先から伝わる冷気は、かつて槍聖を授かった時のそれよりもはるかに鋭く、迷いの欠片すらなかった。
「私ひとりで決着をつけます」
その宣言に、背後から駆け寄った女騎士が声を上げた。
「サリア様! 前へ出すぎです! ここは我々が――」
「いけません」
サリアは振り向かない。その声音は冷たく、氷のように静かだった。
「これは……私の問題です」
「しかし――!」
「私はクロムの許嫁。その不始末は、私自身の手で清算します」
許嫁。
その一言で、胸の奥に押し込めていた記憶が容赦なくかき回される。
俺が領地を捨て、すべてを断ち切ったあの日。
サリアは――あの場に残された彼女は、どれほどの思いで俺を見送ったのか。
女騎士は悔しげに歯を噛む。
「……サリア様」
「皆は下がりなさい。これは命令です」
短い沈黙のあと、部下たちは渋々と後退していった。
サリアは、ただひとり前へと進み出る。
その瞬間、風を裂く影が俺の前へ踊り出た。
リヴだ。栗色の髪が陽光を弾き、俺に落とす影が静かに揺れた。
「クロム様は、私の旦那様です」
澄んだ、凛とした声が大地へ響く。
「妻として……お相手いたします」
その後ろ姿は、細身で華奢なのに、なぜだか巨大な壁のように俺を守っていた。
サリアの瞳がわずかに揺れる。
しかしすぐに、その色は凍りついた。
「……リヴ。あなたが相手をするのですか」
「はい。クロム様に槍を向けるなら、誰であろうと」
リヴは振り返らない。
「クロム様。少しのあいだ……私にお任せください」
その言葉の向こうで、サリアが槍を握り直した。
「あなたは、その命を賭けてまで……クロムを選んだのですか?」
「もちろんです。誰よりも、大切なお方」
「ならば」
サリアの足が砂を踏みしめる音が聞こえた。
「その想い――槍で確かめさせてもらう」
その言葉とともに、女同士の戦いが始まった。
風が破れた。
サリアの踏み込みは、矢を放つよりも速かった。
たった一歩。
されど、その一歩で大地が悲鳴を上げる。
槍先がリヴのこめかみを狙い、一直線に走る。
寸分の狂いもない軌道。本物の殺気。
だが――リヴはすでに動いていた。
槍の軌跡をまるで見切っているかの様に身体を沈め、滑るように右へ抜ける。
髪先が切り裂かれ、そこを風が絶叫のように走り抜けた。
間合いへ飛び込むと、リヴの肘がサリアの脇腹を狙って閃く。
最短距離、最速の角度。
しかしサリアは、槍柄を水平に払って受け流した。
その一撃は鉄塊のように重い。
空気が裂け、衝撃が俺の足元まで震わせた。
互角――いや、違う。
押しているのはサリアだ。
リヴの拳が、蹴りが、影のように繰り出される。
そのすべてを、サリアは半歩だけ先んじて受け、弾き、返す。
速さが違う、密度が違う、間がない。
砂が舞い、大地が削れる。
強い。
あの日、任命式で立ちはだかった時よりも――遥かに。
あの時から積み重ねた月日が、血肉として槍に宿っている。
リヴも退かない。
影のようにしなやかに舞い、死角を突き続ける。
回し蹴り、肘打ち、突き、蹴り。
連撃が一点へと収束する。
だが――サリアはすべてを見切っていた。
槍の柄が稲妻のように巡り、リヴの攻撃線を片端から折り畳んでいく。
攻めながら守り、守りながら反撃する。
そこに境界はない。
ただひとつの流れとして成立している。
リヴの拳が槍の寝かせた柄に阻まれた次の瞬間、サリアが踏み込む。
石突きが、心臓を狙って突き上がる。
「リヴ!」
叫んだ瞬間、金属を叩くような音が鳴り、リヴが地面を転がった。
砂煙が舞い、腕が震えている。
追撃の槍が一直線に走る――
このままでは――
胸が焼けるようにざわついた。意識が勝手に叫んでいた。
「リヴ、魂共鳴だ!」
衝動だった。
思考より先に心が動いた。
リヴが一瞬だけ振り返る。
その瞳には、揺るぎない信頼があった。
「……はい、クロム様」
俺は、深く息を吸い、すべての意識を一点へ沈めた。
鼓動がひとつに束ねられ、意識がリヴへと伸び、魂の輝きが胸に灯る。
視界が白く弾ける――
次の瞬間、意識が深い水へ沈むように切り替わった。
重なり、交わり、魂がひとつに融け合う。
◆ ◆ ◆
クロム様の意識が流れ込んできた瞬間、肺の奥へ熱が灯った。
視界が澄み、世界の線が明確に見える。
サリアの槍が迫る。
突きでも薙ぎでもない、中間の軌道――こちらの反応を試す一撃。
その意図が、呼吸の揺れと足の沈みから読み取れた。
私は地を蹴り、刃先の外側へ滑り込む。
槍柄が折れるほどの勢いで横薙ぎに振りかえされるが、身を沈め、肩上をかすめていく風だけが触れた。
間合いに入り、拳を連ねる。
サリアは槍を縮めるように扱い、刃と柄で私の拳撃を受け止めるが、衝撃で彼女の足元がわずかに沈む。
次の瞬間には逆に大上段から槍が落ちてくる。
私は前へ潜り、サリアの懐へ肩を押し込む。
サリアの息が詰まる音がした。
そこからさらに二合。
打ち込み、弾かれ、踏み込んで、躱し、体勢を変える――
そのたびに、サリアの槍筋がわずかに鈍くなる。
好機。
そう思い、私は回転しながら背後へ拳を叩き込んだ。
サリアの肩がわずかに揺れた。
先ほどまでは届きさえしなかった一撃。
サリアは以前とは違い、格段に強くなっている。
それでも、クロム様と一つになった今の私には届かない。
こちらの優勢――そう思った、その刹那。
サリアの唇が、かすかに震えた。
「……あなたがいなければ、クロムは私のものだった」
クロム様の心が小さく揺れる。
その動揺がそのまま胸へ流れ込んでくる。
私は深く息を吸った。
「……あの時、言ったでしょう。クロム様は、私を選んだと」
サリアの瞳が揺れ、色が濁る。
「……そうね。あなたはそう言った」
槍がしなる。
その一撃は先ほどより重く、鋭い。
「でも……許嫁は私だった。それを、あなたは分かっていながら……!」
クロム様の痛みが、私の胸に刺さる。
繋がっているから――彼女の言葉がどれほど刺さるか分かってしまう。
それでも、私は言った。
「それでも、クロム様は私を選んだのです」
サリアの顔がゆがむ。怒りとも、哀しみともつかない表情。
そして――
「それでも私はクロムを……愛していた」




