第59話 戦争の影
ヴァルデン軍を退けてから、一週間が経った。
戦場の砂は風にさらわれ、血と熱の痕跡は日に日に薄れていく。
だが、胸の奥にこびりついたざらつきだけは、容易に剝がれ落ちることがなかった。
むしろ――ここからが本番だ。
誰よりも俺自身が、そう理解していた。
アストレイ領主館の会議室。広げた地図の上には、リヴたちがまとめた巡回報告や周辺偵察の記録が山のように積まれている。
状況は刻一刻と動いている。
それなのに、胸の奥の不安は形を取らず、ただ重さだけを増していく。
そんな時だった。
コン、コン、と扉が叩かれた。
「クロム様、ラセル様がお越しになっています。よろしいでしょうか」
リヴの声はいつも通り落ち着いている。
けれど、その奥にかすかに緊張が滲んでいるのが分かった。
「……入ってくれ」
扉が静かに開く。
リヴが先に入り、続いてラセルが姿を現した。
彼の歩みに迷いはなく、しかしその表情は、静かな湖面に沈んだ鉛のように重かった。
今の彼は商人の仮面を外し、領主としての顔をこちらに向けている。
「……何かあったんだな」
「ええ。できれば、何事もなかったと報告したかったのですが……今回も、そうはいきません」
ラセルは深く腰を下ろし、指先で卓を軽く叩く。
ほんのわずかな間。
その一瞬の沈黙が、すでにただ事ではないことを示していた。
「世間では、アストレイが『ネクロスと協力している』という噂が広まりつつあります」
来たか――
胸の奥で、冷たい感触が広がる。
「協力だと? 俺たちはヴァルデンの北側にあるネクロスの領域を取り戻しただけだ」
「ですが、世論はそう受け取りません。この前の戦いで、アストレイがネクロスの領域を経由してヴァルデンの背後を突いたと、既成事実のように語られています」
ラセルはわずかに肩をすくめた。
「本来なら、北はネクロスの支配圏。そこから奇襲が起きたと喧伝されれば――人々は必ずこう思うでしょう。『アストレイはネクロスと手を組み、教会に逆らおうとしている』と」
「……俺たちが、教会に刃を向けるためにネクロスと協力していると?」
「まさにその通りです」
そんな意図など、一片たりともなかった。
けれど、噂というものは意図とは無関係に膨れ上がる。
胸の奥に鈍い痛みが走る。
「教会が裏から流しているんだな?」
「はい。ヴァルメイアと教会はすでに連携している様子です。悪しき隣人が増えた、とでも言いたいのでしょう」
ラセルは唇をわずかに引き、怒りを隠そうともしなかった。
「こちらには攻める気などない。争うつもりもない。それを示したつもりだが……」
「その誠意が通じるなら、そもそも彼らは噂を流す必要などありません」
冷静な言葉なのに、不思議と熱が宿っていた。
「ヴァルデン軍が敗走した。それは彼らにとって大きな屈辱です。粛清という形で済ませるつもりだったでしょうが――アストレイが想定以上の結果を出したため、状況は一変したのです」
「想定以上……か」
「ええ。クロム様が想像する以上に、教会はアストレイを危険視しています」
ラセルの声の低さが、事態の深刻さを物語っていた。
「ラセル。教会は……次にどんな手を?」
しばし沈黙が落ちた。
ラセルは一度だけ、深く息をついた。
あのラセルがためらう――その事実だけで、答えの重さが十分に伝わる。
「……聖大陸オルタリアから、次期聖女候補ノクティアが派遣されるという情報が入っています」
「聖女候補……だと?」
思わず、言葉がもれた。
聖女候補という存在の特異さは知っている。
教会の象徴に近い存在であり、簡単に動かせる駒ではない。
そんな存在を他国へ送り込むなど、普通はあり得ない。
「アストレイが異端に傾いているという名目での派遣です。彼女が来るということは、疑いではなく――」
「断罪の前触れか」
「ええ。アストレイの自治を奪うための布石。あなたを牽制する明確な意思です」
胸の内が、冷たい石のように沈んでいく。
「さらにギルディア、そしてバルドリアにも通達が出ています。『協力は求めない。しかし、邪魔だけはするな』と」
「邪魔……か。つまり――黙って見ていろ、と」
「ええ。実質的には、アストレイを孤立させるための圧力です」
ラセルは背もたれに寄りかかり、視線をわずかに伏せた。
「クロム様……ヴァルメイアも教会も、もう後には引く気がありません。これは粛清ではなく――」
言葉が落ちる。
「戦争です」
部屋の空気が変わった。灯火の揺れさえ、どこか冷たく感じられる。
戦争――
その言葉が、胸の奥で凍り付いたように重く響いた。
俺はアストレイを守りたいだけだ。
奪うつもりも、争うつもりもない。
それなのに。
守るための力が、争いを呼んでしまうのか。
「……戦いたくない」
気づけば口にしていた。
否定でも言い訳でもない。それは、ただの素直な気持ちだった。
ラセルは目を細め、穏やかに言った。
「知っていますとも。クロム様が争いを望まぬ方だということを。だからこそ……私もあなたに協力しようと思えたのです」
慰めではなかった。
その声音は重く、確かな信頼を含んでいた。
「しかし――」
ラセルが続ける声は、冷静で、残酷な現実を突きつけてくる。
「争いを望まぬ者ほど、争いに巻き込まれやすいものです。まして権力者が相手なら、なおのこと」
胸の奥で何かが軋んだ。
正しさだけでは届かない。
誠実さだけでは救えない。
そんなことは分かっていたつもりだった。
だが――覚悟が甘かったのだ。
「クロム様。あなたはどうされるおつもりですか?」
静かな問いだった。なのに、その問いは刃のように鋭かった。
どうする――
戦うのか。退くのか。屈するのか。守り抜くのか。
アストレイの未来。仲間たち。守りたいもの。捨てられないもの。
そのすべてを胸に抱えたまま、俺は地図を見下ろした。
ヴァルメイアと教会の旗印が描かれた西。
そして、奪い返したネクロスの領域。
どちらからも、影のような圧力が迫っている気がした。
戦いたくない。
だが、無抵抗では守れない。
ゆっくりと息を整え、ラセルに向き直る。
「……俺は、まだ答えを出せない。だが――」
声は震えていなかった。目も逸らさなかった。
「アストレイの未来だけは、誰にも踏みにじらせない。俺は……そのためにここにいる」
ラセルは静かに目を細めた。
「それもいいでしょう。ですが……時は、まもなく動きます」
立ち上がるラセルの背に、灯火の影が揺れる。
「クロム様。覚悟を。彼らはもう、話し合いをするつもりはございません」
扉が閉まった瞬間、室内は静寂に包まれた。
静かすぎるほどの静寂。
その裏で、胸の奥では雷のような音が渦巻いていた。
――戦争。
その言葉は、胸の奥に焼き付くように残り続けた。




