第56話 戦火の予兆
教会の使者が去ってから、まだ数日しか経っていない。
だが、あの日から領内の空気はわずかに張りつめたままだった。
朝の散歩に出ると、見回りの兵たちは以前より一段と真剣な顔つきで立ち、子どもたちはいつも通り遊んでいるものの、大人たちの視線はどこか遠い。
あの神官の断罪の声は、耳にこびりつくほど強烈だった。
あの場にいた者たちにとってはなおさらだろう。
不安を広げるわけにはいかない。
だから俺は、そのためにできる限り淡々と日常を続け、必要なところには手を入れ、備えを整えていた。
――そうしなければ、きっと誰かが揺らぐ。
俺が揺らげば、もっと揺らぐ。
だからこそ、心の中のざらつきを押し込み、いつも通りを貫いた。
◇ ◆ ◇
教会の宣戦布告とも取れる言葉を受け、俺たちは初動の対策会議を重ねている。
北のアルトレアと東のアステリアから三つ子を通じてすでに主戦力を呼び戻した。
ネクロスもいつ動き出すか分からないため、アルトレアのガレオンはさすがに待機させたが、アステリアからはコーハやドレイナなど、有事に強い者たちを呼び寄せていた。
村に滞在していた冒険者にも協力を持ちかけたが、彼らにとってアストレイの事情は外部の問題だ。
強制はできない。
ギルドがあればギルドの依頼として正式な防衛支援を出せたかもしれないが、ギルド設立が間に合わなかったのが悔やまれる。
「――とりあえず、向こうも最初から全力で来るとは思えない。だからこそ、最初の侵攻にこちらの戦い方をしっかり叩き込むべきだと考えている。アストレイの守りは……ヴァリアさんにかかっている」
椅子に座るヴァリアさんは、首を傾げもせず静かにうなずいた。
その仕草は、言葉以上に確かな信頼を感じさせる。
無理に大仰な返事をしない。
ただ必要なことだけを、真正面から受け止める。
ネクレアとなった彼女の結界は、領全域に及ぶ。
アストレイはもちろん、アルトレアにもアステリアにも届くというのだから、その存在はもはや一つの防衛線だ。
「クロム殿。教会は……本当に来ると思いますか?」
ヴァリアさんの静かな声が、空気の冷気を揺らす。
「ああ。来るだろうな」
答えた瞬間、胸の奥で何かがひどく冷たく沈んだ。
口では覚悟していたつもりでも、どこかで『まだ来ないかもしれない』という甘えが残っていたのだろう。
けれど口にしてしまった以上、その甘えは消える。
「来るからこそ備える。……いざという時は、手筈通りに頼む」
ヴァリアさんはわずかに目を細めた。
ほんの一瞬、表情に柔らかい光が差したように見えた。
「承知しました。私はクロム殿の命があれば、それに従うだけです」
その言葉は、刀の刃よりもまっすぐで、炎よりも熱い。
胸の奥で、張り詰めていた何かが静かにほどけていく。
――そのとき、ノックの音が響いた。
「クロム様! ラセル様がお見えです!」
ラピの声だ。リヴと目を合わせると、彼女も小さくうなずいた。
「……行こう」
◇ ◆ ◇
応接室に入ると、ラセルは椅子に腰掛けていた。
いつもの気さくな笑みを浮かべているが、深いところに沈んだ緊張は隠せていない。
「クロム様。本日は急ぎの報せがありましてね」
「まさか……もう教会が攻め込んでくるのか?」
「動いたと言えば動きましたが……直接ではありません。ギルディア国に対して、です」
ラセルの眉間に刻まれた皺は、普段より深い。ただ事ではない。
「どういうことだ?」
「教会がギルディアに書状を送ってきましてね。内容は……『アストレイの罪深きネクロマンサーに天誅を下すべく、ギルディアは協力せよ』と」
胃がひりつくように痛んだ。
やはり来たか。
神官の怒声は、前触れでしかなかったということだ。
「当然、はじき返しましたよ」
ラセルは肩をすくめ、苦笑した。
「ギルディアは商業国です。教会の都合で戦をする義理はありませんし、クロム様は我々にとって大切な取引相手です。商人が自ら利益を削るはずがありませんからね」
冗談めかしているが、その裏には確かな意思がある。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「助かる。本当に……ありがたい」
「いえいえ、利害の一致ですよ」
ラセルは淡く笑った。
だが、すぐに表情が曇る。
「ただ……ギルディアだけではありません。実は――」
そのとき、再び扉が叩かれた。
「クロム様、来客です。ガリア領主マサクリフ殿が……」
マサクリフ? 嫌な予感が胸を走る。
「……入ってもらえ」
扉が勢いよく開き、豪快な笑い声が部屋に響いた。
「ハッハッハッ! いやあクロム殿、闘技場以来だな!」
酒樽を担いできてもおかしくない勢いだ。
だが、その瞳の奥に浮かんだ影だけは隠しきれていない。
「酒の買い付けで来たのだがな……王から『ついでに伝えてこい』と言われてな」
マサクリフは周囲を見回し、声を低くする。
「実はバルドリアにも――来たのだ。教会からの協力要請がな」
胸がざわつく。
二国同時にとなると、偶然では済まされない。
「『アストレイへ天誅を下すべく協力せよ』だとよ。馬鹿言え」
マサクリフは鼻で笑い、手を振った。
「もちろん我らが王は即座に突っぱねてやった。『我々は教会の操り人形ではない』とな。ハハハ!」
その笑いは豪快だが、重みがあった。
笑い飛ばしているようで、実際には怒りの熱が宿っている。
「安心しろ。バルドリアは動かん。俺のガリア領も教会には与しない。アストレイの酒を売ってくれる限りはな!」
どこまでもストレートで、どこまでも豪胆だ。
その一言が、奇妙なほど心に響いた。
「……ありがとう。心強い」
「困ったときはお互い様だ」
マサクリフはそれだけ言い、去っていった。
扉が閉まると、部屋に静寂が落ちる。
ラセルが深く息を吐いた。
「というわけで、クロム様。ギルディアに続き、バルドリアにも同じ要請が来ていた、という次第です。これで……はっきりしましたね。教会はアストレイ包囲を狙っています」
「……ああ」
重い息が漏れた。
教会は本気だ。
ネクロマンシーを憎むのは建前でも脅しでもなく、存在を根本から否定する意思だ。
彼らにとって俺は、世界から消すべき穢れ。
あの日、神官が放った叫び声が胸に蘇る。
――神の裁きは必ず下る!
あれは宣告だ。
脅しではない。
リヴが静かに俺を見ていた。
「クロム様。怖いですか?」
「怖くないといえば嘘になるな」
正直に答えた。
だが、その次の言葉は迷わなかった。
「それでも……俺には守るべき場所がある。アストレイを明け渡すつもりも、教会の思い通りになる気もない」
リヴはわずかに微笑んだ。
「それでこそ、私が仕える主です」
その言葉が、胸の奥の一番深いところに沈んだ。
ラセルもやれやれと言いながら、温かい目でこちらを見る。
部屋の窓から差し込む光は柔らかく、外にはいつも通りの日常が流れている。
だがその奥には、確かに嵐が迫っている。
教会という巨大な影が、世界を揺らし始めている。
そしてその中心に――俺がいる。
その事実を、改めて、痛いほど思い知らされた一日だった。




