第55話 静寂を破る断罪
その日の朝はいつもより静かだった。
風が館の外壁に触れる音すら鮮明に聞こえるほどの静けさ。
空気は澄み切っていて、季節が移ろう寸前の気配が肌の上を滑り落ちていく。
胸の奥で何かがかすかに鳴った。
落ち着かない。
何かが起きるという感覚。
俺は中庭をゆっくりと歩いた。
湿った石畳には昨夜の霧の名残が淡く光を宿している。
朝日を浴びて揺らめくその光景は、一瞬だけ世界が静止したように見えた。
「……嫌に静かだな」
独りごちたその時――領主館の前で、軽快な馬蹄の音が響いた。
出向くと、見慣れた外套が揺れる。
商業国ギルディアのマルキオン領主、ラセル。
柔らかな商人の笑みは相変わらずだったが、近づいてくる彼の目の奥には隠しようのない緊張があった。
彼がこんな時間帯に来るのは珍しい。
「これはクロム様。朝早くから申し訳ない。少々、急ぎの話でしてね」
「……こんな朝早くにわざわざ来たということは、ただ事じゃないんだろう?」
俺の問いに、ラセルは珍しく表情を曇らせた。
商談でどれほど無茶を言われても眉一つ動かさない男が、ここまで顔を強ばらせる。
その事実だけで、ただならぬ気配が濃くなる。
「中で聞こう。……リヴ、案内を頼む」
傍で待機していたリヴが、頭を下げた。
今日はその動きにかすかな緊張が滲んでいた。
◇ ◆ ◇
応接室の窓から差し込む光を受けて、ラセルの外套がゆれる。
椅子に腰を下ろした彼は、息を一つ長く吐いた後で、いつものような商談の枕詞もなく本題を告げた。
「……聖大陸オルタリアで、次期聖女争いが本格的に動き始めました」
その言葉が落ちた瞬間、空気がひやりと冷たくなる。
「次期聖女争い……? そんなに今の聖女の調子が悪いのか?」
「ええ――現在の聖女殿は、すでに表向きにも隠しきれぬほど容体が悪化しているようです」
「……そうか」
胸の奥に重い石が沈むような感覚が走る。
聖大陸オルタリア。
創造神オルタリウスの名を掲げ、教会の総本山を抱える宗教国家。
その聖女が崩れれば、信仰という巨大な柱が揺らぐ。
このヒュマリア大陸にもその波紋が広がるのは避けられない。
ラセルは指先を組み、さらに続けた。
「容体悪化に伴い、候補者たちの動きも激化しているようです。派閥争いも表面化し、教会内でも混乱が起きている。そして……その影響は、クロム様のところにも及ぶでしょう」
「俺のところに?」
自分でも驚くほど低い声だった。
ラセルは深刻な表情でうなずく。
「教会が、何か仕掛けてくるかもしれない。特に――あなたのスキルに関して」
ネクロマンシー。神に背く存在として教会に憎悪されるスキル。
死者と歩くこの力は、彼らの教義では冒涜だ。
「……やっぱり、避けられないか」
「避けられませんね。教会は自分たちに都合の良い、聖女候補を後押しするため、必ず外敵を作り上げます。神敵を討つことで支持を得る。信徒は歓喜し、候補者の威光は増す……教会が古くから行ってきた手法です」
「その神敵に、俺を据えようってわけか」
「はい。クロム様はこのヒュマリア大陸でも無視できない存在となりつつあります。そのうえ死者を従える。教義上もっとも忌むべき象徴として、利用価値は高い」
その時、リヴが堪えきれないように声を出した。
「クロム様を……神敵扱いだなんて……やはり許せませんね、教会は……っ」
その手が震えている。
怒りによる震えだ。
リヴにとって教会は、俺を追い詰めた存在だ。
その影が再び迫っている。
俺はリヴの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。ここは俺たちの領だ。簡単には踏み込ませない」
リヴはぎゅっと俺の袖を握りしめ、小さく頷く。
その様子に胸が締め付けられる。
だがラセルは、さらに別の事実を告げた。
「……報告はもう一つあります。物流の流れから判断して、西のヴァルデン領が近頃、戦の準備をしているようなのです」
「ヴァルデン領……か」
以前、アストレイに降伏勧告をし攻め込んできたが、撤退に追い込んだ。
それからしばらくは大きな動きがなかったが――ここにきて動くということは。
「再びアストレイに攻め込んでくる、ということか」
「可能性は高いです。ヴァルメイア国は信仰深い者が多い。教会が『神敵がいる』と言えば、迷わず槍を取るでしょう」
「面倒な国だな」
「ええ。だからこそ、急いで忠告に来たのです。クロム様の身に、確実に危険が迫っています」
「忠告、感謝する」
そう言った直後――
「クロム様ぁっ! 大変ですっ!!」
ラピの慌ただしい声が廊下から響いた。ラセルと目を合わせた瞬間、互いに理解した。
「……来ましたね」
「いやに手際がいい。嫌な予感ほど当たるとはな」
立ち上がり、俺たちは西門へ向かった。
◇ ◆ ◇
西門前には、ヴァルデンの旗を掲げた使者と十数名の兵士が整列していた。
その中央に――嫌でも目に入る白い法衣が立つ。
教会の神官だ。
俺を見ると、神官は憎悪を隠しもせず目を細め、大声で叫んだ。
「――やっと見つけたぞ、罪人クロム!」
周囲の兵たちがざわりと動く。
リヴが小さく息を呑むのが隣で聞こえた。
神官は前に出て、宣告するように声を張る。
「貴様のようなネクロマンサーを神はお許しにならない! 直ちに教会へ出頭せよ! 神の前で罪を裁かれるがいい!」
俺を穢れを見るように睨みつけてくる。ヴァルデン兵たちもその視線に釣られて敵意を向けてくる。
「……言いたい事は、それだけか?」
俺の声は自然と低く冷たくなった。
怒鳴るでもなく、威嚇でもなく、ただ距離を置くための声。
「罪人が……その態度が罪なのだ! 死者を操り、魂の安寧を踏みにじる外道め! 神の御心を――!」
「帰れ」
短く告げた瞬間、神官の顔が歪んだ。
「な、何だと……?」
「帰れと言った。出頭などする気はない。俺にはアストレイの領民がいる。離れる理由も、義理もない」
「貴様……! 神に背くというのか!」
神官の叫びは半ば悲鳴に近かった。
俺は黙って見つめ返す。
その沈黙が、神官を逆上させる。
「これは神の意志だ! 従わぬのなら――天罰を受けると知れ!」
周囲がざわめく。
リヴが俺の腕を掴む気配がした。
「天罰か」
「そうだ! 貴様の罪は――!」
「なら好きにしろ。ただし――アストレイの地に足を踏み入れようとするなら、そのときは俺たちが、お前たちを止める」
まっすぐ告げると、神官の唇がわなわなと震えた。
「後悔するぞ……罪人クロム! 神の裁きは必ず下る!」
叫びを残し、使者たちは砂煙をあげて去っていった。
静寂が戻る。
けれど、その沈黙は朝の静けさとは違う。
嵐の前触れの、重苦しい空気だ。
ラセルが深く息をついた。
「……やはり来ましたね。しかも想像以上に強硬です」
「教会は本気だな。次期聖女争い……そこまで切迫しているのか」
「ええ。恐らく、あれは始まりに過ぎません」
リヴが俺の腕をぎゅっと掴んだ。
「クロム様……どうするのですか。もし教会が攻め込んできたら……」
震える手を、俺は優しく包んだ。
「大丈夫だ。守る。何が来ても、アストレイは俺たちの拠り所だ」
リヴの瞳にわずかに光が戻る。
俺は空を仰いだ。
透き通るような青がどこまでも続いている。
だがその向こうには――戦いが確かに迫っている。




