第45話 魂を繋ぐ者
闘技場の中央、リヴの血が飛んだ跡が細い線となって砂に刻まれていた。
その光景を見つめた瞬間、胸の奥で――何かが脈動した。
規則的な鼓動とは違う。
心臓の音ではない。
もっと深い、魂の底で震えるような律動。
リヴが倒れかけたあの瞬間、俺の奥底から湧き上がった黒い奔流。
その残滓が、いまも熱を帯びたまま渦巻き続けている。
……これは何だ。
魔力を呼び出そうとしただけで、指先が勝手に震えた。
周囲の空気がざわめき、砂粒が跳ねるほどの過剰な反応。
俺の中で 何かが――溢れようとしている。
いや違う。
溢れるのではなく、繋がりたいと訴えている。
魔力が、俺ひとりのものではなくなろうとしていた。
――リヴ。
その名を思い浮かべた瞬間だった。
黒い奔流が形を持ったかのように俺の背筋を駆け上がり、頭の中を一気に塗りつぶす。
胸の中心が熱を帯び、視界が白く弾けた。
世界が揺れ、遠のき、沈んでいく。
そして――溶けあった。
立っているのか倒れているのかも分からない。
砂の匂いも風の音も、すべてが混じり、滲み、ほどけていく。
だがひとつだけ、確かな存在があった。
リヴだ。
リヴの呼吸。心の震え。血の流れ。鼓動。想い。
そのすべてが、濁りのない清流のように俺の内側へ流れ込んでくる。
同時に俺の中からも――何かが、彼女へ注ぎ込まれていく。
魔力による援護?
いや違う。もっと原初的、もっと本質的な繋がり。
魂と魂が触れ、混ざり、重なりあう。
共鳴。
その言葉が自然に浮かんだ瞬間、光が弾けた。
俺は確かにリヴを感じ、そして俺自身もそこにいた。
境界がなくなる。
俺とリヴは、ひとつになった。
◆ ◆ ◆
身体が軽い。
まるで何かの鎖が外れたようです。
そしてクロム様が、私の中にいる。
温かく、強く、まっすぐで――揺るぎない。
胸の奥で黒い奔流が脈動し、私の全身を満たしていく。
これは、私だけの力ではない。
クロム様と共にある力。
ならば――負けられない。
「行きます……!」
次の瞬間、 世界が弾けた。
踏み込みの一瞬で、地面が砕ける。
バハドールの巨体が迫る。
覇力が渦巻き、落雷のような重撃が振り下ろされる。
先ほどよりも遅く見える。
いえ――、遅いのではない。
私の身体が、これまでよりも遥かに速い。
横へと飛び、砂煙を散らしながら拳を放つ。
バハドールの腹へ吸い込まれるように直撃する。
手が砕けそうな硬さですが――先ほどとは違い、押し返されません。
「ほう……! まるで別人のようだな!」
覇王が笑う。
重く、嬉しそうに、心から楽しむように。
私はさらに踏み込み、拳を重ねる。
クロム様の魔力が血管を流れるように感じられる。
「まだ行けます……!」
踏み込みのたび地面が割れ、拳のたびに爆ぜる衝撃。
バハドールの腕に受け止められた砂が、横一面に散った。
「面白い! ならば――これを出すしかあるまい!」
バハドール王の背で、一瞬、光が弾けた。
覇王棍。
その巨躯に見合う、鉄塊のような棍が引き抜かれる。
「今のお前になら、これを使うにふさわしい」
覇王棍が唸り、風を裂き、大気を震わせた。
深く息を吸う。胸奥で脈打つクロム様の魔力を感じる。
負けられない。
勝てるかどうかではない。
クロム様と共に作り出した今の私を――証明するために。
「いきます!」
飛び込んだ。
覇王棍が弧を描き、空間を捻じ曲げる勢いで迫る。
避けるが、腕にかすめ、血が舞った。
それでも動きは止められない。
拳を叩き込む。
覇王棍が受け止める。
火花が散る。
殴り続ける。止められても、押されても、軋んでも――止められない。
だってこれは、私とクロム様の拳だ。
「もっと……! まだいけます!」
「来い、メイドよ! その魂、まだ燃やしてみせろ!」
覇王の豪笑が響く。その声に、私も思わず笑った。
拳と棍がぶつかり、爆風が生じる。
視界が揺れる。喉が焼けるほど呼吸が熱い。
――ならば、これで決める。
踏み込む。
足元の砂が円形に弾け飛ぶ。
黒い奔流が腕を駆け上がり、拳が熱を帯びた。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが裂けるように脈打つ。
黒い霧が、どくん、と音を立てて膨張するように広がった。
視界が暗転したかと思うほど、濃密な闇の霧。
その中心で、確かに――何かが形を取り始めた。
背中から、熱が走る。
骨でも肉でもない何かが伸び広がる感覚。
痛みではない。
むしろ、もともとそこにあったものが解き放たれたような――帰還の感触。
黒い霧が弾ける。
――私の背に。
影の翼。
ともすれば炎にも見える黒い奔流が束となり、左右へ大きく広がった。
羽ばたくわけではない。
ただ揺らめくだけで、闘技場の空気が低く唸りをあげる。
観客席から驚愕の息が漏れた。
私の身体が軽い。
いや――軽いのではない。
魂が、今この瞬間だけは身体の枷を超えようとしている。
「これが……今の私の……全部……っ!」
黒い翼が揺らぎ、奔流が拳へと収束する。
踏み込んだ。その瞬間、地面が砕け散るように跳ね上がった。
覇王の胸元へ、渾身の、魂の一撃を叩き込む。
衝突の瞬間、衝撃波が闘技場を揺らし、砂が壁となって舞い上がる。
バハドール王の胸が、大きくたわんだ。
覇王棍が後方へ弾き飛ばされるほどの威力。
「ほう……! 今のは、効いたぞ!」
覇王の声が震えた。
嬉しさと――確かにダメージを受けた実感が混ざった声音。
だが。
「だが――まだ足りん!」
覇王の体勢が崩れるより先に、棍が閃いた。
「――がっ……っ!」
腹に、鋭く重い衝撃。
覇王棍が真正面から突き刺さるように食い込む。
内臓が潰れたかのような痛みで、呼吸が途切れる。
視界が白く跳ねあがった。
私の全力の一撃を受けながら、その直後に返してくる――これが覇王と呼ばれる男ですか。
次の瞬間、身体が宙に放り出されていた。
クロム様の温もりが、ふっと遠のく。
「……クロ……さ……」
その名を呼ぶより早く、暗闇がすべてを飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
気がつくと、俺は膝をついていた。
視界が揺れ、ざわめきが耳に流れ込んでくる。
「クロムさん!? 大丈夫ですか? さっきから呼んでも反応が……!」
「完全に意識を集中させていたようだ。まるで瞑想に入ったかのように」
声が左右から飛ぶ。
だがどうでもよかった。
「リヴ……!」
リヴがリングの上に倒れていた。血に濡れ、動かない。
胸が締めつけられ、息が詰まる。
駆け寄り、魔力を注ぐ。
黒い霧が指先から溢れ、彼女の身体へ流れ込む。
「……リヴ、戻ってこい……!」
喉が震えた。
黒い霧が傷を塞ぎ、肌に色が戻っていく。
胸が微かに上下し始め――
そして――
「……クロム、様……?」
その声を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。
「リヴ! 本当に……良かった……!」
リヴは目を開け、すぐに申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳……ございません……勝てませんでした……」
「構わない。そんなことはどうでもいい。リヴが無事なら、それでいい」
その言葉に、リヴの肩が震えた。ゆっくりと顔を上げ、弱く微笑む。
その時――大きな足音が近づく。
バハドール王が覇王棍を肩に担ぎ、その歩みだけで砂が震えるほどの威圧。
豪快な笑い声が闘技場に響いた。
「良い試合だった! このような戦いは、本当に久しぶりだ!」
声には歓喜だけでなく、久しく忘れていた高揚を確かめる熱があった。
バハドール王は自らの胸元に目を落とし、そこについた打撲痕を指先でなぞった。
「――そして俺をここまで傷つけた者も、実に久しぶりだ!」
誇らしげに、嬉しげに、満足げに言う。
まるで傷そのものが勲章であるかのように。
俺とリヴを交互に見やり、深く息をついた。
「アストレイの地力、確かに見させてもらった。あのハーフエルフはもうお前たちの物だ。そしてバルドリアは――アストレイを独立領として認めよう」
闘技場が爆発したようにどよめいた。
リヴが驚きに息を呑む。
俺は拳を握りしめ、胸が熱くなるのを感じた。
覇王の宣言を聞きながら、リヴの手をそっと握る。
震える指が答えるように、握り返してきた。
その瞬間、戦いの痛みも砂の匂いも歓声も――すべてが遠くに霞んだ。
ただ確信した。
アストレイは――これからさらに強くなれる。
その実感が、胸の奥で静かに燃え続けていた。
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