第44話 覇王とメイド
闘技場の砂は、熱を含んでざらついた匂いを放っていた。生温い風が吹くたび、その砂が小さく舞い上がり、肌に薄膜のようにまとわりつく。
観客席のざわめきが薄まっていく。
まるで全員が、これから起きる光景を息を潜めて待っているかのようだった。
リヴがゆっくりと歩き出る。
ツムギに作ってもらった、黒を基調としたメイド服に似た戦闘服は、彼女の俊敏さを損なわず、動きのたびに裾が緩やかに揺れた。
対するは――武闘国バルドリア王、バハドール。
巨岩のような身体。
近くにいるだけで、圧迫感が皮膚から内側へじわりと染み込んでくる。
視線を向けるだけで胸の奥がざわつくのだから、直接向かい合っているリヴへの圧は想像を絶するものだろう。
兵たちが運び込んだ巨大な布包みが解かれ、鉄と油の濃厚な匂いが広がった。
鉄を固めた塊を両端に持つ両手棍。
凶器というより、暴力そのもの。
バハドールはそれを片腕で軽々と担ぎ上げた。
観客席のどよめきは、歓声というより震えに近い。
「これは俺の武器、覇王棍」
低い地鳴りのような声が闘技場に響く。
「本来であれば、これで相手をする。だが――」
バハドールの視線がリヴを射抜いた。
リヴは肩を回し、拳を握り込む。
瞳には揺るぎのない光。
「私は、素手でいきます」
震えのない声だった。
それだけで胸の奥が熱くなる。
バハドールの口元がわずかに持ち上がる。
「ほう……いい眼だ」
そして、覇王棍を背中の革帯に差し、手を離した。
「そちらが素手でくると言うのなら、俺も素手でいこう」
闘技場が爆ぜるような歓声に包まれた。
侮りでも情けでもない。
ただ一人の戦士が、一人の戦士を正面から楽しむための選択。
リヴの喉から、嬉しさが滲んだ小さな唸りが漏れた。
その音だけで、心が強く揺さぶられる。
始まる――
審判として立つ西領主フォルテスが手を挙げる。
「構え!」
その瞬間、空気が変わった。
バハドールの周囲の空気が震え、揺れ、ひび割れたような錯覚を覚える。
視界が揺らぐ。
まるで彼を中心に、世界が歪んでいく。
観客席から溢れる感情が流れ込んでいくのが見えるようだった。
恐怖。興奮。殺気。狂喜。期待。憧憬。
全てが奔流となって、バハドールへ吸い込まれていく。
筋肉が膨らみ、呼吸が熱を帯び、彼の存在そのものが拡大していくように見えた。
「最終試合――始め!」
フォルテスの声が落ちた瞬間――
バハドールの巨体が、跳んだ。
消えた。
巨体が跳躍したとは思えない速度。
「っ――!」
リヴは反射的に腕を上げる。
その腕に、岩壁を砕くような衝撃が叩きつけられた。
轟音。
砂煙が爆ぜるように巻き上がる。地面が巨大な槌で殴られたように陥没した。
俺の視界が揺れる。
「リヴ!」
リヴの身体が吹き飛ぶ。
だが彼女は空中で身体をひねり、二回転して爪先で砂を裂きながら着地した。
腕を振り、拳の感触を確かめて――微笑んだ。
「やはり……、覇王と呼ばれるだけの事はありますね」
バハドールは笑う。
「まだだ。もっと来い。お前の本気はそんなものではあるまい!」
赤黒い渦が彼の身体から立ち上る。
吸い上げた感情そのものが、魔力へ変換されているかのようだ。
「俺のスキルは【覇力】」
空気が重くなる。
砂が震える。
巨王の筋肉が膨張し、骨がきしむような音が耳に届いた。
「周囲のあらゆる『感情』を吸収し、俺の力へ変える。ゆえに人は俺を覇王と呼ぶ」
言葉が終わりきる前だった。
――地を砕く破裂音。
バハドールの足元から砂が爆ぜた。
次の瞬間、巨体が跳んでいた。
重さを無視した速度。
人の視覚が追いつく前に、影だけがリヴの目の前へ落ちてくる。
「リヴッ!」
叫ぶよりも早く、バハドールの拳が振り下ろされた。
拳、というにはあまりにも巨大な質量。
城壁を叩き割る戦槌のような一撃が、リヴめがけて一直線に降りる。
リヴは寸前で腕を交差し、全身で受け止めた。
再び轟音。
砂煙が爆発し、地面が波打つ。
受け止めたはずのリヴの足が、砂ごと十センチ沈み込む。
衝撃が腕から胸へ、脊椎へ、全身を叩き抜ける。
「くっ……!」
息が漏れたその一瞬を狙い、バハドールの影が揺れた。
「まだだ!」
吸い込んだ感情の奔流が、拳に、肘に、膝に、まるで炎のように宿っていく。
連撃。重さと速度を兼ね備えた、巨王の暴圧が襲いかかる。
一撃。さらに一撃。
リヴの腕が弾かれ、足がよろめき、地面に指がめり込む。
押されている。防戦に回らされている。
ただでさえネクレアとして、常人を遥かに超えるはずのリヴの膂力。
そのリヴが、巨大な嵐に片手で押し流されるように後退させられていく。
砂煙の中で、リヴの息が荒れた。
腕から血が一筋飛ぶ。
――押し返せない。
僅かなその事実に、胸が焼けるような痛みが走る。
「……リヴ!」
気づけば手を伸ばし、魔力を流し込んでいた。
黒い霧がリヴへ駆け込み、傷を塞ぐ。
その瞬間――
「クロム殿、手出し厳禁だ!」
「卑怯者!」
「決闘の礼を知らぬのか!」
フォルテスやバルドリア兵たちが怒号を上げ、殺気を向けてくる。
だが――
「構わん」
バハドールの声が、全てを制圧した。
「これはすでに、決闘という枠では収まらぬ戦いだ。俺が望むのは……アストレイが持つ力だ。それが全力だと言うのなら構わない」
王は俺を、真っ直ぐに見た。
「クロムよ。お前の助力で、あの女がどこまで行けるのか。俺はそれを確かめたい」
兵士たちは沈黙した。
こんな王がいるのか。
この世界の強者は、ここまで純粋なのか。
リヴが俺を見る。血に濡れた顔で、笑っていた。
「クロム様。ありがとうございます。後は――私に任せてください」
彼女の傷は、俺の魔力で塞がっていく。
闘気が再び身体の周りで揺らめく。
バハドールは満足げに頷く。
「面白い。これがネクロマンサーとネクレアか。噂よりずっと良いではないか」
バハドールは言う。
「来い! その力、存分に見せよ!」
拳と拳が再びぶつかる。
大地が割れ、砂が一直線に吹き飛ぶ。
俺の魔力を受けたリヴの身体が、黒い燐光のようなものを帯びる。
筋肉がしなる。
強敵を前に怪力を抑制する必要がなくなり、彼女の拳が音を裂いた。
その瞬間、リヴの拳は以前とは比べものにならない重さを秘めていた。
バハドールの巨腕を真正面から受け止め、わずかに押し返す。
観客席から驚嘆のうねりが起きた。
「ほう……!」
バハドールの目がわずかに見開かれる。
覇力を纏った王を、ほんの一歩だけ後退させたのだ。
砂がリヴの足元で爆ぜ、彼女はさらに踏み込み、拳を二撃、三撃と重ねる。
速度も重さも、完全に先ほどまでとは別次元だった。
だが。
バハドールは、それ以上一歩も退かない。
リヴの拳が入るたび、吸収された観客の感情が轟音のように王の体内を巡り、瞬時に力へ変換される。
押し返しても、押し返しても――次の瞬間にはそれ以上の力で返ってくる。
「悪くないッ! だが――まだ遠い!」
咆哮とともに振り上げられた拳が、空気の膜を剥がすような音を立てた。
リヴの全力の打撃が交差する。
衝撃の波が闘技場全体を震わせた。
次の瞬間――
リヴの足が滑り、砂に深く沈み込む。
肩が大きく揺れ、膝がわずかに落ちかけた。
強くなっている。
確かに先ほどより速く、重く、鋭い。
俺の魔力が確かにリヴを後押ししている。
それでも――
覇王バハドールは、遥か先で待っている。
「っ……!」
リヴの拳が弾かれた衝撃で、肺の奥から血が逆流しそうな音がした。
そのわずかな乱れを――バハドールは逃さない。
振るわれた巨腕が、リヴを大きく後退させる。
そして――
彼女の唇から、赤い雫が零れ落ちた。 リヴが血を吐く。
肩が震え、膝が落ちかける。
「リヴ……もう、いい。これ以上はネクレアでも危険だ。リヴが――」
「……倒れません。クロム様がいるから」
リヴは笑った。
苦しそうなのに、嬉しそうに。
「私は……まだ、戦えます」
声が震え、瞳も揺れている。
それでも――折れていない。
なぜだ。なぜ、ここまで。
「なぜ……そこまで拘る。なぜ……」
リヴは短く息を吸い、俺を真っ直ぐに見た。
「クロム様の願いが……私の願いですから」
胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
その瞬間――俺の魔力が震えた。
応えるように。リヴの想いに、応じるように。
俺の中のネクロマンシーが、脈動した。
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