第42話 この拳は生きるために
――第二試合。
さっきまでコーハとバルガードが戦い破損したリングは、既にバルドリアの魔法兵が修復をし終えていた。
その中心へと向かう影は、武器らしいものを一切持っていない。
巨体。岩を削り出したような腕。歩くだけで地面が微かに揺れる。
「我は東のガストリア領主、ラドガン。王の拳だ。この身一つで道を切り開く」
その宣言だけで観客席が波のように沸き立ち、兵士たちは拳を突き上げて歓声を上げた。
武器を持たない。構えもしない。ただ拳を握るだけ。
それだけで、空気そのものが震え始めるような……そんな存在感だった。
その圧を割るように、俺の隣で衣の裾が揺れた。
シグレが一歩、静かに前へ出たのだ。
「次こそは拙者の番であろう。ここで手合わせを――」
シグレの言葉は、背の高い影が横からぬっと割り込んだことで途切れた。
「ちょっと待ちな! ネクレアばかりにいい格好はさせられねぇ。たまには人間様の意地ってやつを見せてやるさ」
肩を揺らしながら笑うハードン。
だが、その声にはいつもの軽さとは違う、芯のようなものが混ざっていた。
「むぅ……! 今度こそ拙者の番だったのに……! 負けたら承知せぬぞ、ハードン!」
悔しさと決意を胸に秘めた声だった。
「まぁもし死んだら、ネクレアにしといてくれよ。クロムさんよぉ」
ハードンそう言い残し、背中を見せて歩いていく。
その背中に俺は静かに言った。
「ハードン」
「なんだ?」
「先に言っておく。この試合でお前が死んでも、俺はネクロマンシーは使わない」
一瞬、彼の足が止まる。
振り返ったその顔に、苦笑が浮かんだ。
「おいおい、冗談きついな」
「冗談じゃない。死んでも次があるなんて考えるな。本気で戦え。命を賭けるな、掴み取れ」
一瞬、風の音が止まった気がした。
ハードンは短く息を吐き、笑いながら頭をかいた。
「ったく……プレッシャーかけやがって。ま、わかったよ。死ななきゃいいんだろ」
ハードンが肩をすくめ、剣と盾を手にリングへと歩み出る。
いつもの軽口とは違う、薄く緊張の混じった背中だった。
リングの中央で、二人が向き合う。
風が止まり、空気が静まった。
「第二試合、開始――!!」
バハドールの声が響いた。
直後、ラドガンが地を蹴った。
速い。重さを感じさせない、風のような踏み込み。
巨大な拳が迫る。
ハードンは反射的に硬化スキルを発動した。盾が鈍く輝き、金属音が響く――
ラドガンの拳が盾にぶつかった瞬間、空気が震え、砂が爆ぜた。
一拍置いて――
「ぐっ……がっ……!」
ハードンの体が後方へ吹き飛んだ。地面に叩きつけられ、砂煙が舞う。
盾には大きな亀裂が走っていた。
ラドガンは拳を下ろし、淡々と呟く。
「我がスキル――【波紋】。衝撃は外側だけでなく、肉の奥、骨の髄まで響く」
「ちっ……内側から殴られる感じかよ……厄介な能力じゃねぇか……」
ハードンは呻きながら立ち上がる。
だが、肩で息をし、盾を握る手が痙攣していた。
ラドガンがゆっくりと歩み寄る。
「守るだけでは勝てぬぞ。攻めてもよいぞ? どうせ砕けるが」
「……ふざけんな」
ハードンが剣を構える。
だが、ラドガンの拳が再び振り下ろされ――剣が衝撃で折れた。
盾も砕け、弾かれた破片がリングに散った。
――武器が通じない。硬化も内部を守れない。このままでは負ける。殺される。
俺の胸がざらついた。ネクロマンシーを使わないと宣言したのは俺だ。
ハードンの目が、こちらを見た。
一瞬だけ、笑ったように見えた。
「死んでも復活できねぇなら――死ぬ気で勝つしかねぇよな」
砕けた剣を投げ捨て、盾も放り捨てた。
両の拳を握る。
硬化が全身に集中し、熱を帯び、皮膚が金属のように変質する。
「行くぜぇ……王の拳!」
吠えるように叫び、地を蹴る。
拳と拳がぶつかり合う。
互いに足を止めて殴り合う。
拳と拳がぶつかるたびに、音が鳴る。金属のような破裂音と、肉を揺らす音。
轟音。火花。砂煙。
リングの中心は火花のようにひりついた。
殴り合いはもはや技術のぶつかり合いではなく、どちらが己の限界を超えて最後まで立つかという戦いになった。
ラドガンの波紋が殴るたびにハードンの内側を揺らし、硬化した腕がひび割れ、血が滲む。
「がっ……はっ……」
それでも、ハードンは止まらない。
殴り返すたびに、ラドガンの体も揺れる。
波紋に対抗するのは、前へ出る圧と覚悟だった。
「馬鹿な……我が拳に耐えるだと……!」
「耐えてるんじゃねぇ……我慢してんだよ!」
ラドガンの腹に拳を叩き込み、巨体が後ろへ押し返される。
だが、ハードンも限界に近づいていた。息が荒い。立っているのもやっとの様だ。
それでも――やめなかった。
「――これで……終わりだぁぁあああ!!」
硬化を拳一点に集中させる。
全体ではなく、一点に全魔力を注ぎ込んだ拳。
金床のような重さと硬さを持った拳が、ラドガンの顔面を撃ち抜いた。
空気が裂け、波紋の衝撃が逆流し、ラドガンの巨体がよろめき――膝をついた。
「……馬鹿……な……」
そのまま砂の上へ倒れ込む。
バハドールはゆっくりと立ち上がり、静まった闘技場に朗々と声を響かせた。
「――見事な戦いであった。ラドガン、その胆力と剛腕、確かに皆の目に刻まれた。そしてハードン……その渾身の一撃、バルドリアの武の誇りに値する!」
一拍置き、王は右手を高々と掲げる。
「勝者――ハードン!」
場内は一瞬の静寂の後、割れんばかりの声に包まれた。
バルドリア側の兵たちの歓声も、怒号も、混ざり合って一つの大きな奔流になる。
ハードンは立っているのがやっとだった。血まみれで、腕はひび割れ、息も絶え絶え。
俺たちは急いで駆け寄る。
ツムギとトローネがハードンの傍で簡易処置を始める。
「動かないで。骨も折れてるし、内臓も傷ついてる。もうちょっと我慢して」
「……無茶……しすぎです」
トローネがため息をつく。
ハードンの顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「無茶でもしねぇと勝てなかったんだよ。……なぁ、クロム」
俺は膝を折り、彼の顔を見下ろした。
その瞳にはまだ、火が残っている。
「生きてるって……いいもんだろ?」
俺が問いかけると、ハードンは薄く目を開けて呟く。
「……あぁ、最高だな」
少しの沈黙のあと、彼は苦しそうに笑いながら尋ねた。
「なぁ……クロム……本当に……死んでもネクレアに……してくれねぇつもりだったのか……?」
「さあな」
俺はあえて言葉を濁し、立ち上がった。
「だが、確かめさせるような真似は……頼むからしないでくれ……」
ハードンは少しのあいだ黙っていたが、やがて息をつき、かすかに笑った。
「なるほど……上手いこと言いやがる。……チッ……生きるしかねぇな……」
その声を聞きながら、ツムギが安堵の息を漏らし、トローネが小さく肩を落とした。
観客席の熱気はまだ冷めず、第二試合の余韻が闘技場を包み続けていた。
――ありがとう、ハードン。お前が示した意地は、確かにここに残った。
戦いの余熱の中で、俺は一つの真実を確かめていた。
――生きるってのは、面倒で、痛くて、厄介で……それでも捨てがたいほど眩しいものだ。
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