第40話 迫り来る覇の影
アストレイの空は今日も穏やかで、開拓の槌音があちこちから響いていた。
木槌の乾いた音、牛の鳴き声、子どもたちの笑い。
それらが混ざり合って、まるでこの地そのものが呼吸しているかのようだった。
ギルディア側のネクロスの地――かつては死者の荒野と呼ばれたこの土地に、今では畑と家が並び始めている。
黒く乾いていた大地が、いつの間にか緑に染まりつつあった。
かつて死を象徴した土地に、いまは生が芽吹いている。
俺たちが築いた防衛拠点も、順調に増えていた。
ネクレアたちに管理を任せつつ、村を囲むように配置されたそれらは、ネクロスからアストレイを守る鎧となっている。
目を閉じると、彼らの存在を感じ取れる気がした。
呼吸のように、脈動のように――
もはやアストレイは、一つの村ではない。
――独立領。
そう意識した瞬間から、俺とネクレアたちの《《繋がり》》も変わった。
距離を隔てても、アストレイの領地である限り、互いの存在を確かに感じ取れる。
言葉を交わさずとも、心が届くような不思議な感覚だった。
誰もが必死に築き上げた日々。
その努力が、ようやく形になり始めている。
そんな穏やかな時間を破るように――鐘が鳴った。
高台から、金属を叩く重い音が響き渡る。
その響きは静寂を引き裂き、村中を一瞬で緊張に包み込んだ。
警鐘だ。
敵襲ではない。魔物でもない。
……来訪者。
胸の奥がざわつく。
この鐘が鳴るのは、普通ではない存在が近づいているときだけだ。
すぐにラピが駆け込んできた。
額には汗、肩で息をしている。
「クロムさん、南の街道に軍勢が見えます。旗印は――バルドリアのものです!」
「……軍勢?」
「はい。見える限りでも五百は下りません。そして使者が面会したいと言っています」
武闘国バルドリア。
フェイリア大陸南方に位置する、武をもって統治する国。
力が正義であり、剣こそが言葉となる土地。
前回のガリア領の時は敵兵は約二千。
あれからネクレアの数は増えていて二百になろうとはしている。
純粋な数だけを見れば、五百なら十分に対抗できる。
だが、バルドリアが、それを理解していないはずがない。
それでも軍を動かしたということは、別の意図があるということだ。
「使者と話をしよう」
ラピが頷き、伝令に走る。
俺もすぐに後を追った。
◇ ◆ ◇
南門に到着すると、すでに緊張した空気が漂っていた。
ネクレアたちが周囲を警戒している。
やがて、護衛に囲まれ、一人の男が姿を現した。
「アストレイ代表、クロム・アストレイだな」
「ああ、俺がクロムだ」
「我らが主、バルドリア王・バハドール陛下の御意により、果たし状を持参した」
果たし状――
その言葉が放たれた瞬間、周囲がざわついた。
戦の前触れだ。
男は書状を広げ、力強く読み上げた。
「『クロム・アストレイに告ぐ。我が国は貴地に滞在する者のうち、ハーフエルフのフリシアを求む』」
読み終えた男は巻物を差し出す。
受け取った瞬間、紙の重さが異様に感じられた。
「……フリシアを、だと」
フリシアの名が出た瞬間、周囲の空気が変わった。
ガリアとの代表戦で勝ち取ったフリシア。
それを今度はバルドリアが国を挙げて奪い取ろうとしている。
国としてのプライドなのか、なにか別の意図があるのか。
なんにせよ従う訳にはいかない。
「フリシアは渡さない」
思わず声に苛立ちが混じっていた。
使者は怯むことなく、むしろ愉快そうに口角を上げた。
「拒むならば、決闘で証明していただこう。五人の代表を立て、一対一の戦いで勝負をつける。それが陛下のご意志だ」
「勝てば――」
「勝てば、ハーフエルフはもうそちらのものだ」
挑発か、それとも誠意か。
どちらでもいい。
その裏に、何かもっと深い意図があるのは確かだ。
バルドリアが、ただ一人の少女のために軍を動かすはずがない。
彼らの狙いは、アストレイそのもの――
「……分かった。決闘を受けよう」
使者の眉がわずかに動いた。
俺の即答が、予想外だったのだろう。
「二週間後、アストレイ南方の大地にて。陛下自らがお越しになる」
言い残して、使者は背を向けた。
去り際の背中には、勝利を確信する者の余裕があった。
その背に、ガレオンが低く吐き捨てた。
「戦をしたいだけの男たちが……」
俺はゆっくりと拳を握った。
「だが代表戦なら、この前のガリアの時みたいに勝てる可能性はある」
その言葉を自分に言い聞かせるように呟く。
フリシアの方を見ると、彼女は少し怯えたような、それでも真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。
俺は彼女の肩に手を置いた。
「フリシアを渡す気はない」
彼女は目を見開き、それから静かに微笑んだ。
「クロムさん……ありがとうございます」
その笑顔を見て、決意が固まった。
守るべきものがある限り、俺は負けられない。
◇ ◆ ◇
二週間後――
バルドリアの奇襲を警戒していたが、彼らは宣言どおり現れた。
南の地平線に、黒い波が見えたとき、誰もが息を呑んだ。
それは、軍だった。
槍の群れ、騎兵の列、翻る赤い旗。
南の大地が生き物のようにうねり、進軍の振動が足元を揺らす。
「……これが、バルドリアの軍ですか」
リヴの声が低く震えた。
圧倒的な数の差。
もしこの軍勢が本気で攻めてきたなら、アストレイは一瞬で消し飛ぶだろう。
俺たちは丘を下り、バルドリア軍の前へ向かう。
先頭に、異様な存在感を放つ男がいた。
まだ若い。俺と十歳も変わらないように見える。
だがその男の放つ威圧感は桁違いだった。
赤黒い鎧。鋭い双眸。
周囲の空気が彼を中心に歪んでいる。
――武闘国バルドリア王、バハドール。
その背後に四人の将が並ぶ。
その中には前回決闘で倒したマサクリフの姿もある。
東西南北のバルドリア四領主だろう。
王が手を挙げると、地が震えた。
彼が放った一言は、まるで宣告のように響いた。
「まずは、決闘を受けた勇気に応えよう。そしてこの地に――戦の舞台を作る」
その声が響いた瞬間、魔法兵たちが一斉に動いた。
地面が裂け、石が隆起し、光の線が走る。
数分もしないうちに、何もなかった平原が巨大な闘技場へと姿を変えた。
魔力の奔流が空気を震わせる。
誰もが言葉を失った。
俺は悟った。
――まともに戦っては、絶対に勝てない。
それでも、退くことはできない。
この戦いを避ければ、フリシアだけでなく、アストレイの未来が潰える。
リヴが隣に立ち、俺を見る。
「大丈夫でしょうか、クロム様」
「……戦う。だが、俺たちのやり方でな」
握り締めた拳が震えていた。
恐怖ではない。
仲間と、この地を守る誓いの震えだった。
アストレイとバルドリア。
出来たばかりの小領と、大国。
魂の重さが試される戦いが、いま始まろうとしていた。
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