第36話 凍てつく手が灯すあたたかさ
セラを見送って、数日が経った。
陽はまだ低い。朝の空気は肌に張りつくように冷たく、それでいてどこか心地よい澄み方をしていた。
アストレイの空は、以前よりも青が深い。
領地というものが、景色にさえ影響を与えるのかもしれない。
それが思い込みにせよ、悪くない気分だった。
村全体の様子を見ながら、俺は息をゆっくり吐く。
聞き慣れた足音が近づくのに気がつき、振り向く。
「……もう戻って来たのか、ラセル」
ラセルは、深く礼をした。
以前と変わらぬ物腰の柔らかさ。しかしその礼は、客人でも商人でもなく、一人の同盟者としての礼節だった。
「セラさんは無事、港までお送りいたしました。オルタリア行きの船にもお乗せできましたよ。『クロムさんに、くれぐれもよろしくお伝えください』と、そう言っていました」
「……そうか」
迷子の旅人。
ふわふわしていて、掴みどころがなくて、でも、澄んだ笑顔をする女性。
あの足取りの先に、どんな道が続くのかは俺には分からない。
やがて何かを背負う日が来るような、そんな予感が胸に宿る。
ラセルは一度表情を和らげたあと、すぐに真剣な眼差しに戻した。
「――さて。本日は別件で参りました」
「早速、商売の話か」
「はい。ですが今回は、マルキオンではなく……アストレイの同盟者として」
しなやかな声に迷いはない。
「魔物肉を、ギルディアに卸していただけないかと考えております」
その言葉に、俺は軽く息を吸った。
魔物肉。
魔力を帯びた荒野の獣たちの肉は、普通の家畜よりも旨味が濃い。
だがその魔力が災いし、魔力を吸い取った後も時間が経つほどに肉は劣化し、独特の苦味とえぐみが増す。
だから今は、ドレイナが魔力を吸い、燻製や塩漬けにして保存・販売している。
「ギルディアが求めているのは、生肉だな」
「ええ。加工前の味を、料理人たちは望んでいるようです。しかし――」
「ドレイナを貸すわけにはいかない」
俺が言うと、ラセルは静かに頷いた。
「もちろんです。アストレイはまだ独立したばかり。食糧事情も安定はしていない。外へ出す余裕があるかどうか……その判断は、もちろんクロム様にお任せします」
ラセルは静かに頷き、言葉を選ぶ。
「ですが、アストレイの魔物肉は――本当に、旨い」
その声音は商人ではなく、ひとりの食客の感想のようだった。
「もし生の魔物肉があれば、ギルディアの食卓に新たな文化をもたらします。新しい食の流れ。それは、国の相場をも揺るがす可能性がある」
話は分かる。
確かにアストレイはまだ駆け出しの独立領。資源は限られている。
だが、もし安定した輸出経路が確立できれば――村は強くなる。
問題は、保存だ。
ドレイナは魔力吸収の才能を持つが、彼女は一人しかいない。
魔物肉をすぐに輸出しても数日もしない内に品質は落ちてしまう。
ドレイナは替えが利かない。
魔力吸収は個人依存の能力だ。
そこで、ひとつ思い当たった。
「……フリシアなら」
凍結。
それは言い換えればそのまま保つ力。
解けることなく停滞する、永遠の瞬間。
俺はラセルに告げ、ネクレアたちが訓練している広場へ向かった。
◇ ◆ ◇
そこでは、フリシアがネクレアたちと並んでスキルの練習をしていた。
彼女は小柄で、雪のような淡い銀雪色に薄く青みが差している。
その瞳は冬の朝の空気のように冷たく澄んでいながら、やわらかな光を帯びていた。
「フリシア」
呼ぶと、肩がわずかに揺れ、彼女はこちらを見る。
「クロムさん」
名前を呼ぶ時の声に、ほんの少しあたたかさが宿るようになった。
「お願いがある。魔物肉を凍結できるか試したい」
フリシアは一度まばたきをして、それから迷いなく頷いた。
「……やってみます」
その返事に曇りはなかった。
俺たちは早速魔物肉を処理している、ドレイナの加工場へ向かった。
「まあ。クロムさん。こんな朝から来てくださるなんて……夜なら、もっと熱く歓迎できるのに」
ドレイナがいつもの調子で笑うと、フリシアはさっと前に立ち、目だけで牽制した。
小柄な体で、誰よりも強い拒絶を示す。
「……実験をします。魔物肉を、お願いします」
「はいはい、可愛い子に頼まれちゃ断れないわねえ」
ネクレアたちが運んできたのは、魔力を抽出したばかりの魔物肉。
血の照りは濁らず、新鮮そのものだ。
フリシアは一歩前へ出る。
息を静かに吸い込む。
冷たさが世界に満ちるのが分かった。
「――凍てよ」
囁くような声。
白い霧がふわりと舞い、氷花が肉に咲く。
それは一瞬。
呼吸ひとつ分の短さで、魔物肉は完全に凍りついた。
肉の繊維は乱れず、水分は飛ばず、ただ、時間だけが閉じ込められた。
ラセルが驚きの息をもらす。
「……見事です」
だが問題はここからだ。
保存期間、そして解凍後の品質。
凍結された肉はそのまま数日たっても溶ける気配はなかった。
仕方がないので火にかけ解凍を促す。
解凍された魔物肉を、切り分け、調理される。
熱した鉄板に乗せると、香りが立ちのぼる。
脂が弾ける音が心地よい。
「……いただきます」
俺は口に運んだ。
旨味が濃い。
魔物肉本来の甘みがそのままだ。
凍らせたはずなのに、繊維はほどけるように柔らかい。
「……すごいな。味が落ちていない」
ラセルが息を吐く。
「これなら、ギルディアへ輸送しても品質を保てます。価格競争にも勝てる。アストレイは……本当に、市場に名を出せます」
「ああ。フリシアのおかげだ」
言った瞬間、フリシアが肩を震わせた。
驚きでも自信でもない。
それは――あたたかい涙の気配に似ていた。
「わたし……役に、立てましたか」
「もちろんだ。アストレイはフリシアを必要としている」
フリシアの瞳が揺れ、胸にそっと手を当てる。
凍てついた心に触れるように。
「……よかった……クロムさんの力になれて……」
その声は、雪解けの雫のように静かだった。
フリシアは続ける。
「もっと……できるように、なりたい。みんなのため……アストレイのため……」
そして、言葉はすこし震えて――
「……クロムさんの、ためにも」
俺は微笑んだ。
「なら、共に進もう」
フリシアは小さくうなずいた。
その横顔は、氷ではなく――確かに、あたたかかった。
◇ ◆ ◇
その後、凍結された魔物肉はラセルの手によってギルディアへと届いた。
驚きが、感嘆に変わっていく。
料理人たちは首を傾げながら、同じ言葉を口にした。
「本当に、これが魔物の肉なのか?」
ギルディアの料理界に小さな衝撃が走った。
保存が利き、旨味を保ち、何より美味い。
噂は酒場へ、商人へ、貴族へ――
アストレイという名前は、静かに、確かに広がり始めた。
アストレイへ戻ってきたラセルは、深い礼をした。
「これは、アストレイのはじまりです」
俺は頷いた。
アストレイの未来が、また一つ形を得た。
そしてその隣で――
フリシアは胸元にそっと手を当て、微笑んでいた。
その笑みは、雪の温度ではなかった。
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