第33話 名が運ぶ風
戦いが終わった夜、アストレイを包む空気には、まだ血と焦げた鉄の匂いが残っていた。
村の中央広場には負傷者たちが運ばれ、うめき声と荒い息が交錯する。
揺らぐ焚き火の灯が人影を伸ばし、その影が地面で重なり合っていた。
ネクレア以外にも戦ってくれた人達も、もちろんいた。
ネクレアは俺が魔力を注げばすぐに再生する。
だが普通の人間はそうはいかない。
血が流れ、肉が裂け、痛みと向き合わなければならない。
「ほら、しっかり歩け。背中開いてるぞ」
俺はハードンの腕を取って支える。ガレオンも反対の肩を支え、三人で診療所代わりの小屋へ向かっていた。
彼の背中には深い裂傷。硬化のスキルを使っていても、あの規模の戦いとなれば、どうしても無傷と言う訳にはいかなかった。
「いってぇ……いやー、次こそほんとネクレアになれると思ったんだけどなぁ」
ハードンは笑っているが、その声には震えが混じっている。
「まだ言ってるのか。お前はまだ死ぬな。飯食って討ち上げでくだ巻け。そっちの方が似合ってる」
「……へいへい、クロムさんは相変わらずだな」
笑うくせに、額にはうっすら冷や汗が浮かんでいた。
診療所の中は、想像していたよりも静かだった。
静寂は安堵ではない。
緊張と集中の匂いを孕んだ静けさだ。
そこで、糸が舞っていた。
白く細い糸が宙に浮かび、傷口へと触れ、裂けた皮膚と肉をすくい上げる。
針はなく、糸そのものが意志を持つように動き、縫い、結ぶ。
その中心に立つのは、一人の女性。
黒い髪を緩く後ろで束ね、長い睫毛が伏せられている。
指先の動きは静かで、空気に溶けるように滑らかだった。
「……ツムギ。頼む」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げ、小さな笑みを浮かべた。
「任せてください。ハードンさん、こちらへ。痛いと思いますが、我慢してくださいね」
「いや、もう痛み通り越して何とも――うおおおおおおお!? いってぇぇぇぇ!!」
「硬くすると余計痛いですよ。力を抜いてください」
「無理だってそれは!!!」
静かな声と絶叫が小屋に響く。
それでもツムギの瞳は揺れない。
白い糸が、まるで意思を持つ生き物のように滑るように動き、裂けた肉に触れ、縫い合わせていく。
その所作は残酷さよりも、どこか慈しみの手つきに近かった。
――彼女の名前はツムギ。スキルは【操糸】。
針を使わず、糸そのものを自在に操り、布も皮膚も肉さえも、まるで人の体を一枚の布のように扱う。
彼女はこの大陸よりさらに東、海の向こうの島国ジャポニアの出身だった。
航海の途中、嵐に呑まれ、船は砕け、漂着した先は北の死地ネクロス。
そこで命を落とし、いったんはアンデッドとなり、なお生を求め続け、ネクレアへと至った者。
彼女の指先にある糸は、過去と今を繋ぐものでもあった。
彼女は生を縫い止めているのだ。
その時、屋外から戻ってきた男が、木刀を肩にかけたまま小屋に入る。
「戻った」
低く落ち着いた声。
濡れた黒い前髪を指先で払う仕草は、どこか古い武家の美意識を思わせた。
「シグレ。巡回ありがとう」
ツムギの言葉に、シグレと呼ばれた男は小さく頷くだけだった。
彼はツムギと同じ船に乗っていた侍と呼ばれる戦士だった。
彼のスキルは【刀】。
この大陸には存在しない、細身でしなやかな一枚刃の剣――刀を扱うためのものだ。
本来、彼が手にしていた刀は、嵐の夜、怒涛の海に呑まれた。
今、腰に差しているのは、ドルビが丸太を削り、幾度も火で炙って硬度を上げ、丁寧に形を整えた木刀。
木でできたただの棒のはずなのに、シグレの手に握られた瞬間、それは刃の気配を纏う。
振れば、空気が裂ける音がする。
先の戦場では誰よりも前に立ち、その木刀一本で敵を薙いだ。
「……刀があればな」
ぼそりとシグレは呟く。
その声音には、悔しさでも未練でもない。
ただ、足りないものを淡々と見つめる静かな響き。
「そのうち、俺たちで手に入れよう。……いや、いっその事、作ってみるか」
俺がそう言うと、シグレはほんの少し目を細めた。
口元は動かない。
だけど、それが彼の笑みだということを、俺は最近になってようやく知った。
◇ ◆ ◇
治療を終え、外へ出る。夜は深く、星は高い。
焚き火の揺れが、戦いの余熱のように村を包んでいた。
「……なぁ、クロムさんよ」
治療を終え包帯を巻いたハードンが、肩を回しながら言う。
「このままじゃ、やべぇよな?」
「……ああ」
「北はネクロス、西はヴァルメイア、南はバルドリア。三つまとめてってのは笑えねぇ」
「笑えないな」
ガレオンが静かに言葉を継ぐ。
「これからどう動くべきなのでしょう?」
「これ以上敵を増やす訳にはいかない。俺たちが今するべきは――東と協力する事だ」
「ギルディア、ですね」
俺は頷く。
「ああ。一番近い領地のマルキオン領。そこに繋いでくれる商会がある」
「ラセル商会、ですね?」
「そうだ」
ラセル。飄々とした商人。掴みどころのない笑顔。
だがヴァルデン領との争いあたりから、ラセル商会の交易も減り、ラセル本人が姿を見せる事は無かった。
まるで――俺たちの生死を静かに見極めていたかのように。
◇ ◆ ◇
「……やあ、皆さん。お元気そうでなによりです」
戦いの翌日、タイミングを見計らったかのように村の門に、見慣れた馬車が止まった。
軽く手を振る声。いつもの調子で、いつも通りの笑み。
「……ラセル」
「お久しぶりですね、クロム様。いやぁ、こちらも色々立て込んでまして」
「こっちは命がけだったんだがな」
「存じております」
そう言って――
彼は、静かに頭を下げた。
深く、長く、軽口も挟まずに。
「遅くなって、申し訳ありませんでした」
場の空気が変わる。
彼がこんな態度を取ることは、今まで一度もなかった。
「……事情を、聞かせてもらおうか」
「もちろんです。その前に――」
ラセルは顔を上げる。その瞳には、隠されていた鋼の意志が宿っていた。
「改めて名乗らせていただきましょう」
一瞬、風が止まったような気がした。
「――私はマルキオン領主、ラセル・マルキオン」
この名がもたらすものは何なのか――
それが恩恵なのか、災いなのか、まだ分からない。
けれど、たしかなことがひとつある。
アストレイは、静かに変わろうとしていた。
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