第31話 生を選ぶ者たち
朝靄が薄く漂う平原に、鉄が擦れ合う低い音が響いていた。
空はまだ白んでいる。だが、陽が昇るより先に戦の気配が満ちている。
ガリア領からの軍勢。その数およそ二千。
大地を踏みしめる無数の足が響かせる振動が、胸骨までも震わせた。
俺たちアストレイ側は——百人ほど。
数だけを比べれば、圧倒的に不利。
だが、誰ひとり退こうとする者はいなかった。
この百は、ただの百ではない。
死から戻り、生を選んだ者たち、ネクレア。生を渇望し、命を抱きしめる者たちだ。
その決意が、風の中に凛と立っていた。
俺は先頭に立ち、ゆっくりと息を吸う。
呼吸は静かだ。だが、胸の奥が熱く燃えているのが分かる。
やがて、向こうの陣から少人数が歩み出る。
奴隷商のドレーク。その薄い口元には、嘲るような笑みが乗っていた。
「やあ、クロム様。お久しぶりでございますね」
その後ろには、無表情のままスパイクメイスを肩に担ぐ護衛のクラガン。そして、整列するガリア兵たち。
ドレークは芝居じみた所作で一歩前に出ると、声を張った。
「さて。本題に入りましょう。我が主、ガリア領主マサクリフ閣下に献じる品物が、どうやらそちらの村に紛れ込んでいるようでしてね」
品物。
その時点で、もう言葉を交わす価値などなかった。
だが、俺はあえて問い返した。
「何のことだ」
「フリシア。あのハーフエルフの娘でございます」
空気が、冷たく震えた。
それは、スキルによるものではない。
怒りと軽蔑が、胸の奥から静かに燃え上がったからだ。
「彼女は、商品じゃない」
ドレークは肩をすくめ、薄笑いを浮かべた。
「彼女はガリア領に渡される正式な商品。返して頂きたい。それだけの話です」
「断る」
俺は迷わず返した。
その瞬間、奴の笑みがかすかに歪む。
「……そうですか。では、仕方がありませんね」
彼は無駄なく踵を返した。外套の裾が風に舞う。
「それでは三十分後に。気が変わったらお声がけください」
俺は奴が去るのをただ見送った。
リヴが隣で、小さく息を吸う。
「クロム様……覚悟は、できているのですね」
「ああ。俺だけじゃない」
視線を巡らせれば、ネクレアたちは皆、静かに前を見ていた。
恐れではなく——意志の瞳で。
「守るために戦う。奪うためじゃない」
「——はい」
リヴの返事は、ひとひらの祈りのように柔らかかった。
◇ ◆ ◇
そして、開戦の時が来た。
遠くで、角笛が鳴る。
大地が震え、波のように兵が押し寄せてくる。
槍と盾を構えた歩兵たちが整然と前進してくる。
弓兵と魔法兵は後列に控え、冷徹な統制が保たれている。
規律ある軍——主の命に従う者たち。侮れぬ正規の戦力。
だが——
「——コーハ」
俺が名を呼ぶと、前方に出た青年は、ひとつ深く息を吸い、その両腕を敵軍に向けて伸ばした。
「腐敗領域——展開」
音もなく、世界が塗り替えられる。
黒い波紋が地を這い、兵たちの足、鎧、武具へと触れる。
次の瞬間——鉄が溶けた。
「な……なんだ!? 鎧が……!?」
「盾が……腐って……!」
装備が砂のように崩れ落ちる。戦列に綻びが走った、その隙に——
「——参ります!」
リヴが踏み込む。
静かな一歩だが、地が沈むほどの重さ。
振るわれた拳が空を裂き、衝撃波が走る。
兵がまとめて吹き飛び、叫びが風に散る。
「な、何だあれは……!?」
「人なのか……!」
ガレオンは大剣を振りぬいた。
「——おらぁ!」
剣圧が風を裂き、衝撃が波となって敵を薙ぐ。
刃が届く前に兵が倒れる。
その一撃は暴風そのものだった。
そんな戦場に、柔らかな声が響いた。
「みなさん、少しだけ——動かないでくださいね」
前へ進み出たのは、線の細い女性。
その身なりは、この大陸のどの文化にも属さない、不思議な衣をまとっていた。
彼女の周囲に淡く光る細糸が浮かび上がる。
それは蜘蛛の糸ほどに細いのに力強く感じる。
細い指が、空を縫うように動いた。
彼女の指の動きに応じて、糸は風のような軌跡を描き、敵の腕、足、武器の柄へと触れていく。
「な、なんだ……! 動かねえ……っ……!」
糸が兵士の体に縛りつく。
だが締め付けもしない。
ただ抵抗する意志そのものをそっと縛り取るように、動きを止める。
「大丈夫。息はできます。少しだけ、休んでいてくださいね」
女性は、微笑んだ。
それは優しさに見えながら、逃れられない支配でもあった。
血も怒声もない。
ただ静かに、戦意が消えていく。
——彼女の力は、静寂を編む力だった。
その一方で、前線のもっとも激しい場所に、一つの影があった。
斬撃の気配が走るのに、血は一滴もこぼれない。
倒れた兵の呼吸は健在で、命は奪われない。
パシュッ、パシュ、と軽い木が打ち合うような音。
男は不思議の形をした木剣を手にしていた。
その装束は、こちらの大陸では見られない形——遠い海の彼方から来た者のもの。
「な、なんだ……あいつは……!」
「速い……いや……違う……無駄がない……!」
敵の槍が振り下ろされる。
だが男は静かに一歩を踏み込み、木剣でその柄を払う。
パキッ、と乾いた破裂音。
槍が折れ、兵士が尻もちをつく。
男は、刃のない剣先をそっと下げた。
「安心せい」
武器を軽く掲げる。
「峰内じゃ」
少しだけ霧が晴れ、木剣の表面に刻まれた細かな削り跡が光を受けて浮かび上がる。
「……刃は、ついておらんがな」
小さく呟き、肩で息をしている敵兵へと目を細める。
「生きて帰れ。恥をかく暇があるなら、己を見つめ直せ」
風が吹き、束ねられた黒い髪が揺れた。
その目には、死を越えてなお、剣の道を歩む者の覚悟が宿っていた。
その背後では、雷光が走る。
少女の放つ稲妻が、槍兵の列を貫き、兵たちを膝つかせた。
だが鎧は焼けず、肉も焦げない。
ただ筋肉の力だけを奪う、絶妙な加減。
別の青年は棒を回転させ、手首と顎を正確に叩く。
俺の傍で弓を構える男の矢が、正確に武器を奪い、敵の足を止める。
致命傷は与えない。
急所は外す。
ただ——戦う力だけを奪う。
「……すごいですね、皆さん」
軽やかに笑いかけてくる声に振り返ると、ラピが戻ってきていた。
その背には、腕と脇腹を負傷したネクレアの青年が担がれていた。
「負傷者を回収してきました。よろしくお願いします、クロムさん」
俺はうなずき、その青年の体に手を添える。
熱い。
血も汗も、戦場の空気もまとわりつくように重い。
「大丈夫だ。まだ間に合う」
俺は魔力を送り込む。静かに、焦らず、だが確かな意志をもって。
傷口が塞がっていく。破れた皮膚が寄り、血が止まる。
荒い呼吸が、少しずつ整っていった。
青年は目を開け、掠れた声で呟く。
「……戻ります」
「無理はするな」
俺は彼の肩に手を置いた。
「だが——みんながまだ戦っている」
青年は力強くうなずくと、そして、再び戦場へ走り戻っていった。
その背を見送りながら、ラピが息を吐く。
「……ほんと、すごいです、皆さん」
その言い方には、尊敬でも感謝でもない。
もっと深い、信頼に似た響きがあった。
俺は応え、深く息を吐いた。
「ああ。みんな、俺の意思を理解して戦ってくれている」
ラピは小さく笑い、すぐにまた前線へ駆けていった。
俺も深く息を吐き、次の傷ついた者を迎えるため、再び手を伸ばした。
俺が望むのは普通の勝利じゃない。
殺さず、奪わず、ただ止めるために戦う。
それは、暴力よりもずっと難しい。
だが、それこそが——俺たちが選んだ、戦いの形だ。
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