第30話 凍てつく過去、灯る居場所
フリシアは深く息を吸い、そして静かに吐き出した。
胸の奥に沈んでいた何かが、まだ形を持たないまま揺らいでいる。
言おう、と思っても、言葉はすぐには生まれない。
そんな気配が、その細い肩に滲んでいた。
俺とリヴは、彼女の正面に座ったまま待っていた。
急かさない。
問い詰めない。
ただ、待つ。
それが今の彼女に必要なことだと、分かっていた。
「……ありがとう。話す機会を、くれて」
フリシアの声は、消えてしまいそうに細かった。
けれど先ほどより、その奥にわずかな意志があった。
「あまり、上手く話せないかもしれない。でも……聞いてくれる?」
「ああ。俺たちは、聞くためにここにいる」
隣でリヴが、穏やかな声で言葉を添えた。
「あなたが言葉にしようとしていることは、大切なものです。ゆっくりでいいですよ」
フリシアは一度目を閉じ、過去という深い水の底へ潜るように呼吸を沈めた。
「……ハーフエルフっていうのは、わかりますか?」
問いだが、説明というより、自分の輪郭を確かめるような声音だった。
「人間とエルフの間に生まれた者。けれど……それは、どちらの世界にも居場所がないということなんです」
フリシアは膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
その指先は白くなり、小さく震えていた。
「エルフの国では、ハーフエルフは『異端』と呼ばれます。純血を重んじる文化だから。混じりは……穢れとされる」
穢れ。
たった一言が、息苦しいほどの重みで落ちてきた。
「生まれた時から、歓迎されない存在でした」
リヴがそっとまぶたを伏せる。
俺はひとつ、気になっていたことを尋ねた。
「……フリシア。年齢は、いくつなんだ?」
フリシアは少し驚いた顔をし、それから小さく答えた。
「二十歳です」
「二十か。俺たちと、ほとんど変わらないな」
その言葉に、彼女はわずかに微笑んだ。
とても弱いけれど、確かにあたたかい微笑だった。
「よく言われます。見た目は人間と同じくらい。でも……寿命はもう少し長いんです。エルフほどではないけれど。全部が……中途半端なんです」
その声には、笑うでも、泣くでもない寂しさがあった。
「父は旅の冒険者だったと聞いています。誰なのかは分かりません。母は……私を産んで、すぐに亡くなりました」
最初から、世界の中に独りだった存在。
「さらに……私のスキル【凍結】。ハーフエルフだからなのか、原因はわかりません。でも、上手く制御できないんです」
彼女の視線が、昨夜の凍てついた部屋の奥を思い返すように揺れた。
「気持ちが乱れると、冷気があふれてしまう。恐怖、悲しみ、怒り……ただ息が乱れただけでも」
フリシアは両手を抱え込むように胸元で重ねた。
「周りを凍らせてしまうんです。意図せず、望まずに。だから……迷惑をかけてしまう。危険な存在だと、恐れられるんです」
そして、とても静かな声で続けた。
「……そのせいで、国から追い出されました」
追放されたのではなく、最初から居場所がなかったのだ。
「フェイリア大陸には、エルフの国だけじゃなく、ドワーフや獣人の国もあります。でも……どこにも居場所はなかった」
フリシアの言葉は淡々としていたが、それは諦めではなく、傷が深すぎて感情を持てなくなった声だった。
「だから私は海を渡ったんです。『どこかに居場所があるかもしれない』って、信じたかったから」
その信じた先が――地獄だった。
「ヒュマリア大陸に来て、しばらくして……バルドリアの奴隷商に捕まりました」
リヴの目が細くなり、空気が震えたように感じた。
俺も、胸の中に冷たい硬いものが落ちていく。
「逃げようとして……でも恐怖で感情が乱れ、冷気が暴発して。混乱した隙に、私は逃げ出せたんです。でも――」
フリシアは唇をかすかに噛んだ。
「生きようとするほど、私は誰かを傷つけてしまう。そう思うと……怖かった」
その声音は涙よりも痛かった。
俺は言葉を慎重に選んだ。
「……フリシア」
彼女は顔を上げる。
瞳は凍りついたまま、救いの形を知らないまま。
「この村を、逃げ場じゃなくていい。居場所にすればいい」
フリシアの肩がわずかに震えた。
「スキルが制御できるまで、ネクレアの集落で暮らそう。あそこなら君の冷気でも被害は出ない」
「……いいの……?」
「ああ。ここは、誰かを追い出す場所じゃない」
リヴがそっと微笑んだ。
その微笑は、春の雪解けのようにやわらかかった。
「ここは、生きたいと願う人が、生きていい場所です。あなたが、まだ生きたいと思っているのなら」
フリシアの瞳がかすかに揺れ、そして――小さく、確かに頷いた。
それは、凍った心にようやく灯った、小さな灯りだった。
◇ ◆ ◇
それから数日の間、フリシアは、リヴたちと共に呼吸と心を整える訓練を始めた。
冷気は感情と共に動く。
ならば、まず心を扱うことから学ぶ。
フリシアは不器用だったが、必死だった。
小さく微笑む回数も、ほんの少しだけ増えていた。
――そして。
その静かな日々は、あまりにも唐突に終わった。
アストレイの村に、警鐘の音が鳴り響いた。
空気が切り替わる。
戦の匂い。鉄と土と汗の匂い。
伝令として駆け込んだのはラピだった。
「クロム様――! 南より、バルドリア国ガリア領の軍勢が接近中!」
胸が、静かに燃えるように熱くなった。
フリシアを追ってきたのか。
それとも、最初から狙っていたのか。
どちらにせよ―
これ以上、彼女から奪わせない、傷つけさせない。
俺は立ち上がった。
「……迎撃準備だ」
声は静かだった。
けれどその静けさには、鋼のような決意が宿っていた。
守るべき者が、またひとり増えたのだから。
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