第29話 凍りついた心がほどける時
ドレークたちが去ったあと、村はいつもの平穏を取り戻した。
風は穏やかに家の屋根を撫で、子どもたちの笑い声が遠くで響き、木槌の音が再び日常を告げていた。
――だが、それらすべてが薄紙一枚隔てた向こう側の景色のように思えた。
俺の胸の奥には、ざらついた感覚がまだ残っていた。
拭おうにも拭いきれない、不穏で湿った影のようなもの。
あの奴隷商の言葉。護衛の目に浮かんだ、あからさまな欲と支配の色。
そして――フリシア。
彼女が震えていた理由を、俺はようやく確信した。
彼女は、助けを求めていた。追われていた。
だから俺は、彼女が休んでいる部屋へと足を向けた。
しかし、扉の前に立った瞬間、肺が危険を知らせてきた。
――空気が異常に冷たい。
ただ冷たいのではない。
皮膚に触れた瞬間に、肉の奥へ突き刺さるような、刺す冷気。
まるで冬の夜明け前に、凍りついた湖に指を沈めたような。
白い霧が、扉の隙間から吐息のようにもれていた。
部屋の温度が、外より極端に低いのがわかる。
「……まずいな」
俺は即座に判断した。
人間の身体は、この冷気に長く耐えられない。俺が入れば凍りつくだろう。
――だが、この村には、凍てつく夜より静かに歩む者がいる。
「リヴ」
ネクレアである彼女ならこの冷気でも耐えれると思った。
「行ってやってくれ。フリシアを頼む」
リヴは小さく頷く。
俺が扉を開けたなら、ドアノブごと霜に覆われていただろう。
だがリヴは迷いなく手を添え、すっと押し開けた。
中から、ひときわ強い冷気が噴き出した。白い息のような霧が、廊下に流れだす。
俺は動かない。ただ見守るしかなかった。
時間は――ほんの数分のはずだった。
けれど、心は酷く長い時間を待っていた。
やがて、扉がゆっくりと再び開く。
リヴの腕の中に、白い髪が見えた。
フリシアはぐったりと力を失っていた。
その横顔は苦しげだったが、呼吸はある。
深い眠りに落ちたばかりのようだった。
「……大丈夫か?」
俺の声は自然と低くなった。
「動悸が強く、呼吸が乱れていました。ですが、手を握り、声をかけているうちに落ち着きました。眠りに落ちたことで、冷気は消えました」
リヴの声はいつもと変わらず淡々としていたが、その仕草は母親のように優しかった。
「ここでは他の人に迷惑がかかる。北へ運ぼう」
「はい」
◇ ◆ ◇
俺とリヴはフリシアを抱きかかえ、北のエリアへと向かう。
ネクレアが、争わず、怯えず、ただ寄り添っている空間。
その静けさが、眠るフリシアをそっと包んでいく。
空き家のベッドに寝かせ、毛布をかけた。
フリシアの顔はまだ怯えていた。
眠りながら、時折小さく震える。
まるで追いすがる恐怖を、まだ夢の中で見ているようだった。
俺はその横顔を見つめながら、ひとつ息を吐いた。
「……どう支えてやればいいんだろうな」
自嘲でも、弱音でもない。
ただ、本心の問いだった。
リヴは静かに答える。
「答えを急ぐ必要はありません。あの子も、まだ自分の心に追いついていません」
「……そうだな」
「けれど、ここは違います。追い立てる者も、縛る者もいない場所です。あの子は、少しずつ呼吸を取り戻せます」
リヴの横顔は、夜の中でも揺らがなかった。
俺は目を閉じ、小さく頷く。
「……なら、焦らず待とう。逃げてきたのではなく……生きようとして来たのなら」
「はい。あの子は、助けを求めてきたのです」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
その夜はそれで終わった。
リヴがフリシアを見守り、俺は自室で眠りについた。
◇ ◆ ◇
翌日、ラピが息を切らしながら伝えに来た。
「フリシアさんが、目を覚ましました!」
俺はすぐに北の空き家へ向かった。
扉を開けると、暖かい匂いが満ちていた。
リヴが作ったスープの香りだ。
フリシアはベッドに座り、ゆっくりとスプーンを動かしていた。
顔色はまだ悪いが、意識ははっきりしている。
「……そっ……村長さん」
俺を見るなり、肩が跳ねた。
「焦らなくていい。まずは食べてくれ」
俺は言葉を選ぶ。
氷の上を歩くような慎重さで。
「……すみません……ご迷惑を……」
「迷惑だなんて思っていない」
即答した。
フリシアの喉が震え、声は出なかった。
だが涙はこぼれなかった。まだ泣く余裕がないのだ。
スープを飲み終えるのを待ち、俺は静かに訊いた。
「昨日、何があった?」
フリシアは息を呑んだ。目を伏せ、言葉を飲み込み、声を閉ざす。
拒絶ではない。
恐怖だ。
話したら、拒まれる、居場所を失う。
その恐怖を、俺は知っている。
「……無理して話す必要はない」
俺は言った。
フリシアの肩が、微かに揺れた。
「けれど、俺にも隠していることがある」
俺は胸に手を置いた。
「俺のスキルは、ネクロマンシーだ」
フリシアの表情が震えた。
だが、逃げはしなかった。
「死人を操る者。忌まれ、恐れられる者。だがリヴたちは違う」
リヴがそっと立ち上がり、フリシアのそばに座った。
リヴの瞳は淡く光を帯びていた。
人間のものとは違う、夜明け前の月光のような冷たさ。
けれど、その奥には確かに自分として立つ意思が息づいていた。
「彼女たちをネクレアと呼んでいる。死から蘇った存在ではあるが、魂を縛られたアンデッドでもない。……死を越えて、それでもなお『生きたい』と願った者たちなんだ」
フリシアは目を見開いた。
俺は続ける。
「俺は、君に何も強制しない。ただ、この村は優しさだけで守られているわけではない。守るためには、知る必要がある」
「……守るために……」
「ああ。君を守るためにも」
沈黙が落ちた。
時間が止まったようだった。
やがて、フリシアは、小さく、震える声で言った。
「……私……」
リヴがそっと手を握った。
フリシアは唇を噛み、目を閉じ、そして言った。
「私は……ハーフエルフです」
その瞬間、空気が静かに震えた。
彼女は、ついに言葉にした。
誰からも拒まれ続けた自分を――自らの口で。
その姿は、弱くなんてなかった。
ただ、必死に生きようとする者だった。
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