第21話 選ぶ者たち
夜空に、不穏な音が響いた。
澄んだ風を裂くように、乾いた金属音が連続して鳴り響く。
村の警鐘――北の見張り台からの合図だった。
敵襲。
その二文字が頭の中に浮かんだ瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。
息を吸う間も惜しんで、俺はリヴと目を合わせる。
言葉はいらなかった。彼女は一瞬で状況を理解し、俺を抱きかかえる。
夜風が頬を打つ。
地面を蹴るたびに、リヴの髪が淡い栗色の軌跡を描き、月光を弾いて揺れる。
北壁に近づくにつれ、地鳴りのような唸り声と、鉄が打ち合う音が混じり合い、空気そのものがざらつき始めた。
松明の灯が揺れる。
その橙色の光の中、防壁の外ではガレオン率いる防衛班が必死に応戦していた。
「アンデッドだ!」
誰かの叫びが夜を切り裂く。
闇の中から、次々と影が現れる。
朽ちた肉を引きずり、節くれだった手で土を掻きながら、それでも生に縋るようにこちらへ這い寄る者たち。
その数は十を超えていた。
俺たちは壁の上から飛び降りた。
着地と同時に、リヴが前に出る。
拳を握り、闇の中を駆け抜けた。
空気を裂く音が響く。
リヴの拳が一閃し、迫り来るアンデッドの顎を正確に捉えた。
骨が軋み、アンデッドの体がぐらりと揺らぐ。
だが、彼女は追撃をしない。息の根を止めることではなく、動きを止めることを選んでいる。
そのとき、一体の影が地を滑るように跳ね、ガレオンたちの背後へ回り込んだ。
「くっ、速ぇ……!」
ガレオンの声に反応し、リヴが瞬時に方向を変える。
足元の砂を蹴り上げ、ほとんど音を立てずに間合いを詰めた。
影が振り向くよりも早く、彼女の肘がその胸元に突き刺さる。
呻きとともに、アンデッドが後方に吹き飛んだ。
それでもリヴは追い打ちをかけず、倒れた相手の上に膝をついて押さえ込む。
荒く息をするアンデッドの喉から、かすれた呻きが漏れた。人の声の残滓のような、壊れた音だった。
彼女は眉を寄せ、拳を構えたまま俺に視線を向ける。
その瞳には、いつものように怒りも恐怖もなく、ただ静かな意志だけがあった。
「クロム様、今です」
俺は頷き、彼女の傍らへ駆け寄る。
まだ戦える者を殺さずに抑え込む――それが、リヴの戦い方だ。
俺の役目は、その先にある。
俺は息を吸い、黒い霧を呼び出した。
ガレオンたちは剣で囲い込み、他のアンデッドの動きを封じている。
霧が俺の掌の中から広がり、闇そのものを呑み込むように膨らんでいく。
――冷たい。
空気が凍りつくような感覚の中、俺は踏み込んだ。
アンデッドの胸元へ手をかざし、低く呟く。
「還れ」
呪文のような言葉が夜に溶けた瞬間、黒い霧が爆ぜ、風が巻いた。
アンデッドの体が崩れ、粉のように地へ落ちていく。
ガレオンが押さえつけていた他の個体にも同じく力を発動する。
次々と塵となり、闇の中に吸い込まれるように消えていった。
だが――その中で、ひとつ。
黒い霧の中にありながら、形を保つ影があった。
その目が、ゆっくりと動く。
濁っていたはずの瞳に、かすかな光が宿った。
理性の欠片。かつて人であった証。
俺の喉がひとりでに鳴った。
胸の奥が熱くなる。
「……まだ、生きたいのか」
誰にともなく問いかける。
その者は震える唇で、かすかに頷いた。
その仕草に、かつての記憶を見た気がした。
家族を想う者、夢を追っていた者――この地で死にきれなかった魂の欠片。
俺はそっとその額に手を当てる。
温もりなどない。だが、確かに『心』がそこにあった。
「ならば――ネクレアとして、生き直せ」
淡い光が彼の体を包み込む。
腐敗していた皮膚が再び張りを取り戻し、黒ずんだ血が清らかな色に変わっていく。
やがて彼の体は静かに光を帯び、霧の中で新しい息を吐いた。
ネクロマンサーによって再び生命の形を得た存在――ネクレア。
それは俺が背負う罪であり、希望でもあった。
すべての者が蘇りを望むわけではない。
霧の中で、静かに眠りを選ぶ者もいた。
俺はその意思を尊重し、両手を組んで祈る。
光が細くなり、魂が夜風に溶けて消えていくとき、胸の奥に小さな痛みが走った。
教会の教えでは、ネクロマンサーによって生み出されたアンデッドは輪廻に戻れないという。
だが、俺の還した魂は……どこへ行くのだろう。
天か、地か、それとも俺の知らない世界か。
その答えを知る術はない。
けれど、彼らの表情には確かに安らぎがあった。
それで十分だった。
そして――その中に、ひとり。
リヴが取り押さえていた、あの素早い影。
他のアンデッドが消えゆくのを見届けるように、彼は俺の前で立ち止まった。
その瞳には、人間らしい迷いが残っていた。
「……僕は、まだ生きたい。あなたの役に立ちたい」
掠れた声だったが、そこに宿る意思は確かだった。
俺はしばらく黙って見つめ、それから静かに頷いた。
「なら、共に来い。アストレイで生きよう」
少年は深く頭を垂れた。
その姿は、再び夜の灯の下に生まれ落ちた新しい命のようだった。
◇ ◆ ◇
俺たちの日々は変わった。
北のネクロス領を広げるにつれ、アンデッドの襲撃は昼夜を問わず続いた。
ネクレアとなったヴァリアさんの力はさらに磨かれ、今では範囲を指定し、常時北側に結界を展開できるようになった。
夜明け前、結界の光が薄闇の中で淡く揺らめく。
その光を見るたびに、人々の肩の力が少し抜けるのがわかる。
ヴァリアさんは言っていた。
『生きている人たちの笑顔を見られるのが、何より嬉しい』と。
その笑顔に、どれほど救われているのかを俺は知っている。
俺もまた、アンデッドたちに対して積極的にネクロマンサーを使うようになっていった。
魔物のアンデッドはいまだ解くことができないが、人として生きた者なら救いはある。
ネクレアの数は少しずつ増え、今では二十人に届こうとしていた。
彼らはもう死者ではない。
この地を守る、静かな守り人だ。
そして彼らが増えるたび、俺自身の力も増していった。
繋がりが強くなる。
離れていても、彼らの息遣いがわかる。まるで心が糸で結ばれているように。
どこまで離れても繋がっていられるのか。
その限界を試したことはない。
もし、糸が切れたら――二度と彼らの声を聞けなくなる気がして怖かった。
戦えるネクレアたちは、ガレオンのもとで警備隊として働いている。
新しい仲間も増え、アストレイの守りは確実に厚くなっていた。
だがその一方で、救いを求めて村にやってくる者たちの中には、危うい影もあった。
明らかに盗賊崩れのような風貌の男。過去に罪を犯したと噂される者。
その眼差しには、諦めと恐れが混じっていた。
それでも――俺は追い払わなかった。
焚き火の明かりの前で、俺は彼らに言った。
「ここでは過去よりも、これからを見せてもらう。それができないなら、去ってもらう」
長い沈黙が流れた。
やがて、彼らは一様に頷いた。
その瞳の奥に、小さくも確かな光を見た。
アストレイには――何かがある。
生者も死者も、少しずつ変えていく、不思議な力。
絶望が、希望へと姿を変えていく。
この夜が、何度訪れようとも、俺はまた、みんなと一緒に立ち上がる。
生きることを選んだ者たちと共に。
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