第114話 選んだ答え
結婚式当日の朝は、驚くほど静かだった。
城内は早くから人の気配で満ちているはずなのに、俺の耳に届くのは、自分の呼吸の音ばかりだった。
一つ、息を吸う。
それだけで、胸の奥がわずかに軋む。
落ち着かない。
だが、それは不安とは少し違う。
覚悟は、できている。
何度も、何度も、自分にそう言い聞かせてきた。
それでも――扉の前に立つと、足が一瞬、止まった。
この扉を開ければ、もう後戻りはできない。
今日という一日は、選ぶと決めた未来へ、踏み出す一歩となる。
俺は、短く息を吐き、軽くノックをした。
「準備はでき……」
そう言いかけて、扉を開けた瞬間――言葉が、喉で止まった。
そこにいたのは、俺の知っているリヴではなかった。
柔らかな光をそのまま縫い留めたような、純白のドレス。
普段は黒を基調としたメイド服に身を包み、静かに佇む彼女が、今日は違う。
飾り気のない優しさはそのままに、確かにそこには、特別な輝きがあった。
まるで、この日のためだけに存在していたかのような――そんな錯覚すら覚える。
「……綺麗だ」
気づけば、声が漏れていた。
自分でも驚くほど、何の飾りもない、率直な言葉だった。
「……我慢できなかったんですか?」
くすりと笑いながらそう言ったのは、リヴの背後でドレスの最終調整をしているツムギだった。
「まだ見せる予定じゃなかったんですけど」
「心配しなくても、一番きれいに仕上げたわよ」
そう言って化粧道具を手にしているのはドレイナだ。
普段は冷静沈着な彼女が、今日はどこか誇らしげに胸を張っている。
「リヴをイメージして作ったんだから」
ツムギは、少し自慢げに言った。
「派手すぎず、でも地味すぎず。強くて、優しくて、誰かのために立ち続ける人。その全部を、形にしたの」
リヴは、少し照れたように視線を伏せている。その仕草一つが、胸に刺さる。
俺は、胸の奥が締めつけられるのを感じながら、二人に深く頭を下げた。
「……ありがとう。本当に」
「どういたしまして」
「当然のことをしたまでです」
短い言葉だったが、その裏にどれほどの時間と想いが込められているか、分からないほど俺は鈍くない。
ふと、リヴが不安そうにこちらを見た。
「……こんなにしてもらって、本当に、よかったのでしょうか」
その声は小さく、わずかに揺れていた。
まるで、幸せであることを恐れるように。
俺は、迷わず答えた。
「もちろんだよ」
一歩、彼女に近づく。
「今日くらい、誰よりも幸せでいてほしい」
リヴは、少し驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
「さあ、行こうか」
俺は手を差し出す。
「みんな、待ってる」
リヴは、少しだけ躊躇い、それから、その手を取った。
その温もりが、やけに鮮明だった。
まるで、今この瞬間を、身体に刻みつけるかのように。
◇ ◆ ◇
式場は、祝福の空気に満ちていた。
アストレイの人々。共に戦い、共に国を築いてきた仲間たち。
そして、遠方から駆けつけてくれた客人たち。
ヴァルメイアからは、王の代理として父と母が来ていた。
久しぶりに見る二人の姿に、胸の奥が少しだけ、くすぐったくなる。
「立派になったな」
父はそう言って、俺の肩を叩いた。
母は何も言わず、ただ優しく微笑んでいる。
弟のジーノもいた。
「お前まで来るとは思わなかったよ」
「そりゃ来るだろ。……たった一人の兄の、晴れ舞台だぞ」
照れ隠しのような笑顔だった。
ギルディアからは、ヴィゼル王とラセル。
ヴィゼル王は相変わらず布で目を隠していたが、今日はそれがやけに豪華に見えた。
「めでたい日だな、クロム」
「ありがとうございます」
ラセルは、いつもの商人の顔ではなく、領主として静かに頷いていた。
バルドリアからは、すでにバハドール王と四領主が、酒を手に盛り上がっている。
「待ちきれん!」
「早く始めろ!」
相変わらずだ。
そんな喧騒の中、俺とリヴは、ゆっくりと祭壇へと向かう。
そして――そこに立っていたのは、セラだった。
「……まさか、セラが」
「神父の代わり、ってことで」
セラは肩をすくめ、軽く笑う。
「こういう役、案外嫌いじゃないんです」
その言葉とともに、式場が静まった。
「ここに集った皆の前で、二人は誓いますか」
俺は、リヴを見る。
彼女は、真っ直ぐに俺を見返していた。
「俺は、誓う。リヴを愛し、尊重し、共に在った時間を、生涯の誇りとする」
「……誓います」
リヴの声は、澄んでいて、震えていなかった。
「たとえ形が変わっても、あなたと共に在った時間は、私の存在そのものです。この愛を、私の生の証として、胸に刻みます」
次に、指輪の交換。
バラクに作ってもらった、質素だが確かな重みのある指輪を、互いの指にはめる。
そして――口づけ。
触れるだけの、短いものだった。
「……リヴ。今、幸せか」
俺は、小さく問いかけた。
リヴは、迷いなく答える。
「はい。とっても」
その瞬間だった。
彼女の身体が、淡く光り始めた。
ざわめきが、式場を包む。
戸惑い、驚き、言葉にならない声。
だが、俺は、動じなかった。
覚悟していた。
「……今まで、ありがとうな」
俺は、彼女を抱きしめながら言った。
「俺のために、何度も苦労をかけた。それでも、そばにいてくれた。笑ってくれた。俺は……それに、何度も救われた」
腕の中の温もりが、確かにそこにある。
「弱いところも、汚いところも、全部見せてしまったのに……それでも、俺を選んでくれて……俺の人生に、生きる意味をくれた」
声が、どうしても震える。
「だから……ありがとう。俺は、リヴと生きられて、本当に幸せだった」
リヴは、胸元に顔を埋めたまま、ゆっくりと息を整し――そして、顔を上げた。
「クロム様……」
その瞳には、涙が滲んでいたが、不思議と恐れはなかった。
「私こそ……ありがとうございます。居場所のなかった私に、居場所をくれて。ネクレアとなった私を、ひとりの人として見てくれて……」
彼女は、俺の胸に手を当てる。
「あなたと出会えたから、私は生きることを選べました。恐れながらも、喜びを知ることができました」
小さなな声で、彼女は続ける。
「愛されることが、こんなにも温かいものだと……あなたが、教えてくれたんです」
視線が絡む。
「だから……この想いだけは、どこへ行っても消えません。あなたを愛せたことが、私の誇りです」
リヴは、涙を浮かべながら、そう答えた。
俺は、もう言葉を探さなかった。
ただ、彼女を強く、強く抱きしめる。
「……リヴ」
「はい」
最後に、もう一度。
今度は、離れることを知った上で――愛を確かめ合うように、深く、口づけを交わした。
そして強く、抱き合う。
光が、彼女を包む。
次の瞬間――
俺の腕の中に残っていたのは、白いドレスと、指輪だけだった。
◇ ◆ ◇
式場は、静まり返っていた。
「……これで、よかったの?」
サリアが、そっと問いかける。
俺は、震える声で答えた。
「……これで、よかったんだ」
これは、生を共に選んだ証だ。
永遠に縛らない。引き留めない。愛したからこそ、手放す。
分かっている。
分かっているはずなのに――
俺は、人目もはばからず、声を上げて泣いた。
子供みたいに、嗚咽を漏らして。
サリアは、何も言わず、ただ俺に寄り添ってくれた。
その温もりだけが、今の俺を、この世界につなぎ止めていた。
――それでも。
後悔は、なかった。
これが、俺の選んだ答えだ。
生きて、選び続けるということ。
その責任を、俺は、最後まで背負っていく。




