第110話 愛が還る場所
すべて、終わった。
呪縛の鎖は完全に消え去り、広間を満たしていた濁流のような魔力も、霧が晴れるように薄れていく。
壁に染みついていた怨嗟の気配も、血の匂いも、今はただ遠い記憶の残滓のようだった。
耳の奥で鳴り続けていた戦いの反響が、少しずつ静まっていく。
剣を振るう理由も、踏み出す覚悟も、もう必要ない。
俺は喰闇を下ろし、深く息を吐く。
肺の奥に残っていた重たい空気が、ようやく抜けていく感覚があった。
これで、終わりだ。すべての元凶は断ち切った。
「……あ……」
微かな声が、静まり返った広間に落ちる。
それは、床を這うように、かすかに響いた。
視線を向けると、そこにいたのはメルクアだった。
呪縛から解き放たれた彼女の身体は、すでに人の形を保つのがやっと、という状態だった。
肌はひび割れ、そこから砂のような粒子となり、魔力が零れ落ちていく。
それでも彼女は、必死に前へと進もうとしていた。
爪を床に立て、石を掻き、血と魔力の痕を引きずりながら。
その姿は、痛々しいほど必死で、そして、あまりにも弱々しい。
彼女の視線の先にあるのは、倒れ伏した二つの影。
アルドレインと、ルナリオ。
だが、一人と一匹は動かない。
魔力も、命の鼓動も、もう感じられなかった。
「……いかないで……」
メルクアの声は、震え、掠れている。
喉の奥から無理やり絞り出したような声だった。
それでも彼女は、止まらない。
無理やり生き永らえさせられていた身体。
愛という名の呪いで、縫い止められていた命。
限界は、とっくに超えている。
今こうして動いていること自体が、奇跡に近い。
俺は歯を食いしばり、彼女の前に立った。
足が、自然と動いていた。
メルクアは、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳に、憎しみはなかった。狂気も、歪んだ執着も、もう残っていない。
そこにあったのは、ただ迷子のような不安と、居場所を失った子どものような怯え。
俺はそんなメルクアに手を伸ばし、ネクロマンシーを発動する。
黒い魔力が、静かに、穏やかに彼女を包み込む。
メルクアの身体が、ゆっくりと変質していく。
死者と生者の境界を越え、ネクレアへと近づいていく過程。
だが、崩壊は止まらない。ほんのわずか、遅くなっただけだ。
「……どうして……?」
問いかけは、弱々しい。
それでも、その視線ははっきりと俺を捉えていた。
「俺のネクロマンシーは、メルクアのとは違う」
静かに、そう告げる。
「愛が発動条件じゃない。誰かを縛るための力でもない」
彼女は、少しだけ目を見開いた。
「……そうじゃなくて……」
声が、かすかに震える。
「どうして……敵の……私に……」
「……メルクアも、騙されていただけだ」
俺は、視線を横へ向けた。
「あいつに」
そこにいるのは、崩れ落ちつつあるチェイナード。
鎖の鎧は砕け、身体の輪郭は曖昧になり、存在そのものが薄れていく。
チェイナードが、かすかにこちらを見た。
焦点の合わない目で、それでも必死に口を動かす。
「……メルクア……様……」
その声は、哀れですらあった。
「……私に……愛を……」
メルクアは、その言葉を聞き、ゆっくりと立ち上がる。
そして、ふらつきながらチェイナードへと向かった。
「待て」
俺は思わず、声を張った。
だが、彼女は首を振る。
「……確かめたいの」
その言葉は、静かで、決意に満ちていた。
メルクアは、チェイナードの前に立つ。
奴の顔に、安堵と期待が浮かぶ。縋るような、救いを求める表情。
「あぁ……メルクア様……」
彼女は、ゆっくりと手を伸ばす。
ネクロマンシーを、チェイナードに向けて発動しようとする。
だが――何も起きない。
ネクロマンシーは、応えなかった。
沈黙が、重く落ちる。
メルクアは、すべてを悟ったように、静かに息を吐いた。
「……やはり……」
そして、はっきりと言い放つ。
「私はもう、あなたを愛していないの」
チェイナードの瞳が、見開かれる。
「だって……ネクロマンシーが、発動しないもの」
愛されていない。
その事実が、奴を根底から打ち砕いた。
「……そんな……」
崩れ落ちるように、チェイナードは絶望の表情を浮かべる。
身体が、砂のように崩れ、風に溶けていく。
「……愛……を……」
その声を最後に、奴は塵となって消えた。
何も、残らなかった。
メルクアは、静かに振り返る。
過去から逃れるように。
そして今度は、アルドレインとルナリオへ向かい、ネクロマンシーを放つ。
ネクロマンシーは、確かに応えた。
だが、足りない。
俺は、彼女の隣に立つ。
「……一緒にやろう」
メルクアは、驚いたように俺を見て、そして、ゆっくりと頷いた。
二つのネクロマンシーが、重なる。
支配ではなく、自由を奪うのでもない。
寄り添い、支え合うための力。
その光景の中で、アルドレインが、ルナリオが、息を吹き返した。
「メルクア……」
「あぁ……アルドレイン様……ルナリオ……」
二人と一匹の距離が、ゆっくりと縮まる。
メルクアは、震える腕でアルドレインの胸に触れた。
その指先は頼りなく、今にも崩れそうだった。
「……ごめんなさい……」
絞り出すような声。
それは、今まで口にできなかった言葉だった。
「私……あなたたちを……たくさん、苦しめた……」
俯いたまま、メルクアは言葉を続ける。
「一緒にいるつもりで……でも……」
それ以上、言葉が続かなかった。
アルドレインは、ゆっくりと首を振り、穏やかな声音で答えた。
「……いいんだよ、メルクア」
その声に、責める色はなかった。
「君は、必死だった。それだけだ。それに……こうして、また会えた」
彼は、そっとメルクアを抱き寄せる。
「それで、十分だ」
ルナリオが、くぅ、と小さく鳴きながらメルクアの顔に近づく。
ざらりとした舌が、彼女の頬を、涙ごと舐め取った。
「……っ」
思わず、メルクアが息を詰まらせる。
もう一度、ルナリオは彼女の顔を舐める。
もう大丈夫だと言うように。
その仕草に、メルクアの肩が大きく揺れた。
「……ありがとう……ありがとう……」
声が、嗚咽に変わる。
二人と一匹は、そのまま強く抱き合った。
声を上げ、子どものように泣きながら。
そこにあったのは、喜びだった。
失われた時間を取り戻すことはできなくても、そこにある温もり。
だが、それも長くは続かない。
抱き合う三つの身体は、少しずつ、崩壊していく。
「……ありがとう……」
メルクアとアルドレインが、感謝を込めてそう言った。
ルナリオは、天へ向かって雄たけびを上げる。
魂の底からの、礼の咆哮。
そして、三つの存在は、光となって消えていった。
跡には、何も残らない。
ただ、澄んだ空気だけが、そこにあった。
俺は、静かに目を閉じる。
こうして、愛に惑わされた、一人のネクロマンシーの物語は、幕を閉じた。
第十二章はここで完結です。
第十二章ではついにネクロスとの決着。
ネクロスとの決着を終えたクロムがどのような決断をするのか、楽しみにして頂けたら幸いです。
※作者からのお願い
投稿のモチベーションとなりますので、この小説を読んで「続きが気になる」「面白い」と少しでも感じましたら、↓の☆☆☆☆☆から評価頂き作品への応援をよろしくお願い致します!
お手数だと思いますが、ブックマークや感想もいただけると本当に嬉しいです。
ご協力頂けたら本当にありがたい限りです。




