第109話 夜明け前の空の色
砕けた城壁の向こうから、光が降りてきた。
それは戦場を焼き払うような眩しさではなかった。
血と瓦礫と怨嗟に満ちたこの広間に、そっと差し込む――夜明け前の空の色。
まだ朝と呼ぶには早い、だが確かに闇が終わると告げるような光だった。
「……どうして、ここに」
声が、自然と零れ落ちた。
聖大陸にいるはずの人間。戦場とは最も遠い場所にいるはずの存在。
それが、今、俺の目の前にいる。
白き翼を畳み、静かに地に降り立った彼女は、真っ先に俺を見て、微笑んだ。
「国家承認式の時、言ったじゃないですか」
その声は、驚くほど穏やかだった。
まるで礼拝堂で語りかけるかのような声音。
「あなたは、一人ではありませんって」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
重く沈殿していた疲労と孤独の底に、静かに波紋が広がった、その瞬間だった。
セラの腕の中で、小さな影が身じろぎする。
無邪気すぎるほど無邪気な笑顔。
「楽しかったー!」
この場の空気など微塵も気にしていない、屈託のない声。
「……リリリ」
そして、その背後、白い翼にしがみつくように、もう一人の女性が張り付いていた。
「セラ! あんたもうちょっと安全飛行しなさいよ!」
怒鳴り声と同時に飛んできた、鋭い視線。
オルタリアの聖女候補、ノクティア。
彼女は翼から降りるなり、深く息を吐き、周囲を睨みつけた。
「壁を壊してもらったのはね」
後方から、リリラの声が重なる。
肩で息をしながらも、その目ははっきりと前を見据えていた。
「リリリが近づいてきてるのが分かったからなの」
なるほど、と理解が追いつく。
だから、あの一瞬。だから、あの無茶な指示だったのだ。
セラは広間を見渡し、初めて戦況を真正面から捉えた。
わずかに、その表情が引き締まる。
「ネクロスが一斉に動き出したと報告があり、オルタリアから、ヒュマリア大陸へ援軍が出ています」
「……それと」
ノクティアが言葉を引き継ぐ。
「あんたの国も、故郷もね、オルタリアの聖騎士が向かったわ。今のところ、無事よ」
無事よ、というその一言。
それだけで、胸の奥に絡みついていた焦燥が、ほんの少しだけ緩んだ。
「リリリちゃんには、道案内をお願いしたんです」
セラは、腕の中の少女を優しく見下ろす。
「クロムさんたちと一緒にいる、リリラちゃんのところまで」
「えへへ!」
誇らしげに胸を張るリリリ。
だが、その光景を、歯噛みするように睨んでいる者がいた。
「……聖女候補が、二人、ですか」
チェイナードの声は、低く、わずかに掠れていた。
その表情に、初めて明確な歪みが浮かぶ。
それでも、彼は笑った。
「ですが――私たちの愛には、敵いません」
視線が、鎖に縛られたメルクアへ向く。
「メルクア様。もっと……力を」
その呼びかけと同時に、メルクアの身体から、再び魔力が溢れ出した。
噴き上がる魔力は、濁り、歪み、悲鳴のような圧を伴っている。
彼女の身体が震え、苦悶が顔に浮かぶ。
俺は歯を食いしばる。
「ノクティア! 聖域を使ってくれ!」
「別にいいけど」
肩をすくめながら、ノクティアが答える。
「ネクロマンサーのあんたと、ネクレアは――」
「大丈夫です」
セラが、一歩前に出た。
「私の天使の加護で、クロムさんたちへの聖域の影響は除外します」
はっきりと、迷いなく告げる。
「その代わり……私は動けません。決着は、クロムさんたちにお願いします」
「助かる」
俺は短く答えた。
セラが祈り、ノクティアが杖を掲げる。
聖域が展開されると、空気が一変した。
神聖な圧が、広間を覆う。
メルクアの動きが鈍り、アルドレインの巨体が、苦しげに軋み、ルナリオが低く唸り、足を止めた。
「……ぐっ」
チェイナードもまた、膝をつきかける。
「まだ、終わりではありません!」
叫びと共に、彼は立ち上がった。
「メルクア様! すべての愛を、私に!」
その言葉を合図に、アルドレインとルナリオは、力を失ったように元の姿へと戻っていく。
対照的に、チェイナードは変貌していった。
全身を鎖の鎧が覆い、無数の鎖が空間を埋め尽くす。
迫りくる鎖の先にある狙いは、聖域を維持するノクティア。
「させるか! リヴ、こっちへ!」
叫び、手を伸ばす。
「はい、クロム様」
リヴと手を重ねた瞬間、意識が溶け合う。
魂共鳴。
……だが今までの魂共鳴とは違う。
魂共鳴をしたのに意識は俺のままだ。
リヴの身体を借り、俺の精神が前に出ている。
『最後はクロム様、お願いします』
『あぁ、任せろ』
俺は喰闇を握る。
背中から、黒い翼が顕現する。
翼をはためかせ、空へ舞い上がる。
迫りくる鎖の嵐を、紙一重で潜り抜ける。
風を切り、鎖を弾き、一直線に――チェイナードへ。
視界の先で、奴が目を見開いた。
メルクアへと呪縛している、あの鎖……
それもろとも、断つ!
喰闇を構え、呼吸を整える。
翼が、ひときわ大きくはためいた。
空を裂く感覚とともに、身体が前へと運ばれる。
その一瞬、意識は刃へと収束した。
すべてが、静まる。呼吸も、迷いも、ここにはない。
刃を引き、心を澄ませる。
空中で放つ、必殺の居合。
振り抜かれた刃は、風と闇を伴い、一直線に走った。
呪縛の鎖が、音もなく断たれる。
その瞬間、世界が――息を止めた。
チェイナードの身体が、裂けていた。
「あぁ……メル……クア……」
かすれた声が、闇に溶けた。
静寂。
この一撃に名があるとすれば、シグレの国で語られる言葉。
光風霽月。
心が清らかで、何のわだかまりもなく、澄み渡る境地。
すべてを終わらせ、濁りを晴らすための一太刀。
鎖が崩れ、消え、メルクアが膝をつく。
黒い翼が、消えていく。
最後に残ったのは――
澄んだ、空気だけだった。




